第12話 オルド司教
「じゃあティモ、いってらっしゃい」
「ああ」
玄関で手を振るリースに見送られて、家を出る。風にそよぐ雑草の穂にカソックを撫でられながら、飛び石を踏んで門へ向かう。手をかざして見上げれば、所々に白い雲の浮かぶ晴天だった。今日の風は、穏やかだ。
敷地の境には、腰までの高さに柵が巡らされている。木製の門を手で押せば、キィ、と微かに軋みながら前に開いた。後ろ手に閉めると、背筋を伸ばす。一度息を吸って吐いて、意図的に頬を緩めて目を細める。いつかの昔に、鏡の前で練習した『神父の顔』だ。俺は今日も、教会に向かって歩き出した。歩幅は大きく、動作はゆったりと。
教会は、普段買い物をする街の、隣街に建っている。そして、その周囲のいくつかの街で活動を行っている。教会の日常的な仕事は、礼拝と儀式の執行と懺悔室の開設、そして聖書に基づいた説教だ。
日常的ではない仕事はさらに大きく、2つに分かれる。『神の奇跡』と呼ばれる治癒魔法を専門に人々の怪我や病気を治して回る『白服』と、清めた水や武器、すなわち聖水や聖具を使って悪魔を祓う『黒服』だ。マチェールは前者、俺は後者に所属する。双方とも有事の際にすぐ動けるよう、日頃から業務の合間に訓練をしている。
ただ悪魔を祓うといっても、むやみに祓うわけではない。その悪魔の素性を確かめて、人間に害を及ぼしそうなら祓う。諜報班もいるらしいが、一部のお偉方しか正体を知らないらしい。
この周辺の街で『悪魔は見て見ぬふり』の文化が通用するのは、こういう訳だ。ちなみに悪魔というのは、種族名ではなく『魔のもの』の総称として使われる呼び名だ。
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「久しぶりだな、アラベール」
背後からかけられた低い声に打ち合いを止め、顔を向ける。額に浮いた汗を拭い、胸元に手を当てて一礼する。
「お久しぶりです、オルド司教」
数秒して頭を上げれば、司教は傷がない方の口の端を、わずかに上げていた。今や俺の方が背は高いが、ゆとりのある黒のカソックに隠れた体は厚く、かなり鍛えられていると知っている。ゆったりと体の後ろで手を組むこの人は、かつて孤児院にいた俺を神学校へ推薦してくれた。めちゃくちゃ厳しかったが、礼儀も戦闘技術も叩き込んでくれた。おかげで今、俺はここにいる。神は信じていないし教義に殉ずる気もないが、この人にはずっと頭が上がらない。
「こんな所に、何用でいらしたのですか?」
「いや、たまたま通りかかっただけだ。皆、中々に鍛えられているな。特に、スーマンとエンゾ、オレーンだったか。よい動きをしている」
司教はそれなりの広さのある訓練場と、訓練をやめ集まってきた同僚たちをゆったりと見回す。訓練は実戦を見越して、普段と同じ黒いカソックを纏って行われている。全員の名前と顔を覚え、その上で戦闘技術を見抜くとは、やはりただの司教ではない。
「さて、久方ぶりに私も訓練に参加しよう。手始めにアラベール、手合わせ願えるかな?」
その言葉に、全身の背筋が伸びる。疑問形だが、それに逆らえるような肝の太さは、誰にもない。手近にあった模擬戦用ナイフを握った司教に見据えられて、俺は木製のショートソードを構え直すしかなかった。
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「素晴らしい技術の冴えでした。流石です」
「世辞も言えるようになったか。立派じゃないか」
「いえ、本心ですよ」
司教による実技訓練は、俺を含め全員をなぎ倒すまで続いた。広い訓練場には至る所に人間が転がっていた。壁に寄りかかってなんとか座っている奴に、地面に転がって呻いてる奴。何やら端の方でえづいていた奴もいたが、見なかったことにした。治療班として呼ばれた『白服』のマチェールが苦笑いしながらこちらに目配せをしたので、倒れたまま白目をむくふりをしてやった。
治療を施してもらい、着替えを済ませた後、なぜか俺だけ司教の部屋に呼び出された。今はお互いに机を挟んで立っている。司教は窓の外を眺めていた。朝は晴天だったが、今は少し雲がかかっている。
「しばらく姿をお見かけしませんでした。今までどちらにいらしたのですか?」
「あぁ。上の命令で海のある街へ視察に行ってきた。…恐ろしい場所だったよ」
「と、言うと?」
「悪魔が野放しになっている。人への擬態をやめた悪魔たちが、角や羽や尾、果てには獣の耳や爪までもむき出しにして歩いているのだ。牙を出して笑い、爪のある前足で金品を扱う。そんな腐れ切った場所で暮らす人間の気がしれない」
司教の声からは、侮蔑とも憎悪とも取れる感情が滲み出ていた。思わず目を逸らし、顔を背ける。
「悪魔はどこまでいっても悪魔なのだ。お前も油断せず、職務に励めよ」
「承知しております」
「いい心がけだ」
司教は1つうなづいて振り返り、世間話のような口調で問いかけてきた。
「そういえばアラベール、娼館通いはもういいのか?」
「何のことでしょうか?」
一瞬にして跳ね上がった心臓をねじ伏せて咄嗟に返した答えに、司教は片頬を上げて目を細めた。さっきと変わらない笑顔を貼り付けている俺に向けて、喉元から低い笑い声が漏れる。
「それでいい。さて、久々に布教活動にでも向かおうか。5分後に正門前だ」
「はい。では、失礼します」
胸に手を当てて一礼し、ゆったりとした動きで部屋を後にする。廊下を進み、最初の角を曲がった所で、壁に手をついた。今さらになってどっと冷や汗が流れ、心臓がバクバクと跳ね、膝が震えている。
思い切りバレていた。いや、それがバレているのはまだいいとして、問題はリースの存在だ。どこまで把握しているのやら。本当に底が見えない上司だ。不安と焦りで冷や汗が止まらない。
だが、今できることは身だしなみを整え気持ちを立て直し、遅れずに正門へ向かうことだけだ。
俺はパチンと軽く頬を叩くと、まずは手洗いへ向かった。これも仕事だ、やり切ってやるさ。




