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雪がとけると…

 「右と左どっちがいい?」 


 少女が両手をグーにして、少年の前に差し出した。


 「え、なにそれ」


 「いいから選んで」


 「じゃあ左」


 少年の指差す先、少女の左手がゆるりと翻り、開かれる。


 「ざんねーん。ハズレでした」


 「右、何入ってるんだよ」


 「また今度当てたら教えてあげる」


 少女は意地悪にもそう言うと、後ろ手に組んで歩き始めた。


 「なんだよそれ」


 日も随分と傾き、黒がオレンジを飲み込もうとしている。そんな空の下、小学校の帰り道を二人で歩く少年少女――。


 「もうすぐ中学生だね」


 「そうだな」


 「部活決めた?」


 「ん? サッカーかなー。お前は?」


 「ソフト部」


 「テニス?」


 「ソフトボールですぅ」


 少女はわざとらしく口をすぼめて、語尾を伸ばした。


 「そういえばお前、よく野球続けたよな」


 「どっかの誰かさんは根性なしにすぐ辞めてたけどね」


 少女が放った言葉に、少年は微かに息を飲みながらも「果たして誰だかー」と、誤魔化すように辺りを見回した。


 二人が歩く歩道の端には、まだ溶け切っていない雪が長いヘビのように一列になって凍っていた。


 「まだ寒いね」


 「そうか?」


 「そうだよ。でも、この雪がとければ春になるね」


 「何いってんだ夏美。雪は溶けたら水になるだろ」


 「はぁー、冬馬には風情がないねー。学とも言えるかもしれないけれど」


 夏美は首を左右に振りながら肩をすくめる。


 「お前より俺のほうが頭いいわっ」


 「まあ、中学に行ったらわかるでしょうね」


 「ほほう、なら勝負しようか?」


 「受けて立つ」


 


