夏夜の追憶
ヒナタは独り、ビール片手にアパートのベランダで黄昏れていた。
時分は全くの夜。風が闇に溶け込んだ長髪を揺らす。星々は夏の大三角を筆頭に、小路地の僅かな街灯に劣らず輝いていた。
その路地の十字路、誰もいないスポットライトを流し目に—―
ヒナタは残り少なくなっていた缶ビールを傾け一気に流し込んだ。ゴクリと鳴った喉——。その火照る頬に反してやけに瞳は物憂げでいた。
彼女が大嫌いな人間の死を知ったのは、今朝のことだった。
突然の電話に、今にも玄関を出ようとしていたヒナタはカバンを漁った。
「もしもし」
「ごめんね朝早くに」
「いいけど、どうしたの?」
「実はね…」
言い淀む友人に、ヒナタの整った眉がひそんだ。
「…実は、昨日ね、ユウキ君が亡くなったんだって—」
薄暗い玄関、微かに力んだ細い指。電話の向こう側では友人が話続けていたが、ヒナタの相槌は機械的なものとなっていた。
「忙しい時にごめんね。それじゃあ」と切られた電話。ヒナタはスマートフォンをカバンに戻すとドアを開けた。
明るみに出たヒナタの黒い瞳には、住宅街が映っていたが、彼女自身はそれを見ていないようだった。薄紅の口元を半開きのままに、ヒナタは纏わりつく熱気の中を会社へ向かった。
その日のヒナタの仕事ぶりは、異様なまでに捗っているようだった。同僚らも、「いつも以上に凄いな」と感心したように話していたが、どこかとり憑かれたようにカタカタとキーボードを打つその姿に、終業のころには全員心配そうに彼女を見ていた。
「木内さん。大丈夫?」
帰り際、自動ドアの先でヒナタを呼び止めたのは、後輩の青年――島田だった。暗い夜に並ぶオフィスビルの明かりを背景に立つ、長身短髪の彼を見てヒナタの呼吸は浅くなった。
微かに瞳を揺らしたままに固まるヒナタに、島田は軽く首を傾げた。
「大丈夫ですか?」
ゆっくりと近づく島田が眼前に立ってようやく、はっとしてヒナタは、「ごめん。大丈夫」と微笑んだ。
それは、わかりやすい程に作られた笑みだった。
「あの、お話聞きま――」
「それじゃあ。また明日」
島田が言い切るのを遮って、ヒナタは雑踏の中へとまぎれていった。
電車に揺られ、最寄りの駅で降りると、ヒナタの足はコンビニへと向かっていた。缶ビール三本と、のり弁当一つ入ったレジ袋を提げて、ヒナタは夜道を歩いた。
駅近くに集まった電飾を過ぎればもう都会の喧騒はなく、続くは残り香として独特な臭気を帯びた、熱気立ち昇るアスファルトの小路地。
そこを慣れた足取りで、ヒナタはアパートの自室へと帰った。
ただ無言で部屋に上がると、ヒナタはレジ袋とカバンをテーブルにおいてシャワーを浴び始めた。
ほわほわと湯気が立ち込める浴室。
豊かな胸に、黒の艶やかな濡れ髪は曲線をなぞり吸い付く。しっとりとした肌の上を、細やかな水滴が汗と共に流れゆく――。
風呂上り、落ち着いた空色のキャミソールから白い柔肌をのぞかせて、ヒナタは甘い香りを八畳のリビングに漂わせた。ノーメイクの彼女は、それでも眉毛が薄いくらいで先刻と変わらずの顔でいた。その表情もまた、同じままで——、
ヒナタはのり弁当を電子レンジにいれた。ぐるぐると回る白身フライと磯辺揚げ、さらにはきんぴらごぼう。
静寂の部屋に電子レンジの唸りが染み渡る。それは、どこか空間を歪めている様で…。
「またこれ食べたの?」
「おん」
尋ねた女の手には、空でいる弁当のプラスチック容器。ゴミ袋の中には同様のもので溢れている。
