紅葉の向こう側
紅の葉がひらひらと落ちてゆく。
彼と私とを裂くようにして、モミジのカーテンは閉ざされる。不意に吹いた風は私の言葉を攫って、彼の背中は並木続く歩道に小さくなってゆく。
自然と指が動いていた。
パシャリ、と一眼レフに収めた情景は、未だ引き出しの奥のSDカードに眠ったまま。
ずっとそのままで良かった。
もう二度と見ることなんてないと思っていたのに…。
「お母さん。これなに?」
年末に大掃除をしていると、七歳の息子が何やらこちらへ持ってきた。
白の四角いケースが、息子の手には乗っていた。
「どこに入ってたの?」
「僕のね、机の中にあったよ」
やけに胸騒ぎがした。仕舞ったままでいたのを忘れていた。
「…お母さん?」
息子が怪訝そうにこちらを見つめる中、私は彼の手からそっとケースを取り上げると、その隅に記さた文字を見た。
’2019/11月〜’
「ねぇ、だいじょうぶ?」
遠くで息子の声が聞こえる――、ぼんやり、一つ大気の壁を介して。
うん、大丈夫だよ。と、それすら言葉にできない。動悸が治まらない。
「お部屋のお掃除、まだ終わってないでしょ?」
自分の思ったよりも低い声が出た。
それを取り繕うように、「ほら、戻って綺麗にしておいで」と、無理矢理笑顔を作って息子に向けた。彼は煮え切らない様子でいたが、コクリと頷いて自分の部屋へ戻っていった。
我ながら大人げない…。
やけにうるさい心臓をそのままに、寝室へ行きそのケースを化粧台に置いた。過去を一旦保留した。
「今年も、もうそろそろ終わるな」
「…うん」
「聡太も小学校に入ってから、また随分と成長したもんだよな」
「…そうだね」
リビングは、薄いオレンジの色に照らされて――、夜も更けた午前零時に、私と夫の二人きり。
「今日だって…って、大丈夫か?」
「ん?」
顔を上げると、夫の顔が思ったよりも近くにあった。
風呂上がりの三十五のおじさん。面長の、ただのサラリーマン。優しい人。そして――、
私の結婚した相手…。
「うん、大丈夫」
「それならいいけど…。聡太も心配してたぞ、なんかお母さん様子が変だった、って」
「…そっか」
夫と話しているはずなのに、その横に別の陰がちらつく。
「まあ、何かあったら話して」
私が何か隠しているのを見透かすように、夫は笑いそう言うと、「じゃあ、先に寝てるから」と立ち上がった。
「おやすみ」とリビングのドアをひねる夫に私は黙って頷いた。
…言えるはずなんてない。
手元のココアを一口飲めば、それは甘くねっとりと舌に絡みついて、ぬるいのが余計に胸中を混濁とさせた。
私はまだ彼のことが好きなのだろうか。
手に入れたはずの幸せが、こんな一つの疑問によって揺らぐ。
あのケースの中を、SDカードの中を見ればそれが分かる。だからこそ決心がつかない。それで体はなぜか重くなる。
「はあ」
冷えた寝室に、私のため息一つ。鼻を通る空気は、痛く皮膚を刺激する。
あれさえなければ、朝からこんな憂鬱に――、
って、無い?
化粧台の上から、件の爆弾が消えていた。辺りに落ちてもいない。
どこにいったんだろうと思いつつ、目をこすれば時刻は十時を回っていた。
一瞬心臓が止まったが、もう年末の休みに入っていたのを思い出して一安心した。とはいえ、寝過ぎてしまった。
夫はすでに起きているようで、息子の方はまだ寝ているかと、リビングに行ってみれば、二人揃ってパソコンとにらめっこしていた。
「おはよう」
「おはよ」
欠伸を噛み締めつつ、何をしているのかと画面を覗けば、どうやら年賀状を作っているようだった。
「聡太の宿題にあるらしくてな。俺もついでに作ろうと思って」
「そう」
そう言って私が洗面所へ行こうとしたその時だった。
「ああ、そういえば。SDカード借りちゃった」
ゾワゾワゾワッと足元から髪の毛先まで寒気が一気に走り抜けた。
「ちょっと、それって――」
「ああ、化粧台の上にあったやつ。そういえば、なんか一枚だけ写真あったよな」
動くマウスを止めようとしたが、遅かった。
カチカチッと乾いた音と共に、画面一杯にあの日の風景が、あの写真が映し出された…。
「おお、いい写真だな。これ、お母さんが撮ったのか?」
秋晴れの空に、舞うモミジ。その葉と葉の向こうピントが合う一人の背中。
「…うん。私が撮ったの」
「お母さんすごい」
無邪気な息子の声がリビングに響いた。
「ねえ、この人は誰なの? お父さん?」
続いて純真無垢な質問が飛んできた。
「――元彼だよ。私の」
「えっ!?」
声を大きく上げて、夫がこちらに目を向けた。
私はそれに――、
おどけて笑ってやった。
「嫉妬した?」
あれだけ怖いと思っていたのに、あれだけ感情が呼び起こされてしまうと思っていたのに――、蓋を開けてみれば、案外そうでもないらしい。
ちゃんと今の幸せに上書き保存できていた様だ。
「ねえ、モトカレってなに?」
「さあ、何だろうねえ。教えてほしいなー、お、と、う、さ、ん」
抱きかかえた息子に頬を寄せて、その柔肌と温もりに触れて――、いじわるされた夫の可愛らしさを見て、この全てが愛おしい。
「そ、そんなことより、聡太。年賀状作るぞっ」
「えー」
「文句言うなら手伝ってやらないからな」
「わかったよお」
窓外には快晴の下に、裸の木が一身に日を浴びていた。




