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公爵の手を借りながら馬車から降りると、視線が突き刺さる。
ほとんどが好奇、それと嫉妬も混じっている。嫉妬の視線は女性が多いかと思ったが男性からもだ。
「すまない。こんな視線に晒してしまって」
公爵はせっかく綺麗な顔をしているのに、眉間に皺を寄せて美貌がもったいないことになっていた。
私は視線だけでどうにかなるような女ではないのだが。この国の人間は見られ過ぎたら穴でもあくのか? 減るのか?
「なぜ謝る? ほら、美しい私をもっと皆に見せびらかして自慢するといい」
地面に降り立って笑うと公爵は目を細める。
「凄い自信だ。うっかり安心しそうになる」
「安心して大きな獲物を狩って私に捧げると良いぞ。あぁ、そうだ。狩猟大会では女性からハンカチを渡すんだったな」
ポケットから刺繍した淡い緑色のハンカチを取り出すと、公爵は目を見張る。
「なぜ、それを……」
「侍女長メレディスと家令のリチャードに教わったぞ。リチャードなんぞハンカチをたくさん用意してくれた。私がよほど刺繍に失敗すると思っていたと見える。私は刺繍こそが得意なのに失礼な奴だ」
公爵はおそるおそる私が差し出したハンカチを受け取る。
恐怖心を抱いているというよりは、宝物を受け取るような様子だ。
「狩猟大会では、大きな獲物を持ち帰るのを願って刺繍したハンカチを夫に渡すのだろう? 我々の関係で何も渡さないのは不自然だからな」
「そうなんだが……この刺繍してある文字はもしかして古代文字か?」
「この国では古代文字と呼ぶのか? 全種類刺繍しようとしたんだが、まるで呪いのハンカチのようになってしまってな。私に与えられた文字だけを刺繍してある。魔力も込めてあるから一度身を守ってくれるだろう」
「これが、雷の属性の文字? あなたに与えられた?」
「そうだ。クマやイノシシに襲われてもあなたの身を一度守るだろう。さぁ、ありがたく受け取れ」
公爵はしばらくハンカチを呆然と眺めていた。
おい、これでは夫婦のように見えないではないか、この男。あの王女に困らされているのにやる気があるのだろうか。
ハンカチを手に呆然とするなど、私が普段は暴力妻のようだ。
「フィニー、どうした。嬉しくて声も出ないのか」
ちょんちょんと公爵の手をつつくと、彼はやっと我に返ったようだった。
「肘に巻いてくれないか」
「ん、分かった」
自分で肘に巻き付けるのは難しいだろう。
淡い緑のハンカチに銀の糸で刺繍したものを公爵の左腕の肘にするすると巻き付ける。
「勝利があなたに宿るように」
公爵の腕のハンカチを撫でて何とはなしにそう口に出した時、頭の中である光景が蘇った。
冷たい雨に打たれる中で腹が膨らんでいない私は祈っていた。勝利が彼に宿りますようにと、彼が決して死にませんようにと。
あまりに苦しく切ない祈りだ。まさか、公爵によく似た人はその時に死んだのか? 私は勝利を祈りながらずっと待っていて……お腹の子供はその人物との子供なのか?
おかしい。私は彼を裏切っていない。
裏切ったのはむしろ──。
そこで脳裏に流れた記憶のようなものは中途半端に途切れた。
なぜだろう。
彼のことを思い出すと胸が苦しい。
頬に温かさを感じて公爵の肘から視線を上げると、公爵が私の頬に手を添えていた。
動きやすいように一まとめにした公爵の銀髪の毛の先がこちらにはらりとかかる。
動かないでいると、彼はさらに近づいてきて今度は熱を唇に感じた。
この綺麗な公爵はまつ毛まで銀色だった。
なぜ、このタイミングで公爵は私にキスなどするのだろう。翡翠色の目に哀愁まで滲ませて。
私に腹の子の父親を本気で裏切るほど演技しろとでも?
