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16・チャンス

 あの日、ショッピングモールでさやか先輩と「服を選びあう」という名のデートを完遂して以来、俺の日常は少しずつ、けれど確実に変質していた。


 放課後になれば、当たり前のように二年生のフロアから「悟君!」と爆音の思考を撒き散らしながら彼女が降りてくる。駅までの帰り道、隣を歩く彼女から漏れる『幸せ……!』という巨大な熱量は、もはや俺の脳にとって、あって当たり前のノイズになりつつあった。


 慣れとは恐ろしいものだ。


 最近では、周囲の人間が向けてくる「理想のカップル」という好奇の視線や、すれ違いざまに聞こえる『いいなあ』といった嫉妬の混じった心の声を、さやか先輩の爆音が物理的に塗りつぶしてくれることに、どこか安らぎすら感じている自分に気づく。


 猛毒に耐性がついたのか、それとも毒で脳が麻痺したのか。どちらにせよ、俺の「普通の男子高校生」という日常からは、着実に遠ざかっていた。


「……さて。それじゃあ、連絡事項は以上。あ、そうだ。保健係の御心君」


 ホームルームの終盤。担任の、腰の曲がったおばあちゃん先生が、思い出したようにチョークを置いた。


「来週の体育祭だけど、保健係は救護所の設営と体育祭中のお手伝いがあるのよ。今日の昼休み、保健室へ行って校医の先生から説明を聞いてきなさいね。分かった?」


「はい。分かりました」


 返事をしながら、俺は心の内で小さくガッツポーズを作った。


 体育祭。それは全校生徒が入り乱れる喧騒の極致だ。本来なら真っ先に逃げ出したい行事だが、今回は違う。「保健係の仕事」という正当な大義名分があれば、今日の昼休みの間や体育祭当日のお手伝いの間、さやか先輩の「至近距離爆音攻撃」から物理的に逃れることができる。


 係の仕事自体は面倒だが、背に腹は代えられない。上手くシフトを調整して、さやか先輩と離れる時間を一分一秒でも多く稼ぐ。それが今回の俺の極秘ミッションだった。


 昼休み。俺は浮き足立つ気持ちを抑え、一階の廊下の端にある保健室の扉を叩いた。


「一年一組、御心です。体育祭の説明を聞きに来ました」


「おお、入りなさい。もう、みんな集まっているよ」


 中から聞こえてきたのは、これまたのんびりとした、おじいちゃん先生――校医の佐藤先生の声だ。


 扉を開けると、そこには既に二十人近い生徒がひしめき合っていた。六クラス三学年、全員が揃うと保健室はなかなかの密度だ。そして、その人混みの中心で、ひときわ眩しいオーラを放つ人物が、パッと顔を輝かせてこちらを振り向いた。


「あ、悟君!悟君も保健係だったんだ!」


 鼓膜を揺らす、慣れ親しんだ爆音。さやか先輩だ。俺はこの嬉しくない奇跡にずっこけそうになった。一クラスに一人しかいない保健係という役割が被ったのだ。神様に運命を操られたのではないかと疑ってしまう。


 彼女は二年一組の保健係として、既に来ていたらしい。俺の姿を見るなり、駆け寄ってこようとするのを、佐藤先生ののどかな声が制した。


「こらこら、尽櫛さん。静かにしなさい。……ええと、これで全員揃ったね。それじゃあ説明を始めるよ」


 佐藤先生は老眼鏡を押し上げ、手元の名簿を眺めた。


「体育祭当日の救護所だがね。そんなに怪我人がたくさん出るわけじゃないから、当番は各時間帯に一人いれば充分です。クラスごとに交代でやってもらいます」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の隣で、さやか先輩の肩がガックリと落ちるのが見えた。