「ほんと、好きだね」
「まあねえ」
男の生返事に、明るめのショート髪を揺らして女は苦笑いを浮かべた。
「ねえ、偶には私の料理食べてみない?」
その提案に、男は「あー、考えとく」と明後日の方を見た。
「もー。まずくはないからさあ」
言いながら女は容器をゴミ袋に戻した。
カタリとその中でずれる透明な弁当の蓋――、貼られたシールには、”のり弁当 480円”と記されていた。
そして、その奥には、全て穴の空いた錠剤の容器が埋もれていた。
「ピー」
その電子音にヒナタの体がピクッと動いた。部屋はまた静寂に戻った。
「いただきます」
テーブル前にあぐらをかいて、ヒナタは磯辺揚げにかじりついた。サクリといってその断面に僅かの歯型が残るちくわ。彼女は黙々と弁当を口に運んだ。
クーラーの冷ややかな息は、部屋から夏を忘れさせる。
彼女は綺麗に割れた割り箸を置くとグラスの水に口をつけた。ただ静かなままに、のり弁当は平らげられていた。
食事を終えてヒナタは、流しで容器を洗った。蛇口から出る水は勢いよく跳ね、過剰な程に力強く彼女は容器を擦っていた。
ぱっぱと水滴を振り払って、ヒナタはゴミ箱に容器を捨てようとした。が、しかし、その手は寸前で止まった。
震える細い指。未だ残ったままの水滴は垂れ落ちる。
ヒナタは手元にあった視線を逸らして、容器をゴミ箱に入れた。彼女は直ぐに背を向けてテーブルに戻った。
プラスチックはカタリと軽い音を立てた。
今度、あぐらをかいて座るその手には缶ビールがあった。静かな部屋にシュカッと音が響いたかと思えば、次には金色の液体は彼女の食道を通っていた。
絶え間なくビールを流し込むヒナタ。その顔は次第に赤らんでいく。
そして、秒針が3周する頃には一缶が空となった。
さらにもう一本と、ヒナタが缶ビールの蓋に指をかけたところで、彼女は不意に立ち上がった。ゆらゆらとおぼつかない足取りで、ヒナタは熱気漂うベランダへと出た。
欄干を背にもたれかかり、見上げた星空。
「シュカッ」とまた小気味よい音と共に、缶ビールのタブが起こされた。
「わぁ。綺麗だね」
輝く星々が地上まで降りてきたかのように、通り一杯をイルミネーションが埋め尽くす。一杯の青いLEDの下を多くの人々が白い吐息を昇らせ往く。
そのほとんどが指を絡めて手を繋ぐ中、一組の男女は曖昧な距離感でそこに紛れていた。
「来てよかったでしょ?」
「いや、まあ別に」
覗き込んで尋ねる女に、男は鼻を触りながらぶっきらぼうに答えた。
揺れる茶色の短髪に、白のイヤリング。一回り大きい男を見上げる女――ヒナタの瞳は電飾に劣らず輝いていた。
「そっかー。ユウキにはこの良さが分からないかー」
含みあるように言って、笑顔を向けた彼女だったがユウキと目が合うと直ぐに逸らした。そして、「なんか暑くなってきたなー」と呟く。
「いや、結構寒いぞ」
「そう? 風邪でも引いてるんじゃない?」
「それは多分お前の方だな」
軽口に言葉を交わしながら並び歩く二人。
「サンタさん、今年は来るかなー」
「え‥‥、あっ。うん、来ると良いな」
「いやっ、信じてるとかじゃないから」
「あ、そうなの」
「私もそこまで子供じゃありませんから」
「そこまでってことは、多少は自覚してるんだな。良いことだ」
「うるさいっ」
そんな和やかな会話は、輝かしいアーチを抜けたところで自然と止んだ‥‥。
「帰ろっか」
「だな」
