2・告白
その日の長い夜は、終わりの見えない自問自答の連続だった。
自分の部屋、天井の木目を数えながら、耳の奥にこびりついた「包丁を研ぐ音」を反芻する。
相談? できるはずがない。学校の教師や警察に駆け込んで、なんて説明すればいい。
「俺には他人の心が聞こえる能力があって、昨日体育館裏で、ある女子生徒が今日包丁で三人を刺し殺すという計画を聞いてしまったんです」
……信じてもらえるはずがない。仮に信じてもらえるとしても、それはきっと全てが終わってからだ。それでは遅すぎる。
親にだって、この能力のことは一度も話したことがない。小さな頃から、他人の汚い本音が漏れ聞こえるたびに顔を歪めていた俺を、親は「神経質な子だ」と心配していた。もし本当のことを言っても、気味悪がられるか、病院に連れて行かれるのが関の山だ。
「……いや、悩んでも仕方ない。とにかく、説得してみよう」
明け方、鏡に映った自分の酷いクマを見て、俺は腹を括った。正論を並べたところで、あの地獄のような殺意を抱えた彼女が「はい、そうですか」と包丁を捨てるはずがない。かといって、力ずくで取り押さえる自信もない。それでも、何もしないまま惨劇を見過ごすことだけは、どうしてもできなかった。
俺は家族が起き出す前に家を出た。
校門が開いた数分後には、正門の奥に立っていた。
校内からは「殺意」は聞こえない。彼女よりは早く着いたらしい。……だが、ここからどうする?
遠くから、テニス部の朝練だろうか、乾いた打球音と「おねがいしあーす!」という脳天気な掛け声が聞こえてくる。
平和だ。あまりにも平和すぎて、これからここで血の海ができるなんて、悪い夢を見ているような気分になる。
だが、その夢は、向こうから歩いてくる「影」によって現実へと引き戻された。
昨日切られたばかりのボサボサの髪を揺らしながら、うつむき加減で歩いてくるその女子生徒は、周囲の澄んだ朝の空気を塗りつぶすような、どす黒い質量を纏っていた。
彼女の肩にかかったカバン。そこから漏れ出す「殺意」は、昨日よりもさらに鋭く、結晶化していた。
(『……重い。でも、これでいい。アイツらが来るまで、ここで待つ……』)
脳を直接、針で刺されたような感覚。
ブリザードよりも冷たく、けれど復讐心でマグマのように熱く煮え滾る、矛盾した殺意。
生半可な説得では、絶対に届かない。一言でも掛け違えれば、彼女は自分すら「敵」と見なして排除されかねない。
それでも必死に、とにかく声をかける。まずは、自己紹介だ。
「……あの、ちょっと、いいですか?」
震える声を絞り出す。
彼女が足を止めた。焦点の合わない、死人のような瞳がゆっくりと持ち上がり、俺を捉える。
「……どいて」
声は、枯れ木の擦れるような音だった。
「一年一組の、御心悟です」
俺は必死に、自分の名前を名乗った。一人の人間として、彼女の前に存在していることを示したかった。
彼女はわずかに眉を寄せ、面倒くさそうに己の情報を口に出した。
「……二年一組の、尽櫛殻果。一年生が、私に何の用」
つくしさやか。それが、彼女の名前。
彼女のいる二年一組は、俺の教室である一年一組の真上だ。天井と床を一枚挟んだだけの、縦に並んだお隣さん。
そんなに近くにいたのに、俺は昨日まで、彼女の絶望に気づきもしなかった。
昨日笑っていたあの女子生徒たちが来るまでは、おそらくまだ充分すぎるほど時間がある。
だが、彼女の心はもう、ここにはない。復讐を果たし、すべてを赤く染め上げた凄惨な未来に、彼女の意識はすでに飛んでしまっていた。
「用がないなら、バイバイ。……忙しいの、私」
彼女が俺の横を通り抜けようとする。
その瞬間、俺の脳内に警報が鳴り響いた。
ここで逃がしたら、終わりだ。
彼女は正門の脇で「獲物」を待ち、やがてとり返しのつかない一線を越える。
何か。
血塗られた未来へ行こうとする彼女を、今この瞬間に引き戻すための、強烈なショックを与えられる言葉を。
彼女が絶対に足を止めてしまうような、殺意すら吹き飛ばすほどの、あり得ないノイズを。
支離滅裂な飛躍を遂げた俺の思考は、もう制御不能だった。
凄惨な殺人を止めたいという正義感だったのか。
一睡もしていない寝不足による、思考のハンドルのコントロール不足だったのか。
はたまた、いじめ抜かれ、自分の髪を掃き集めていた彼女を憐れみ、助けたいと心の底から願ってしまったからなのか。
自分でも分からない。ただ、気がついたら俺はこう叫んでいた。
「待ってください!!」
俺は、喉が裂けんばかりの勢いで、彼女の背中に向かって叫んだ。
「俺と!!付き合って欲しいんです!!」
朝の静寂が、粉々に砕け散った。
今にも朝練のためにグラウンドへ向かおうとしていた数人の生徒たちが、驚愕してこちらを振り向いた。
「えっ……?」「告白?」
ざわざわとした驚きの思考の声が、周囲から俺の脳に津波のように流れ込んでくる。
そして、何よりも。
目の前のさやか先輩が、幽霊でも見たかのように目を見開き、ゆっくりと、信じられないものを見る目で俺の方を振り返った。
彼女の頭の中に渦巻いていた「殺す、殺す、殺す」という真っ黒な連呼が、一瞬にして消し飛んだ。
代わりに、そこには真っ白な、広大な「驚愕」だけが広がっていた。
「……は?」
彼女の口から漏れたのは、殺意でも拒絶でもなく、ただ呆然とした困惑だった。
俺は心臓が口から飛び出しそうなほど打ち鳴らされているのを感じながら、彼女の瞳を真っ向から見つめ返した。
この、世界で一番場違いな「告白」という名の楔だけが、今、彼女を地獄から引き剥がせる唯一の手段なのだと、自分に言い聞かせながら。