 「ほら見ろ。俺の方が頭よかったな」


 「ぐぬぬ…」


 休み時間の教室、学ラン姿の冬馬が、余裕の笑みを浮かべて夏美を見下ろしていた。


 「どうしたの夏美、倒れ込んだりなんかして」


 「こ、こいつに、負けたのよ」


 紺のブレザーを纏った夏美は、赤いネクタイを垂らしながら、悔しそうに歯を食いしばって冬馬を見上げている。


 「え、負けたって? もしかしてテスト?」


 友人である女子生徒の問いに、夏美は震えた声で口を開く。


 「そうなの。これまで私の五勝、五敗、二引き分けだったの。そして迎えた今回っ、三年間の集大成よ。私は、私は…敗北したのよぉーっ」


 小麦色に焼けた肌――、彼女は、右手に作られた力いっぱいの握り拳で床を叩く素振りを見せた。


 「で、でもほら、夏美って学年の中では頭いい方じゃん―」


 「俺の次にな」


 挑発するように、冬真の口角は悪く釣り上がる。


 「なにおーっ。たかが学力で勝ったくらいで調子に乗るなっ」


 「おおお、落ち着いて夏美。ほ、ほら、二人同じ高校行くんでしょ? そこで勝てばいいのよ。ね?」


 「果たしてこいつは受かるかどうか」


 鼻高にふんぞり返る冬馬と地に這いつくばり彼を睨みつける夏美。


 二人の視線はぶつかりながら、会話しているように見える。


 「いいわ。今回は負けてあげる。でも負けっぱなしじゃ癪だわ。冬馬、ちょっと向こう向いててよ」


 夏美は顎で指図した。


 「んだよ。何すんの?」


 「いいからっ」


 「それが人にものをお願いする態度かなー?」


 「お願いします。向こうを向いててください」


 「良くできましたー」


 冬馬はわざとらしく拍手した。


 「いいから早くしろっ」


 「はいはい―」


 冬馬はゆっくり後ろを向くと、すぐ正面にある窓外を眺める。


 奥にある山は雪を被っており、それでも手前、中庭にある梅は蕾を膨らませていた。


 彼は、もうすぐ見れなくなるこの光景を、忘れないように目に焼き付けていた。


 「いいよ。こっち向いて」


 振り返った冬馬の眼の前には、夏美の握りこぶしが二つあった。


 「右と左、どちらを選ぶ」


 「はい?」


 「いいから選んで」


 「じゃあ左」


 ぱっと開かれた夏美の左手には空気以外に何も入っていなかった。


 「はい残念。一体いつになったら当てられるのでしょうか」


 「いつになったらって、初めてだろうが」


 「いいえ、そんなことはございません」


 「え、右手何入ってんの?」


 「当てるまで内緒でーす」


 「なんだよそれ」


 冬真は眉をひそめてから、「まあいいか」とあくびを噛み締めた。


 教室はあちこちで話し声が湧いて――、


 そこにいる皆が抱く、もうすぐ来る試練と、その先にある新しい生活への不安や緊張、期待や憧憬が、異様な高揚を作り出していた。


 「そういや、お前ソフト続けんの?」


 「もちろん。そっちは?」


 「俺も続けるー」


 「そっか」


 そんな中でも、冬真と夏美はどこか落ち着いた様子でいた。 


 「あ、授業始まる」


 夏美は教室のドアから教師が入ってきたのを見ると、そそくさと自分の席へと戻った。


 冬馬の右二つ前の席に座った夏美。彼女は一度左手でシャーペンを回してから振り向き、冬真に向けて口をパクパクさせた。


 「受験、がんばろ」




 「もう無理、頑張れんわ」


 「何言ってんの。サッカー部キャプテンがたかが荷物整理で」


 「元だよ。も、と」


 首元にローマ数字のⅢのバッジがついた学ランを着る冬馬が、段ボール箱を棚の上に上げる。


 「さすが、ソフト部のサウスポーエースだ。鍛え方が違いますね」


 「元よ。も、と。早くやんなきゃ帰れないでしょ?」


 白のセーラー服に赤いリボンをつけた夏美は、ファイルの側面を見ながら、何個かある段ボールへと分け入れている。


 「そーだけど。何で俺らが体育研究室の片付けやらなきゃなんだよ。若林のやつ雑用押し付けやがって。どーせ、職員室でコーヒーでも飲んでるぜ」


 「文句言ってる暇あったら手動かしたほうがまだいいよ。それにお世話になった先生方の使ってた場所でしょ?」


 「へいへい」


 そんなふうに、二人してあーだこーだ話をしながら、片付けを進めていた。 


 空いた窓から時折吹き入る風が、夏美の短い髪を揺らす。


 「もう、風がぬるいね」


 「だなー」


 そう言って冬馬が一つ伸びをした。


 「そういやお前ってどうしてソフト始めたの?」


 「急にどした?」


 「いや、なんか。話題提供的な? 暇だし」


 「あ、そうですか。それはどうも」


 と、夏美が答えたところで雑に机の上で重ねていたバインダーが、カタカタと崩れて床へと落ちた。


 「あーー」


 じっとその綺麗に整った眉をひそめた夏美に、冬真は睨みつけられた。


 「はい。ごめんなさい」


 謝りながら、彼はそれらを拾い上げると、今度は綺麗に重ねて置いた。


 「で? なんで始めたの?」


 「そりゃあ、野球やってたからかな」


 「ああ。そうか…。じゃあ野球は何で始めたの?」


 「それは…」


 冬真の問いに、夏美は少し言い淀むと、彼に背を向けて窓辺の棚に置いであった段ボール箱を開けた。


 「誰かさんに左利きを褒められたから…かな?」


 「へー。誰に褒められたの?」


 興味あるのか無いのか、それでも、ただ純粋に首を傾げながら冬真はそんな疑問を投げかけた。


 「…それは――」


 その時、ゆっくりと体育研究室の戸が開かれ、ジャージ姿の男が中に入ってきてた。


 「おうおつかれーい。どーだ、終わった?」


 「あ、若林先生。はい。大体片付いたと思います。あっちにあるのは、どこに入れたらいいのか判断できなかった書類です」


 「うぃ。ありがとうな夏美…。って、もしかしてこの部屋暑かったか?」


 若林が訊くと――、


 「い、いえっ」と、夏美はそのショート髪を大きく揺らして首を振った。


 「そうか。おい冬馬。お前、サボってなかったろうな」


