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12・無能アピール

 翌日、金曜日。


 どんよりとした曇り空の下、俺は教室内の自分の席に座りながら、自身の不甲斐なさに苛立っていた。


(……クソ、なんであんなに出来が良いんだよ。……いや、作品に罪はない。罪があるのは、あの映画を完璧に楽しんでしまった俺の情緒だ)


 昨日の「ネトゲの嫁が妹だった件」の感動が、一晩明けても脳裏に焼き付いて離れない。嫌いになろう、粗探しをして「あんなの時間の無駄だった」と吐き捨てようと努力はした。だが、一視聴者としてのプライドがそれを許さなかった。


 素晴らしいものを素晴らしいと認めてしまう、この真っ当すぎる感性が、今の俺にとっては最大の足枷となっている。


 そんな重い気分をさらにかき乱したのは、クラスメイトたちの容赦のない歓迎だった。


「よう、理想の彼氏! 昨日の映画デート、目撃情報上がってるぞ!」

「やるじゃん御心、あんな美少女を連れて歩くなんて、お前いつからそんな勇者になったんだよ?」


 応援とからかいが混ざった声。


 以前の俺は、ただの「地味な背景」として扱われていたはずだ。それが今や、クラス全員が俺とさやかの交際を、安全圏から眺める「公認のエンタメ」として消費し始めている。


 この教室という密室で、俺はもはや逃げ場のない「英雄」の座に固定されていた。


 ホームルームが終わった直後。


 トイレに行こうと立ち上がろうとすると、教壇にいた担任のベテランのおばあちゃん先生が、柔和な笑みを浮かべて俺を手招きした。


「御心君、ちょっといいかしら?」


 俺は「また何かあったのか」と身構えながら、教壇へと歩み寄る。


「例の、あなたの可愛らしい彼女さんを困らせていた人たちのことだけど……処分が決まったわ。色々と調査が進んで、言い逃れできない証拠も揃ったみたい。特に、髪を切った行為が極めて悪質と認められて、停学を通り越して自主退学勧告……まあ、実質的な退学になったわ」


 先生は、周囲に聞こえないよう声を潜め、俺の肩を優しくポンと叩いた。


「あなたが勇気を出して、彼女を守ろうとしたおかげね。よく頑張ったわ。……あ、それと、あなたたちのことは、先生も応援しているわよ? 二階の二年一組の教室、いつでも遊びに行ってあげなさいね」


「……ありがとうございます」


 引き攣った笑顔で応え、俺は教室を出る先生を見送った。


 暴力の脅威は去った。さやか先輩に平和が戻った。


 だがそれは同時に、俺をこの「嘘の恋人関係」に縛り付ける正当な理由が消失し、残ったのは「さやか先輩の彼氏」という重すぎる純粋な事実だけになったことを意味していた。


(……本当に、後の問題は『彼氏』であることだけかよ。ハードルが高すぎるだろ……)


 放課後。


 何とか少しでも嫌われる方法はないか。情けない姿を見せて幻滅を誘えないか。


 そんな焦燥感に駆られながら窓の外を眺めると、予報にはなかった雨が、しとしととアスファルトを濡らし始めていた。


 俺の心の中に、邪悪な閃きが走る。


(……これだ。傘を忘れた『無能な男』を演じて、放課後の接触を断つ!)


 俺の鞄の中には、折り畳み傘がしっかりと収納されている。俺はそれを絶対に悟られないよう鞄の奥底へ隠し、震える手でさやか先輩にメッセージを送った。


「ごめんなさい。今日、傘を忘れてしまいました。適当に雨宿りしてから帰るので、さやか先輩は先に帰っていてください。……情けないですね、俺」


 よし。


 これで「折り畳み傘持っていない、準備不足で頼りない男」という無能アピールが完了した。同時に、これなら放課後に一緒に帰ることも物理的に不可能だ。距離を置くための、最高の一手のはずだった。


 だが、数秒後に返ってきたのは、予想の斜め上を行く「本物の無能」からのカウンターだった。


「えっ! 私も傘を忘れちゃった! 悟君とお揃いだね! 嬉しい!」


「……は?」


 スマホの画面を見た時、俺はその場にひっくり返りそうになった。


 狙っていたはずの「無能アピール」が、彼女の天然か、あるいは超越したシンクロによって「お揃い」という最悪の共通点に変換されてしまった。


 絶望だ。無能な男を嫌ってくれるどころか、彼女の思考は「傘がない二人」というシチュエーションで、すでに映画のワンシーンのような多幸感に浸っているに違いない。


 追い打ちをかけるように、新たなメッセージが届く。


「ねえ悟君、ちょっと待って! 二年一組の教室に来て! お願い!」


 何だ。今度は何が起きるんだ。


 二年一組の教室。そこは彼女の本拠地であり、俺にとっては魔境だ。


 何が起きるか分からない恐怖に震えながら、俺は重い足取りで上の階へと続く階段を上り始めた。

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