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金髪女の騒がしさが遠のいていくと、部屋を満たしていた香りも変わった。
それほどキツイ香りでもなかったが、金髪女は香水をつけていたようだ。大きく開いた扉からその香りが出て行くと、どこからか懐かしい香りが鼻をくすぐった。
スンスンと出所を探るが、香りがどこから来ているのか分からない。
嗅いだことがある、懐かしい。なんだ、これは。
「……いつまでこの格好なんだ?」
「ん? あぁ、すまない」
公爵の腰のあたりに抱きついたままだった。
離れると懐かしい香りも遠ざかる。もしや、目の前のこの綺麗な男から香りがでているのか。
再び服を引っ張って抱き着くと、懐かしい香りがまた広がった。
私は確かに昔、この香りを嗅いだことがある。落ち着く、懐かしい、愛おしい、しかし同時に虚しい。
「なっ……」
「すまんな、何かを思い出しそうだ。何の香りだ、これは」
「香水は苦手でつけていない」
「ふむ、では食事の香りか? 今日はどこへ行っていた? そこで香りがついたのかもしれん」
「とりあえず、離れてもらえるか」
「うーん……思い出せん。何の香りだろうな」
公爵は私を引きはがしたので、上着を寄越せと要求した。
刺繍が施された丈の長い重い上着を強奪して嗅いでみると、やはり懐かしい香りがする。
「目の前で上着を嗅がれるのは……恐ろしいな」
公爵は隙間をあけてソファに腰かけたが、上体を遠くにそらしている。
「なんだ、臭いかどうか気になるのか? 大丈夫だ、臭かったら吐いている」
「それは精神的にくるものがある」
「ところで、あの金髪女は何なのだ? 婚約者ではないのか? 態度がでかいから婚約者かと思って愛人の一人や三人でガタガタぬかすなと言ってしまった。王族の割に不細工だったな。この国の王族は皆あんななのか?」
公爵は天井を仰いでいる。
天井に面白いものでもあるのかと見上げたが、美しい絵が描かれているだけだった。天使が人間に手を伸ばしている天井画だ。
「何度も婚約を断っているのに押しかけてくる王女だ。今日のように私の不在時にまで押しかけて、さらに屋敷の中にまで権力で押し入るとは」
「ふぅん。王女なら魔力低下が云々と言わずに結婚してやればいいのに」
「あの王女自身の魔力も少ない。公爵家の領地には魔物が出る地域もあるから、子供の魔力が低いと後々の子孫も困ることになる。そう言うとプライドが傷つくだろうから、敢えて血が近いと断っているのに何度も何度もしつこくてだな」
先ほどまで天井を仰いでいた公爵は苦い表情だ。
魔力の差がある者同士で結婚すると、子供ができにくかったり、出産時に危ない状態になったりするのだった。
私のこのお腹の子供は果たして大丈夫なのだろうか。父親が誰かも分からない。
「そうかそうか。それにしても、私が見つかってしまってすまんな。離れに大人しくいたのだが。公爵の愛する人にも申し訳ない。妊娠中なのだろう? 知らないで居座ってすまなかったな。言いづらいなら私の方からその女性に事情を説明する。私は記憶喪失だが怪しい妊婦ではないと」
「あなたが気に病む必要性はない。あなたの存在を公爵邸の誰かが漏らしたのだ。それにあの状況であなたに合わせてくれと言ったのに、私が他の女を囲っているとでも?」
「ん? 違ったのか? てっきり、私はその妊娠中の愛人の身代わりをすればいいのかと思ったんだが」
「違う。そんな相手はいない。ただ、王女が来たのが面倒で……それに、あなたが目撃されていたから咄嗟に……」
公爵はさらに苦い表情で家令を振り返った。家令は神妙な顔で頷いている。
「私は大いに世話になっているから、あのくらいの演技で良ければいつでもしよう」
「王女にあなたの存在が知られてしまった以上、もしかすると招待状が届くかもしれない」
「なんだ、武闘会か?」
「あぁ、舞踏会や茶会だ。体調不良で全部断ってもいいが、一度短時間だけ顔を見せておいた方がうるさくないかもしれない。顔を見せなかったら、結局は幻だとか嘘だとか言われそうだからな」
「それなら楽勝だろう。茶会では茶を飲めばいいのだろう? 武闘会ならよく出て……いや、妊娠中だった」
「舞踏会によく出席していたのか?」
「あぁ、武闘会には普通に参加するものだろう? 妊娠しているからと見ているだけにすればいい」
公爵は顎に手を当てて「舞踏会が普通となるとやはり高貴な生まれなのか。隠されて育った説は薄いな」と頷いている。
「怖がる演技はしなくていい」
「なぜだ? ちゃんとか弱い乙女の演技ができていただろう? あの王女は弱っちそうだったが、王族というものは大体強いからな」
「……王女が連れてきた騎士を気絶させる女性のどこがか弱いのか……」
「魔術で簡単だ。公爵も魔術師なんだろう?」
「あなたは魔術が使えるのか?」
「?? むしろ、使えない者がいるのか? ここには魔術の本もあったから誰でも使えるのかと」
「魔術を使える者は非常に限られている。魔術からあなたの身元が分かるかもしれない」
「おぉ、それは助かる!」
「なんだ、早く聞けば良かったな。あなたは記憶喪失だったのに私のミスだ。体調さえよければ、早速魔術を見せてもらおう」
「ん、分かった」
公爵が腕を差し出してくるので、自然と彼の腕を取った。何の迷いもなく、これまでそうしたことがあるかのように。
途端に頭が痛くなった。
「っ!」
「大丈夫か⁉」
うずくまりかけた私の腰を公爵が抱く。
翡翠色の目がこちらを心配そうに見ていた。
私はこの目の色を知っている。何度も近くで見た。
この輝く銀髪にも戯れに手を差し込んだことがある。そして、この漂う懐かしい香りも何度も吸い込んだことがある。腰に回された手の温かさだって覚えがある。
公爵、お前は一体誰だ?
記憶のない私を公爵邸全体で騙しているのか?
私は間違いなく、お前に会ったことがある。