 「もちろんすよ。めっちゃ頑張ってました」 


 「ほんとか?」


 「文句言いながら頑張ってましたよ」


 夏美が悪い笑顔を浮かべながら言った。


 「おい冬馬。何だ文句があるのか?」


 若林もそれに乗る。


 「いや、違うんすよ。まじで。言ってないです。黙々と作業をしておりました」


 「ほんとにー?」


 「ちょまじ。ホントですって」


 「でも夏美が言ってるからなぁ」


 「せんせ、騙されてますって。そいつたまに嘘吐きますからね」


 「そ、そんな。わたし嘘なんてついたことない」


 夏美はわざとらしく泣くふりをした。


 「はいー。女子泣かせたー」


 「もーまじでっ。やめてくださいって」


 それに対し、冬真は少しだるそうに顔をしかめた。


 「わかったわかった。ごめん。ありがとうな冬馬も。ちょっと待ってろ。好きな飲み物買ってくるから。ほら、何がいい?」 


 「え、いいんすか? あざっす。じゃあ俺、カルピスで」


 「すーぐ、態度変える。私、マッチで」


 「はいよ」


 「ありがとうございます」と、二人の声が合わさった。


 若林はひらひらと片手を振って、体育研究室を離れた。


 ガチャリとドアが閉まると同時に、二人してその場に座り込む。強めの風が窓を叩く音と、冬馬のあくびが交互に空間を埋めた。


 「ねえ冬馬。ちょっとあっち向いててよ」


 「なぜに?」


 「いいから」


 「わかったー」


 冬馬は尻を中心にくるっと反対側を向いた。


 そうして天井を見つめる。そこには扇風機と電気とよくわからない模様が、少し狭い空間にそれでもズラッと広がっていた。


 「いいわよ」


 「んで?」


 「こっち向いて」


 冬馬が振り向くと、夏美の握られた両手が差し出されていた。


 「右左、どっち?」


 「ひだりー」


 彼女の手が開かれる。彼女の手のひらには薄っすらとしたマメの跡以外何もない。


 「残念、何もありませんでしたー」


 「なんだよそれ」


 「全くそろそろ当ててもらわないと」


 「知るかて」


 冬馬がそうつぶやくと、ガチャっという音と共に、若林が二つのペットボトルを抱えて部屋へと戻ってきた。


 「ほいっ、ふたりともお疲れ。ありがとう助かったわ。気をつけて帰ってな」


 「はい。お疲れ様でした」


 「お疲れ様でした」


 二人は体育研究室を後にすると、校門を出て帰路につく。


 「私達、もう大学生か…」


 「まさか大学まで一緒とはな」


 「そっちがついてきたんでしょー?」


 「実はそーなんだ…。ってちげーよ。偶々だろうが」


 「わお、ノリツッコミ」


 「うるせ」


 歩く歩幅は違えど落ちる影は等速で進む。


 「学部違うけど、なんかあったらよろしくね」


 「嫌です」


 「素直じゃないなあ、もう…。まあでも、たしかに、今より会う機会は減るだろうけどね」


 「そうだな」


 「さみし?」


 「あんま」


 不意に強い風が吹き付け、二人の服から何からをはためかせた。


 「パンツ見んなよ」


 「見てねーわ」


 「ほんとかなー?」




 「本当だよ」


 他、多くの正装でいる学生埋め尽くす中、これもまたスーツ姿の冬馬が卒業証書を広げる。


 「単位足りてないかもとか言ってたじゃん」


 「奇跡的に取れた」


 「さすがというかなんというか。まあ、卒業おめでとう」


 落ち着いた赤を基調とした振袖姿の夏美が、優しく微笑んだ。


 「そっちも」


 「大学内じゃやっぱそんなに会わなかっね」


 「まあそうだな。地元で成人式の後飲みに行ったりはしたけどって感じか」


 「学部違かったしね」


 「そうだな」


 「ねえ、冬馬――」


 静かに唇に力を入れながら、夏美が両手を握って前に出した。


 「右と左、どっちがいい?」


 「なんだよそれ」


 「いいから」


 「それじゃあ、左」


 「…ほんとに、左でいいの?」


 「なんだよ。いいよ左で」


 「ほんとに?」


 「ほんとに」


 「私は、右の方が良いとおも――」


 「おう、冬馬。お前浮気かー?」


 少し大柄の男が、冬馬の肩に手を回した。


 「ちげーわ。暑いから離れろ」


 「全く、お前はいいよな、絵里ちゃんていう彼女がいながら、こんなかわいい女の子と話してて。俺にも紹介してくれよー」


 「お前まじでうざいからなそれ。てかこいつ、幼馴染だから。小学校から一緒なの」


 「あら、そう。ども、はじめまして。コイツとゼミ一緒だった者です」


 「ど、どうも」


 夏美は苦笑いを浮かべた。


 「あ、そういや夏美。結局今の何だったの?」


 「え? う、ううん。なんでもないよ。というか、彼女いたんだね」


 夏美は少し引きつった顔を隠すように俯きながら尋ねた。


 「うん。まあ」


 と答えながら冬真の瞳には、化粧にしても白くいる夏美の顔が映った。


 「…夏美、大丈夫? 体調悪くなった?」


 「ううん。平気だよ。ごめん、私、他の友達にも挨拶してこなきゃ。卒業おめでとね。じゃっ」


 夏美はその場を逃げるように立ち去った。


 「なんだ? あいつ」


 「お前なぁー」


 「なんだよ」


 「いや、まあ、はぁー」


 「だから何だよ」


 「おまえにゃ、わからんことだ」


 「なんだそれ」


 


 大学構内の人気のない木の下。


 夏美はそこでただ一人、自分の右手を見つめていた。


 「私、右利きだったら良かったのかな…」


 暖かい風が揺らす木漏れ日が、彼女の右手にある文字をまだらに照らす。


 「スキ」


 そう書かれた掌は、一度も冬馬の前で開かれることはなかった。


 「本当だね、冬馬。雪がとけても、春にはならないんだね…」


 夏美は胸元で、右手をギュッと握りしめた。


 そうして俯く彼女の背中、遠くの山肌を雪溶けの水が伝い始めていた。

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