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17・逆恨み

 保健室での説明を終えた帰り道。俺は隣を歩くさやか先輩の、相変わらず騒がしい脳内放送を聞き流しながら、駅へと続く緩やかな坂道を下っていた。


『今日は駅の自販機でアイス食べようかな!せっかくだし、悟君と分け合って間接キス……は、まだ早いかな?ううん、でもちゃんとしたキスの練習だと思えばアリかも……。えへへ、悟君、どんな顔するかな……っ!』


 脳内に響く思考は、夕焼け空のように平和でお花畑全開だ。だが、俺の胸の奥には、保健室で耳にしたあの冷ややかな『チャンスだ』という声が、消えない棘のように刺さっていた。


「ねえ、悟君。聞いてる?」


 不意に袖を引かれ、俺は意識を現実に戻した。さやか先輩が少し不安げに俺の顔を覗き込んでいる。俺は反射的に彼女の思考の表層を掬い取り、先回りして答えた。


「……ああ。校内で最近、盗難事件が発生しているっていう話ですよね?」


「えっ、すっごーい!まだ言っていないのに、なんで分かったの?やっぱり私たち、心が通じ合ってるんだね!」


 パッと顔を輝かせる彼女に、「まあ、そんなところです」と適当に相槌を打つ。実際には筒抜けなだけなのだが。


 さやか先輩は声を潜め、怖がるように肩をすくめた。


「そうなの。腕時計とか現金とか、結構被害が出てるみたいで。……中には、水泳部の女子が、練習中に下着を盗まれたっていう話まであるらしいよ。学校の中に変な人がいると思うと怖いよね」


 彼女の語る不謹慎な実害の数々を聞きながら、俺は思考を巡らせる。


 もし、その窃盗犯があの保健室に集まったメンバーの中にいたのだとしたら。「救護所に一人でいる時間」は、周囲の目を盗んで物品を物色する絶好の機会――つまり「チャンス」に直結する。


 しかし、確証はどこにもない。あの冷徹な声の主が、ただのコソ泥なのか、それとももっと質の悪い何かを企んでいるのか……。


 あるいは逆に、何か良いこと――例えば、俺が期待していたように「騒がしい連中から離れて一人になれること」そのものを純粋に喜んでいる、同類による心の声だったという可能性も否定できない。自分と同じような考えを持つ人間が、あの場にたまたまいただけかもしれないのだ。


(……考えすぎか? いや、あの声の主は……)


 疑念を深めていたその時、俺の「センサー」が、一際異質な反応を捉えた。


 場所は、駅へと続く住宅街の路地裏。


 夕闇が迫り、街灯が灯り始めた静寂の中。前方にある電柱の陰から、どす黒い熱を帯びた、焼き切れるような「殺意」が漏れ出していた。


『……あいつさえ。あいつさえ、いなければ。あの女のせいで、私の人生はめちゃくちゃだ。殺してやる。地獄に落としてやる……っ!』


 心臓がドクリと跳ねた。


 さやか先輩の思考は、まだ『今日も楽しかったな。明日も楽しみだな』という無邪気な色に染まっている。だが、その十数メートル先には、狂気そのものが潜んでいる。


(……待て。あの姿、見覚えがある)


 電柱の陰に隠れているのは、以前、教室でさやか先輩を執拗に追い詰めていた、あのいじめっ子三人組のリーダーだ。


 あの時、俺が彼女たちの「心の声」を暴き、クラス中の晒し者にした結果、彼女は主犯として厳しい処分を受け、学校での居場所も、積み上げてきたカーストもすべてを失った。


 その逆恨みの矛先が、今、最悪の形で牙を剥こうとしている。


 彼女の手に握られているのは、自宅から持ってきたのか。鈍く、けれど確実に命を奪える輝きを放つ、一本の包丁だった。


(このまま進めば、さやか先輩が刺される……!)


 相手は完全に理性を失っている。背後からだろうが正面からだろうが、見境なく突き立てるつもりだ。


 俺は咄嗟に足を止め、隣を歩くさやか先輩の肩を掴んだ。


「――さやか先輩。ここで待っていてください」


「え? 悟君? どうしたの、急に怖い顔して」


「いいから、一歩も動かないで。いいですね?」


 有無を言わせぬ口調に、さやか先輩は「う、うん」と戸惑いながらも立ち止まった。


 俺は彼女を背後に残し、一人で殺意の源泉――電柱の陰へと歩み寄った。


 相手が潜んでいるのは分かっている。なら、下手に不意打ちを食らうより、こちらから引きずり出して、威嚇して追い払うのが最善だ。そう判断した。


「……隠れてないで、出てこい。そこにいるのはわかってるんだ!」


 俺はあえて声を荒らげ、周囲に響くように叫んだ。


「通報されたくなければ今すぐ消えろ! あんたが何をしようとしているか、全部お見通しなんだよ!」


 電柱の影が、びくりと震えた。


 そして、ゆっくりと、狂気に充てられた瞳の女が姿を現した。髪は乱れ、制服は薄汚れ、その手に握られた包丁が小刻みに震えている。


 だが、俺の計算は一つだけ、致命的に狂っていた。


 リーダーにとって、自分を破滅させた直接の引き金は、あの時教室で立ちはだかり、自分の内面を白日の下に晒した「俺」という存在そのものでもあったのだ。


「……あんた。あんたもよ、御心悟……っ!」


 彼女の脳内から、どろりとした黒い殺意が溢れ出し、標的をさやか先輩から俺へと完全に切り替えるのが見えた。


『こいつもだ。この男さえいなければ! 私の心を弄んで、笑いものにして! あんたたちが幸せそうに笑ってるのが、耐えられないのよ……!』


「さやか先輩!逃げて――!」


 叫ぼうとした俺の言葉より先に、彼女の理性が完全に決壊した。


「あんたさえいなければ! 死ね、死んじゃえよぉぉぉっ!!」


 獣のような咆哮。


 夕闇の路地、逃げ場のない狭い空間で。


 銀色の刃を逆手に持ち、狂乱したリーダーは、真っ直ぐに俺の胸元を目掛けて猛然と走り出した。

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