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第8話 街:後編

薄暗い店内へ一歩入ればふわりと小麦の焼ける香ばしい匂いが広がり、深く息を吸い込む。

店内は狭く、詰めても3人程度しか入れない。店の一番奥に会計所があり、その手前の棚にパンが並んでいる。街の中に数あるパン屋の中で、ここのパンが一番口に合う。少し距離はあるが、それでもいいと行きつけにしている。さりげなく確認すれば、リースはちゃんと着いてきていた。



「いらっしゃい。今日は連れがいるんだね」

「こんにちは。ええ。彼はこの街に不慣れなので、道案内も兼ねて、買い物に回っているんです」

「そうかい。じゃ、好きなものを選んでいきな。料金はカウンターに置いてっとくれ」



こちらも顔なじみの店主が奥から顔を出して、すぐに戻っていった。パン作りから売りに出すまで全て1人でこなしているので、常連に対してはいつもこんな感じだ。リースは俺の後ろから顔を出し、周囲を確認してから棚に向かっていった。



「パンがいっぱい…」

「パン屋だからね。リースはどれが気になる?」

「えっと…、その口調?うひゃっ!」



思わず脇腹をつついた。好きでこんな話し方してる訳じゃねぇよ。睨み上げると、リースはごまかすように棚をのぞき込んだ。そして、何か黄色くて丸いものを指差す。



「これ。ふわふわして、おいしそう」

「なんだこれ?」

「ティモも知らない?」

「あったかもしれね…しれないけど、食べたことはないね」



初めて見たような気がするが、目に入っていなかっただけなのかもしれない。新鮮な気持ちで、とりあえず2つ取っておく。あとはいつものパンをそろえて、会計所に行く。料金表を指で辿っていると、店主が焼きたてのパンを持って奥の窯場から出てきた。俺の持ったバスケットをのぞき込んで、そのまま隣の棚へ向かう。手を休めないまま、店主は話しかけてきた。



「まいど。珍しいもん選んだな。それは子どもや若いご婦人に人気のパンだよ」

「どんな味なんですか?」

「卵の風味がして、しっかり甘いおやつパンだ。焼かずに蒸しているから、ほら、真っ黄色だろ?」

「なるほど」



棚にパンを並べ終えた店主は会計所に戻り、珍しく手ずから会計をしてくれる。帰り際に、無地の白い紙を2枚手渡してきた。



「ほら、すぐに食うならこれで包んで食いなよ。後ろの兄ちゃん、ずっとそれ見てるぞ」

「…リース、ずいぶん食いしん坊だね」



呆れて振り返れば、リースはハッとしたように顔を逸らした。その様子を見た主人は、口を開けて笑っていた。



「うまかったら、また買ってくれよ。売り切れ御免だから、あるかどうかはわからんがな」

「はい。また来ますよ。リース、行くよ」



チリンチリンとベルの音を鳴らして店を出ると、もらった紙で蒸しパンとやらをくるみ、リースに手渡した。さっきから圧を発していたリースは、嬉しそうに受け取ってかぶりついた。



「ティモ!これ、ふわふわですごく美味しい!」

「そーかい。羽、気を付けろよ」



上機嫌のリースをよそに自分の分をくるんで口元に寄せれば、リースの蒸しパンはもう半分以上なくなっていた。よっぽど口に合ったらしい。

夢中で顔をうずめるリースの横顔を眺めながら一口かじろうとした時だった。来た道と逆方向、通りの向こう側にある古びた建物が目に入った。低い石垣の囲いに、特徴的な尖った屋根。規則的に並んだ窓と、黒褐色に汚れた外壁。その前庭では、質素な身なりの子どもたちが走り回っている。




ふと、ストーブの煤の匂いと臓物スープの味を思い出した。強い冷気が足先から這い登り、手の先から腹底にまでまとわりつく。視界が灰色にゆがみ、目がくらむ。今立っているのがどこか、何をしていたのかわからない。体が、固まってしまったように動かない。喉奥から何が込み上げ、呻き声が溢れそうになった瞬間、口に何かを押し込まれた。甘い。柔らかい。菓子のような匂いが鼻を抜けていく。深呼吸をすれば、リースの顔が視界に入ってきた。長いまつげに縁取られた瞳が、濃い緑に光っている。冷気がすうっと引いていき、視界に色が戻ってくる。もう一息、ゆっくりと呼吸をして、口内のそれを一口かじる。ふんわりと柔らかく、それでいて弾力のあるそれを咀嚼すれば、目の前の目がにっこりと細められた。



「ティモ、今ちょっと変だったよ。大丈夫?」

「何ともねぇよ。あと、ぼんやりしてる奴の口に物突っ込むと、窒息するから今後はやめとけ」

「そうなんだ。気を付けるね」



リースは特段気にすることもなく、俺の口に押し付けていた蒸しパンを手元に戻してかぶりついた。もごもごと頬を膨らませる姿を見ていれば、早鐘を打っていた心臓も段々と落ちついてくる。



「そういえばティモの見ていた建物。たしか孤児院ていう場所だよね?」

「ああ、そうだ。でも俺には関係ない。いくぞ」

「うん、わかった」



一瞬後ろを振り返ったリースは、俺の言葉に歩き始めた。そして、一歩前に出て俺の袖を引いていこうとする。



「ねぇティモ、僕あっちのお店も見てみたい!それと、向こうからも何か美味しそうな匂いがする!」

「おい、自分の立場、忘れてないだろうな?」

「うん!僕はティモの愛玩用で、性処…むぐぅ「馬鹿、こんな場所で言うな!」



とっさにリースの口をふさぎ囁き声で叫べば、何が面白いのかリースはくすくすと笑い出した。周囲の雑踏も、くっつき合う俺たちを可笑しそうに眺めては通り過ぎていく。なんだか力が抜けて、腕を下ろし、体を離した。手の中の蒸しパンは、しっかり一口分かじり取られていた。上着の襟を直し、改めてリースに声をかける。



「あとはジャム用の小瓶を買えば終わりだ。寄り道はその後な。ほら、行くぞ」

「うん!」



リースは跳ねるように俺の後をついて来る。とりあえず、マフラーの効果はしっかりあるようだし、リースも少しは人混みに慣れたようだ。

来週が再来週辺り、ミリヤの店に連れて行く。乗りかかった何とやらだ、マチェールにも同行してもらう。

この無邪気に笑う変な淫魔が本当に変なのか、同族にしっかり確かめてもらうこととしよう。

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