お前が私を先に裏切ったくせに。
自分の中からじわじわ湧く感情に翻弄される。
意味が分からない。
「お熱いことだ、ロシュフォール公爵。よほどその女性を自慢したいと見える」
「これは、王太子殿下」
私から離れた公爵が礼をしようとして、王太子だという金髪の男に止められていた。
なるほど、王太子というのは伊達ではない。偉そうで美しく自信に溢れている。
「良い良い、そうかしこまるな。まったく、獲物を狩る前から森を焼きそうなほど熱さを見せつけるとは。これではハンカチをもらえぬ独身の令息たちが不憫でかなわん。そうだと思わないか、なぁご令嬢方」
王太子が周囲にそう振ると、こちらを見ていた若い女性たちは慌てたように目当ての令息の元へ向かっていく。
ハンカチを渡すのは家族や夫婦、婚約者同士だけではないとそういえば聞いた。婚約者のいない女性は気になっている令息に渡すのだ。無論、令息に婚約者がいる場合は通常だと受け取りを断られる。
好奇と嫉妬にまみれた視線が、王太子の登場によってがらりと変わる。
あちこちで若者らしい甘酸っぱい雰囲気になり始めた。
なるほど、この王太子はいかにも王族らしい。場の空気を自分の思い通りに塗り替えている。
「では、公爵。狩りで競争しよう。私も婚約者のためにいいところを見せなければいけないからな。お前に負けるわけにはいかない」
にこやかな王太子が離れると、周囲の明るさが少し陰ったような気がする。
いかにも王族らしい。あの王女とは大違いである。
ちらりと公爵を見遣ると、彼は目を伏せ物悲しそうにして私の頬を撫で「行ってくる」と囁いた。キスに対する弁明はない。
王太子の登場のタイミングからして、何か示し合わせていたのだろうが……。
なぜ、そんな目で私を見るのだ。
お前が先に裏切って他の女と結婚したくせに。
ん? おかしい。
公爵は独身だ。だからこそ王女に狙われている。
なぜ私は公爵が他の女と結婚したなんて怒りを滲ませているのだ?
公爵が狩りの準備に向かっていく背中を見ても、自分の感情がよく分からなかった。
護衛と侍女としてついてきたヴァルターとエリーとともに、待機するテントまで案内される。
このテントでは私の到着は遅かった方らしく、全員が席についていた。
ざっと見た感じでは空いている席がない。
後ろでエリーが王宮勤めの使用人を捕まえて、席がないのはどういうことかと丁寧な口調で詰め寄っている。
使用人は知らなかったらしく「え?」と間の抜けた声とともに状況を見て、青い顔をした。
「あら、招待もされていない方が狩猟大会に来たのかしら?」
「森に入って狩る方と間違われたのではありませんの? お母様」
「まぁ、大会会場はあちらよ」
テントの奥に座っているのが、以前離れに押しかけて来た王女とその母親である側室だろう。
王女はニヤニヤとした笑みを浮かべているから、わざと私の席を用意せず嫌がらせしているのだ。
なんて小さい女だ。背丈ではなく、器が。
ヴァルターが「王族がこんな嫌がらせって……どうされますか?」と囁いてくる。
手と足を出していいなら簡単な話だったのだが、口で勝つのもややこしい。だが、この手でこられた場合は侍女長のメレディスが教えてくれていた。
「なるほど、王家を騙った招待状をロシュフォール公爵家に送った者がいるとは由々しき事態。すぐに夫、いや公爵と相談しよう。招待状は私と夫に送られたもの。つまり、私だけではなく夫も招かれていないということだからな」
夫と言ったのは、わざとだ。
そう言い捨てて反応も見ずにヴァルターにエスコートさせてテントの外に出ると、案内してくれた使用人が椅子を持って走って来るところだった。この使用人はテント前まで案内するだけだったから何も知らなかったようだ。
「側室と王女曰く、ロシュフォール公爵家に送られた招待状は偽物のようだぞ? 今すぐ調べた方がいい」
「え、えぇ……?」
「私も公爵にすぐ知らせなければならない。偽の招待状で狩猟大会に参加したとは。しかし、おかしいな。先ほど王太子殿下は私たちを見ても何もおっしゃらなかったが。もしや王族は誰を招待したか記憶していないのか。自分たちが主催のものなのに」
使用人に笑みを向けると、なぜか顔を赤らめられる。
「お、お待ちください! 手違いがあったようです!」
テントの中から側室か王女の侍女が転がるように出てきたので、仕方なく足を止めた。