二人は名残惜しそうに青の世界を一瞥した。そこには、依然として眩い雑踏があった。
二人は静かに振り返ると、街灯照らす、それでもどこか暗い街中を過ぎ電車に揺られた。電車は、銀河の中を走るように街中を抜けていった。
改札を抜け、二人はまた並び歩く。
歩幅は違うはずなのに、それでも同じ歩みでユウキとヒナタは暗い小路地を進んだ。時折すれ違う電柱に付けられた白の街灯は帰り道の導の様に二人を誘う。
「今日、どうだった?」
そう訊いたのはヒナタだった。
「ん? 疲れた」
鼻を触りながら、ユウキは答える。
「本当は?」
「まあ、それなりに楽しかった」
その言葉にヒナタの口元が緩んだ。
「ねえ、ユウキ——」
と、ヒナタが呼びかけたところで、路地に響いていた足音が止まった。
街灯照らす十字路——。カーブミラーが対面する男女を歪めて映す。
「ん? どうした?」
「うんん。やっぱ何でもない。またね」
「おん。また」
胸元で小さく振られた手に、ユウキは頷くとその体を翻した。そして、一歩踏み出したその時——、彼はその場に留まった。
「バイバイじゃないんかい」
苦笑を浮かべて振り向くユウキの視線の先には、彼のコートを掴む繊細な指。それを辿ると——、俯くヒナタの姿があった。
その口元は固く閉じられて、髪の掛けられた左耳は赤く染まっていた。
「どうしたの?」
ユウキの問いに、ヒナタは静かなままでいた。
静寂に立ち昇る白い息二つ。街灯はスポットライトの様に二人を切り取る。
「何、ほんとに体調悪くなった?」
ヒナタは静かに首を振って否定する。そんなヒナタに、ユウキは首を傾げた。
「帰らない方がいい?」
その言葉に、ヒナタはコクリと頷いた。
寒空に広がる本物の星々は、そんな二人を見守る。
ヒナタは一度大きく息を吸い込むと、ふーっと優しく吐きだした。そして、俯いた顔をぱっと上らせた。
——紅潮した頬、潤んだ瞳。茶色の毛先はふわっと跳ねる。そして、微かに喉が動いたかと思えば、固く閉じていた口がゆっくりと開く——。
「わた——」
「じゃあ、一個だけ面白い話でもしてやるか」
視線と同時に、声がぶつかった。
そして、その主導権を握ったのは——、
「実は俺さ、好きな人できたんだよね」
ユウキだった‥‥。
「バイトの先輩なんだけどさあ、すごく頼りになってかっこいいんだよ。黒髪ロングで、まさに美人って感じでさ。それで、やっぱり真面目で——」
続くユウキの話を、ヒナタはただ固まって聞いていた。そのガラス玉の様な瞳には、鼻を触りながらそっぽ向いて話すユウキが映っていた。
「——なんだよな」
言い終わってユウキは、袖を握ったままでいたヒナタの手を、そっと剥がした。
「そう‥‥なんだ。そっか‥‥」
ヒナタは口元だけ微笑みを浮かべると、「引き留めて、ごめんね。それじゃあ」とまた小さく手を振った。
「おう。じゃあな」
そう言って踵を返し、ユウキは一歩踏み出した。そのコートに向けて伸びた指はするりと抜け宙を掴んだ。
そうして、ユウキは暗闇へと紛れていった。
十字路にただ一人残されたヒナタは、力なく、スポットライトの下に立ち尽くした。
それ以降、二人が顔を合わせることは無かった‥‥。
誰もいない十字路を見つめる瞳。
ヒナタは空になった缶ビールを片手に夜風に当たる。
彼女は、鼻でクスっと笑うと——、
「お前のことなんか大嫌いだよ」
と言い残して部屋へ戻った。
夏の夜はじっとりとした白昼の熱を保ったままでいた。
――それが消えてしまわぬように。