『……えっ。一人? 二人一組じゃないの!? 悟君と一緒に、救護室の片隅で二人の時間を過ごすっていう私の完璧なシミュレーションが……っ!』


 脳内に響く悲鳴が激しすぎて、俺は少し目眩がした。だが、内心では快哉を叫んでいた。


 一人制。完璧だ。これなら「仕事中なので」という理由で、彼女を完全にシャットアウトできる。


 ――その、直後だった。


『……チャンスだ。これなら……』


 俺の脳に、一際冷ややかで、鋭い「心の声」が突き刺さった。


「――!?」


 俺は思わず周囲を見渡した。


 今のは誰だ? さやか先輩の落胆の陰で、誰かが「一人で救護所にいること」を明確な「チャンス」と捉えた。


 周囲には約二十人の生徒がいる。誰の心の声か特定しようと視線を巡らせるが、多人数ゆえに思考のノイズが重なり合い、発信源がボヤける。


 佐藤先生がのんびりと話を続ける。


「基本的には自分のクラスの担当時間にだけいればいいけれど……。まあ、もし暇な時があれば、別に手伝いに来てもいいからね。もし良かったら、飴とお茶くらいは出すよ」


 その言葉が出た瞬間、さやか先輩の思考が再び爆発した。


『よし!悟君が当番の時に私も手伝いに行けばいいんだ!むしろ、私が当番の時間を悟君の直前にしてもらえば、入れ替えの時間だけじゃなくて、そのまま居座る理由ができる……!名案だよ私!天才だよ私!』


 歓喜の振動が脳を揺らし、先程の不気味な「声」の余韻は、文字通り跡形もなく消し飛ばされてしまった。


(……ポジティブすぎるだろ、この人)


 犯人を特定しようにも、この爆音の嵐の中では「微細な思考の動き」を追うことができない。


 俺はひとまず、謎の声への警戒を心の隅に追いやり、具体的なシフト決めに意識を向けた。


 名簿を確認すると、一番最後の三十分はまだ空いていた。


 体育祭のフィナーレ、最も盛り上がる時間帯だ。ここなら皆が競技に夢中で、怪我人も少ないだろうし、何より「最後」という区切りは、さやか先輩から多少は逃げ出しやすいはずだ。


「俺、最後の三十分でお願いします」


「はいはい、一年一組の御心君ね。じゃあ、その前の三十分が良い人はいるかな?」


 佐藤先生が問いかけるのを待たず、さやか先輩がグイグイと身を乗り出した。


「先生!そこ、私がやります!私が担当します!」


「ああ、尽櫛さんね。いいですよ。じゃあ、尽櫛さんから御心君へのリレーということで」


 名簿に名前が書き込まれる。


 尽櫛(二年生)→御心(一年生)の順。


 前後。……前後ということは、入れ替えのタイミングで必ず接触が発生するし、さっきの先生の「暇なら来てもいい」という言葉を合わせれば、実質的に「俺の当番の間、ずっと彼女が救護所に居座る」という未来が確定してしまった。


(……俺の「物理的に離れる作戦」が、一瞬で崩壊していく……)


 俺はため息をつきながら、保健室に集まった面々をもう一度観察した。


 二十人近い生徒たち。笑っている者、退屈そうにしている者。


 この中の誰が、あの「チャンス」という声を漏らしたのか。


 救護所に一人でいる事で何かを「狙っている」者がいるのか。


「悟君? どうしたの、難しい顔して。やっぱり私の後の時間、嬉しい?」


 さやか先輩が、覗き込むように俺の顔を覗き込んできた。


 至近距離。ヘアピンのカタツムリと目が合う。


「……いえ。なんでもありません。考えすぎです、多分」


 体育祭。


 それは、多くの人間が「心の声」を剥き出しにする場所だ。


 爆音の愛に守られながら、俺はその裏側に潜む不穏な気配に、言いようのない胸騒ぎを感じていた。


 さやか先輩の『悟君とずっと一緒にいられる……!』という幸せな思考が響き渡る中、俺は自分の名前が書き込まれたシフト表を、ただじっと見つめていた。


(……チャンス、か。何が起きるにせよ、碌なことじゃないのは確かだな)


 俺は密かに決意した。


 体育祭当日。彼女から逃げること以上に、あの「声」の主が何を目論んでいるのか、全力で警戒しなければならない。


 結局、俺の平穏への道は、またしても遠のいていくようだった。

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