第10話 ミリヤの店:前編
結局、馬車の到着は1時間弱遅れた。御者は降りてくる乗客たちにペコペコと頭を下げながらも、どこか気分の良さそうな顔をしていた。半目でその前を通りながら、馬車を降りて石畳を踏む。
この街は近隣の街の中で、一番大きい場所だ。その分建物が多く、近くの街ではあまり見ない5階建てや6階建てのものもよく見かける。道幅は広いが露店は少なめで、馬車の往来が多かった。やたらと布の多い服をまとう人々が、道の両側を行き交っている。どちらかというと都市部に近い雰囲気だ。
俺たちの後ろを歩くリースは商店をちらちらと見たり、街灯を見上げたりしていたが、今ひとつ元気がない。マチェールに目くばせをすれば、『そっとしてやれば?』とちらりとリースに目をやった。
仕方ないと思いつつ道を曲がり、目的の路地へ入る。左側には高い柵と植物に囲われた庭園があり、右側は赤いレンガの壁が続いていた。たったそれだけの、何の変哲もない、ただの狭い路地だ。
ふと背後の足音が止んだ。ふり返れば、うつむきながら石畳を踏んでいたはずのリースは、俺たちが行く先の一点を見つめている。
「あの扉、半分透けてる。どうして?」
「あっ、わかる?すごいね、やっぱり同族だと魔術の見え方が違うのかな」
リースの発言へ、真っ先に食い付いたのはマチェールだ。指先ですっと眼鏡を直しながら、リースを見上げている。褒められたと思ったらしいリースは、口角を少し引き上げて笑っていた。単純な奴め。小走りで近付き壁へ腕を伸ばしたリースは、すっと空をかいた手を不思議そうに見つめている。
「ドアノブ、触れないの…?」
「まぁ、見てろよ」
隣に追いついて、立ち止まる。目の前に広がる赤いレンガの壁をよく見れば、横に積まれたブロックの中に一つだけ、縦に埋め込まれたものがある。リースが何かを掴もうとした、まさにその場所だ。指先を2本立てて、そのブロックに当てる。横、縦、右斜め、左斜めの順になぞり、最後にブロック前の空間を握れば、虚空に確かな金属の手触りを感じた。ゆっくりとそれを引き開ける。重みのある感触と共に、キィ、と微かに蝶番の軋む音がした。
「ここ、壁の向こうに半透明の部屋があるの?」
「あー、お前にはそう見えてるのか」
俺の背中から先をのぞいたリースは、首を傾げた。扉を開けた感覚のある俺にさえ、目の前はさっきと変わり映えのないレンガ造りの壁にしか見えなかった。
「ティモ、扉押さえてて。ほらリース、こうやって入るんだよ」
俺の背後から足を踏み出したマチェールは、当然のように壁へと突っ込んでいった。リースが息を引きつらせた瞬間、空間が扉1枚分ぶわりとゆがんだ。マチェールの消えた先、空間のゆがみを掴んで引っ張る。手触りは完璧に、厚めの綿布だ。
「説明は後でしてやるから、早く中に入りな」
布をひらひらさせながらリースを促せば、おっかなびっくり足を踏み出した。そのまま壁の奥に消えていく。それを追って中に入り、後ろ手に扉を閉めた。背後にひらりと布がかかり、同時にカチッとドアノブが動作する音が聞こえた。
そこは、オレンジ色を帯びた柔らかな光が満ちた空間だった。同時に暖かい空気と、まろやかな紅茶の匂いが押し寄せる。
「わ、すごい…!」
そこは広い喫茶店だった。店の奥側にカウンターがあり、窓際にはソファと丸テーブルが続く。その間の空間にも、ぽつりぽつりと椅子とテーブルが用意されていた。天井からは薄い布に包まれた灯りがともり、窓のないその店を決して暗くはない明るさで照らしている。
今日の客は4組ほどらしい。その誰もが談笑していた。リースは目を丸くして、色んな場所に顔を向けている。
「いらっしゃい。あら、来たわね」
艶のあるアルトの声と共に、カウンターの向こうでティーカップを磨いていた女性が顔を上げた。彼女は静かに立ち上がり、ゆったりとした足取りで俺たちに近付いてくる。
ふんわりパーマのかかった、背中まで流れる栗色の髪。とろりとした蜜色の瞳は、瞬くたびにちらちらと光る。袖口がたっぷりと膨らんだベージュのセーターに、濃い茶色のロングスカート。足元では艶のある黒い靴が光を照り返していた。
「遅かったじゃないの」
「悪い悪い。ちょっとしたトラブルがな」
「そう。まぁ、埋め合わせはもらうわよ」
「お手柔らかにな」
ミリヤは腰に手を当てつつ、挑戦的に首を傾げてみせる。懐を叩いてチャリっと音を鳴らせば、ミリヤは満足げにニッと口角を上げた。
「さて。久しぶりね、ティモテにマチェール。そして、そちらは例の同族ちゃんかしら?」
ミリヤに見上げられたリースは、びくっと身をすくめる。こそこそと俺の後ろに隠れ始める姿を見て、ミリヤは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「話は一番奥の個室で聞くわ。あなたたち、紅茶とお茶菓子を多めに準備してくれるかしら」
ミリヤが他の店員たちに声をかけると、白いエプロンをした数人が振り返ってうなづいた。ミリヤは微笑みながらうなづき返して、俺たちを店の奥へと手招きする。
「ほら、着いておいで。……あら、取って食いはしないわよ。かわいい同族ちゃんだもの」
ミリヤは肩越しに、リースへ向けて片目を瞑ってみせた。俺の服の裾を掴むリースの手に、さらに力が入った。今のセリフ、逆効果だったな。




