第9話 馬車
週の明けた、次の休息日。
俺たちは少し離れた街へ、乗り合い馬車で出かけていた。多少揺れるが、三時間以上歩くよりマシだ。
キャビンは両側に長椅子が取り付けてある形で、十人程度が座れる大きさとなっている。今日は満席ではなく俺たちを合わせて六人程度。並び順は左からマチェール、リース、俺となっている。マチェールは膝の上で分厚い本を開いており、リースは膝の上に紙袋を抱えながら、身を乗り出さんばかりに外の景色を眺めている。
そういえば、マチェールは酔いやすい体質だったはずだ。
不思議に思ってマチェールに目をやれば、耳元と目元にごく淡い光の粒が微かに散っていた。乗り物酔いに効果のある魔術をこっそり使っているらしい。器用な奴。
踏み固められた土だけの、舗装もされていない道の両側に、膝丈ほどの草原が続く。その中で時折、林らしき深緑の塊が過ぎていき、奥の方にはうっすらと丘が見える。規則的な馬の蹄の音と乗客の世間話、あとは体ごと揺さぶるような馬車の軋みが止まることなく耳に触れる。正直乗り心地は良くないし、段々と尻も痛くなってきた。ただ、吹き抜けの窓から入ってくる風は確かに爽やかで、心地よく頬をなでていく。
まだ到着までには時間があるはずだ。ゆっくり目を細めてまどろみに入ろうとしたその時、突然馬車が馬のいななく声と共に急停止した。驚く間に、かなりの勢いで体が進行方向へ持っていかれる。下手に手をついて骨折でもしたら目も当てられない。隣に誰もいないのを確認し、受け身を取って座席に倒れ込む。
「ひゃっ!」
どこにも痛みがないのを確認して一息ついた瞬間、短い叫び声と共に質量のある柔らかいものに押し潰された。服越しでも分かる、脂肪とも筋肉とも取れないむっちりした感触。少し暗くなった視界の真ん前で、白い腕が投げ出されている。動こうとすれば、上半身のほとんどを覆うむちむちのそれに押し戻されて、身動き一つ取れない。息を吸えばほんのりと甘い香りが感じられた。呆れて名前を呼ぼうと思ったが、口が埋もれて声が出ない。
「ティモごめん!潰しちゃった?」
潰れてねぇよ。それより早く、上からどいてくれ。心の中で呟きながら、耳の上で紡がれる慌てたような声に対して、どうにか体の下から出した腕で肩を叩く。しかし、リースは一向に動かなかった。それどころか、首元に顔を埋めて深呼吸をしている。腕が段々と近づき、抱きしめるといっても過言ではない姿勢になってきた。おい馬鹿、こんな所で何やってんだ。意思を込めて胴の辺りを叩いても、リースは止まらないどころか頬をすり付け始めた。密着した体が熱を帯びていく。ちらりと見れば、頬が赤く、目が潤んでいる。やばい、今止めないとリースが暴走する…!
「リース、離れてあげて。ティモが窒息してるよ」
静かで落ちついた声が降ってきて、リースの背中を軽く叩いた振動が体越しに伝わってきた。リースは渋々といった様子で体を起こした。赤い頬はそのままに、残念そうな顔でこちらを眺めている。俺も起き上がり、リースの額を一度つついてからマチェールに向き直った。
「…助かった。着いてきてくれて、本当に感謝してる」
「うん、僕も着いてきてよかったと思ってるよ」
マチェールは遠い目をしていた。こんな場所で何かをやらかせば、下手をすれば憲兵団に捕まってもおかしくはない。そうなればリースの正体がばれて、俺もろとも終わりだ。危ない所だった。当のリースは反省したように下を向きながらも、物足りなそうに人差し指の腹を口へ押し当てていた。周囲を見回せばなぜか乗客たちは全員いなくなっている。理由は気になるが、ちょうどいい。リースの顔を上げさせ、約束の確認をする。
「リース。外に出る時は、どんな約束だったか覚えているか?」
「…あまりくっつかない。羽としっぽはしっかり隠す。目立った行動を取らない」
「覚えているな。じゃあ、今の行動がどうだったかもわかるよな」
「うん…もう、やらない」
できるだけ静かに問いかけたつもりだが、リースは再度うつむいてしまった。仕方なく頭をぽんぽんと軽く叩いた後、ポケットから牛乳の飴を取り出して、片手で顎を掴み口へ押し入れた。しばらくして、カラコロと口の中で転がす音がし始めたのでその場を離れ、マチェールの背を追って急停止の原因を確認しに行った。
馬車の下で並ぶようにしゃがみ込んだ乗客たちの前で、小さい雛を何匹も連れた水鳥がよちよちと道を横断していた。親鳥は列から外れた雛をくちばしで誘導し、行ったり来たりしている。これではしばらく、馬車は動かないだろう。
自らも屈んで水鳥に見とれている御者の背にじっとりと視線を向けてから、キャビンに戻ってマチェールと無駄話をすることにした。とんだ時間のロスだが、仕方がない。そもそも安い乗り合い馬車を選んだのが一因だ。騒いでどうにかなるものでもないし、気長に待ってやろう。




