第14話 祝祭:後半
「今?こんな街中で?」
「この前、ミリヤさんに聞いたの。好きな人とお出かけをした時には、こういう場所でキスするのが鉄則だって」
「はぁ…」
急な言葉に眉根を寄せる。どうやら余計な知識を仕入れてきたようだ。そんなものはないし、そもそもリースと俺はそんな関係ではない。自分が隷属させられてるってこと、理解してんのか。否定するのは簡単だが、期待したような表情から段々と不思議そうな顔になっていくリースを見て、ふっと気が抜けた。こいつ、俺にしてもらえないなんて欠片も思ってない。断ったところで、騒いでうるさいだけだろうし。そんなに重いもの、持たせてくるなよな。淫魔のくせに。
「わかったよ、一回だけな」
「うん!」
仕方なく、リースの顎をすくうように指を添える。顔を見上げて、踵が上がらないようにぎりぎりまで体を伸ばす。路地裏の薄暗がりの中、リースは目を細めて、俺の方を見下ろしている。この野郎、でかく育ちやがって。あの時はかつげるくらいに小さかったくせにな。片手で頬に触れ、ゆっくりと後頭部に滑らせればリースは静かに目を閉じた。
焦らすように時間をかけて顔を寄せる。リースの唇まであと数センチだ。
その時、リースの背後に飛んでくる何かが見えた。遠目にも鈍く光るそれは、リースの頭めがけてものすごい速さで迫ってくる。
「危ねぇ!」
とっさに左手が動いた。完全に弾き返したつもりだったが、訓練と違って今は素手だ。手の甲を切り裂いて血飛沫を飛ばしたそれは、壁の間で数度跳ね返り、地面へと鈍い音を立てて食い込んだ。
「いッ…!」
「ティモ?!」
しゃがみ込むと同時に、リースの首を押し下げて姿勢を低くする。ちらりと確認した手の甲からはぽたぽたと血が垂れ落ちていた。地面が赤黒く、まだら模様になっている。周囲を見回したが、それらしい影も気配もない。
「ティモ、どうしたの!?」
「いいから伏せてろ」
「えっ…?うん」
リースは俺の言う通りその場にうずくまった。出血していない方の手でなだめるように肩を叩きつつ警戒をしていると、大通りの方から人影が現れた。その男はこちらに向けて、大声で呼びかけてきた。
「すみませーん!そっちにクルミが飛んでいきませんでしたか?」
「クルミ?」
「クルミ割りに失敗して、この辺に飛んでいっちゃったんですよー!」
その返答に顔がゆがむ。不注意にも程があるだろう。リースが怪我をする所だったじゃないか。薄闇の中、立ち上がり、どうにか表情を戻して返事をする。できるだけ事は起こしたくない。
「道の向こう側に飛んでいきました。もう少しで当たる所でしたので、気をつけてくださいね」
「あー!すみませんでした!」
男はぺこぺこと頭を下げ、立ち去った。息を吐くと同時に、左手が柔らかい感触に包まれた。手の甲に、温い吐息を感じる。
「リース、何やってんだ」
「ティモのここ、すっごく痛そう。ふさいであげなきゃ」
言うが早いか、リースは傷に口を寄せる。赤黒い血液が、淡い紅色の唇を上書きするように染めていく。
リースはゆっくりと、何度も舌を這わせた。時折ちゅ、ちゅっ、と血を啜るような音が響く。再度問いただそうとした時、傷口の違和感に気付いた。これだけ傷口へ触れられているのに、全く痛くない。見れば、赤黒い血液が傷口を覆うように固まり始めていた。
ぬるりと手の甲を這うリースの舌遣いには、既視感があった。リースの真剣な表情とこの状況とはものすごく乖離しているが、昨晩を思い出してしまう。自然と顔とその他に熱がこもり、体が前屈みになる。ここではまずい。何とかやりすごそうと目を閉じて、聖典をはじめから思い浮かべる。というかこの姿勢自体、見られたらまずいのでは……。雑念が頭をめぐり、歯を食いしばる。早く終わらせてくれ、頼むから……。
「ティモ、終わったよ。……ティモ?」
「ッ、あぁ、終わったか」
リースの声に目を開けた。俺の腰辺りにしゃがみ込んでいたリースは、俺の手を下から両手で持っている。口元は血と唾液で濡れ、俺の手の甲も同じ状態になっている。
驚いたことに、傷口は塞がっており、痛みもなくなっていた。教会の治癒とは違い、自然治癒を異様に早くしたような形だ。
リースはごしごしと口元を拭い、俺を見上げる。
「ティモ、痛くなくなった?」
「…おかげさまでな。お前は?」
「僕はなんともないよ。ティモが守ってくれたんでしょ?でも、本当に大丈夫?」
「まぁな」
本気で心配そうなリースの表情に下心を押し殺し、状況を再確認する。路地裏の入り口は明らかに狭い。人がすれ違えるくらいの隙間だ。この道の前はクリームスープの露店が出ていたはず。つまり、投げ込みでもしない限りあのスピードでクルミが飛んでくるはずがない。
数歩足を進め、飛んできたものを確認する。それは、壁に当たって殻の一部が割れたクルミだった。見た目はただのクルミだが、表面にはごくわずかに虹色の波紋が見て取れた。その色は、いつも見慣れたものだ。おそらく聖水に浸されたのだろう。
明らかにリースを狙っていた。しかも、正体を知った上で。
再度路地裏の入り口を振り返るが、当然のように誰もいない。明るさと喧騒が遠ざかり、薄ら寒い風がまとわりつくように流れてくる。冷や汗が一筋、背中を流れた。
「ティモ?」
「今日は帰るぞ」
「えー、もう?」
「もう、だ。だいぶ長居したしな。子ども向けの露店も閉まる頃だ。その前に、飴買って帰ろうぜ」
「飴!僕、赤いのと白いのがいい!」
「はいはい、わかったよ」
嬉しそうなリースの手を引き、背後を警戒しながら路地裏の反対側へと向かう。
誰が何のためにこんなことをしたかは知らないが、とても嫌な予感がする。
これからは色々と気を付けよう。リースは騒ぐだろうけど、当分街へのお出かけはお預けだな。




