13・嫌われる方法
二年生のフロアは、一年生のそれよりもどこか空気が濃い気がした。
放課後の喧騒の中、俺は「二年一組」のプレートを確認し、深呼吸をしてから教室を覗き込む。
視線の先では、さやかが一人の女子生徒と親しげに談笑していた。その女子生徒の顔を見て、俺の心臓が一瞬嫌な跳ね方をした。
(……あの人、あの時の!)
それは、数日前。俺がいじめっ子たちと対峙していたあの地獄の教室で、「告白してるの見た。本気だよ、あの子」と援護射撃を打ってくれた、あの女子生徒だった。
さやかが俺に気づき、パッと顔を輝かせて手招きする。
「悟君、こっちこっち! 紹介するね。彼女、同じクラスの美波ちゃん。あの事件のあと、心配して声をかけてくれたの」
「よっ、一年生のヒーロー君。また会ったね」
美波と呼ばれた女子生徒は、ニヤニヤと意地の悪そうな、けれど屈託のない笑みを浮かべて俺を見た。どうやらあの騒動をきっかけに、さやかと友人関係になったらしい。
「さやかから一昨日帰った後の事は全部聞いたよ。デートは二回とも楽しかったってさ。あんた、良い彼女をゲットしたね?」
「……ええ。おかげさまで、人生が激変しましたよ」
嫌味を込めて言ったつもりだったが、彼女はそれを「照れ隠し」と受け取ったようで、さらに笑みを深めた。
窓の外では、雨脚がさらに強まっている。アスファルトを叩く激しい音が、廊下まで響いてきていた。
「で、本題。二人とも、傘、持ってないんでしょ?」
美波先輩はそう言うと、自分の鞄から一本の折り畳み傘を取り出し、俺に差し出してきた。
「これ、アタシの予備。貸してあげるから、二人で相合傘して帰りなよ」
「え、いや……」
断ろうとしたが、言葉が喉に詰まった。
俺の鞄には、折り畳み傘が入っている。だが、さっきさやか先輩に「傘を忘れた」とメッセージを送ってしまった手前、今さら「実は持っていました」なんて口が裂けても言えない。そんな嘘がバレれば、さやか先輩をわざと避けたことが露呈し、彼女の情緒がどうなるか分かったもんじゃない。
「……ありがとうございます。助かります」
俺は敗北を認め、震える手で傘を受け取った。
美波先輩は満足げに頷き、俺の肩をバンバンと叩いた。
「いいってことよ! 何か困ったことがあったら、アタシに相談しな! あのドラマチックな告白や英雄誕生の瞬間の目撃者として、二人の仲は応援してあげるからさ!」
その言葉に、俺の脳内で火花が散った。
相談。そうだ。これはチャンスだ。
この美波先輩は、おそらく恋愛ゴシップが好きな、いわゆる「普通」の感性を持っている。そんな彼女をダシに使って、さやか先輩の目の前で「嫌いアピール」をしてやれば、流石のさやか先輩も少しは目が覚めるのではないか。
俺は意を決し、隣で幸せそうに俺を見つめるさやか先輩にも聞こえる音量で、真顔で美波先輩に問いかけた。
「……じゃあ、相談してもいいですか。どうやったら、彼女に嫌われますかね?」
一瞬、教室内の空気が凍りついた――ように俺には思えた。
よし、言った。言ってやった。
「お前に嫌われる方法を教えてくれ」と、本人の目の前で第三者に相談する。これ以上の屈辱と拒絶があるだろうか。これでさやか先輩も、「あ、悟君、私のこと嫌いなんだ」と気づいて、泣きながら走り去ってくれるはずだ。
だが、現実は俺の期待を無残に粉砕した。
「……ぷっ、ははははは!」
美波先輩が、お腹を抱えて爆笑し始めたのだ。
「あはは! 何それ、最高! さやかから聞いたよ。髪型が変だからヘアピンつけろって、無理やりプレゼントしたんだって?今も嫌われる方法なんて聞いちゃってさ。そんなに嫌われるのが怖いんだ?言い方が変というか……ほんっと不器用な愛し方だね、あんた!」
「は……?」
美波先輩は涙を拭きながら、俺の背中をさらに強く叩いた。
「『嫌われるのが怖いくらい好き』ってことでしょ? 大丈夫だよ、こんなに愛してくれる彼女、世界中どこ探したっていないから! 心配しすぎ!」
違う。そうじゃない。俺は本当に嫌われたくて――。
言い返そうとした俺の脳内に、顔を真っ赤にして、潤んだ瞳で俺を見つめるさやか先輩の思考のノイズが、もはや爆音を通り越した物理的な圧力となって押し寄せてきた。
『嫌われる方法なんて聞くなんて……。そんなに私のことが好きなんだね。嫌われるのが怖くて、それを聞こうとしちゃうんだ……。大丈夫だよ悟君、私が悟君を嫌いになることなんて、天地がひっくり返ってもないからね! むしろ、そんなに愛されてるって知って、私……幸せすぎて、どうにかなっちゃいそう……!』
「……あ、あの……」
「大丈夫だよ、悟君! 私、絶対に悟君のこと嫌いにならないからね! 約束するよ!」
さやか先輩は、俺の目を真正面から見つめて宣言した。
俺の渾身の拒絶パンチは、彼女の「都合の良い超解釈フィルター」を通ることで、極上の「不器用な愛の告白」へと完全に変換され、浄化されてしまった。
結局、俺は美波先輩や他の先輩方に見送られながら、一本の小さな折り畳み傘を差して校舎を出ることになった。
外は本降りの雨だ。
美波先輩の傘は、二人で入るにはあまりにも小さかった。
必然的に、俺とさやか先輩の肩は強く密着し、彼女の体温が服越しに伝わってくる。
(……違う。そうじゃないんだ。なんで俺は今、この人と相合傘してるんだ……!)
一歩歩くごとに、さやか先輩の肩が俺の腕に触れる。
雨音にかき消されない彼女の『夢みたい……幸せ……』という爆音の思考ノイズ。
俺は、鞄の底に眠っている自分の折り畳み傘の存在を思い出し、己の浅知恵を呪った。
無能アピールをするつもりで嘘をつき、その嘘のせいで、俺は今、人生で最も濃密な「密着イベント」を強制的にこなす羽目になっている。
「ねえ、悟君……。雨、止まないといいね」
さやか先輩が、俺の腕にそっと寄り添いながら、囁くように言った。
その言葉に含まれた純粋で重い「祈り」に、俺は背筋が凍るような心地がした。
駅までの道は、普段なら十分もかからない。
けれど、この小さな傘の下で過ごす時間は、俺にとって「愛の終身刑」へと続く、果てしなく長いレッドカーペットのように感じられた。
(……俺の自由は、どこにあるんだ……?)
降りしきる雨の中、俺はただ前を見つめ、濡れたアスファルトを踏みしめるしかなかった。




