嵐の挽歌:第一節
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さて、中つ国の兵らと北の国の戦士がぶつかり、あの火柱が上がるより以前、フィンブルの渓から冷たい川が続くこの中央荒野のあたりでは、一夜一戦の小競り合いが長いこと続いていたものだった。
冬季が近付くと北の戦士らは大抵、戦収めとして大渓谷を通じて遠路につくべく、帰り支度を始める。
まあ何せ中央では思ったような食糧も得られない、略奪ばかりで補っていてはいずれ物資も底を尽きる、彼らは中つ国の人からは知恵無しの蛮人に見えて、思った以上に計算高く、戦略的に駒を進めているようだった。
……それで、荒れに荒れた野の各地、特に戦場跡には放置された屍が山々と重なるばかりに怨霊の餌食となっていた。大抵、こうした厄介事の後始末はこの地の墓守や僧侶やらが物珍しい霊術で源に召し上げるのが常套なのだが、こう戦が続いていては人手も足りなくなるし、近しい集落などは常々脅かされるばかりだったろう。
死に腐れ、寝付き悪い悪霊の類は単なる野獣よりはよほどたちが悪いものだ。
ただそう、この秋は変わった出来事が幾つかあった。前々から、怨霊間引きの暗い歌が、この辺りでは広まっていたのだ。
この一連の語りは、大体昨年の秋から始まった。その嵐、幽鬼の足取りはそれは舞うように、流れるように、奇妙な足取りで怨霊を祓うことで知られていたという……
◤ 2 ◢
フィンブルの渓より数百里。冬にかけて風が一息に冷え込み、それが南下してくるとまだ中つ国の温かい大気と北風とがぶつかり、めくるめく嵐の形成となる。
そうするとここの荒野は途端に辛く、春まで続く過酷な時期に晒される。森の獣もこの頃になると獲物にも苦労し、草葉を食むものも、落ちて枯れる糧を哀しげに見つめ、冬越えに足る食事にありつけないのなら、あとは必ず来る死に身を委ねるだけだ。農家も例外ではなく、畑を点々と入れ替えては土に工夫して、麦を殺さないようにする。
しかし…このところは北の蛮族に付け狙われて、安心して大地を耕すには全く足らない。戦火と骸の連なりと、そして略奪合戦の追い込みは、民の生殺与奪の権を問答無用に殺奪に傾ける。
そうすると、ここ辺りは死んでも死に切れぬ怨霊の一行が出来上がる。春を求めて、生を求めて、次には来ること無かった暖かさを恨めしやと、無い肌に焼き付けたろう。
今宵は不気味にも、また嵐の太鼓が鳴り響く。その幽鬼を知っているか────聞くところによれば竜の角笛を吹き鳴らし、見慣れない舞踊の一動を、さながら祭儀の如く荒ぶらせ、猛り猛りて亡霊どもを引き寄せるという。民の霊も、兵の霊も、狩人の霊さえも、その響きに釣られて春までには何処に帰るのだとか。
人は"幽鬼"を見るなと言う。見れば魂を持ってかれるぞ、不吉なことが起きるぞ、と。ならば、実際見たという話が出回る訳もないのだが…
それは青い鉄の甲冑だったと聞く。襤褸布に包んだ身、素顔の見えない兜を当てはめ、とても大きな躰だったと。特に、胸当ての辺りはやけに歪んでおり内側から戦ごとに使う破城槌でも突いたのではないか、というほどだったそうだ。声は野太く低く、熊の唸り声のように恐ろしいもので、よくよく見るとその牙の様に輝く銀の剣を携えていたとか。
草はらを踏みしだくその舞いを見るか。身の丈超えるほどのず太い骨を振り回し、ぶおん、ぶおんと風が音の出口に吸い込まれるようにして集う。
同じ様に集う亡霊の数々、淡い霊性の光で、幽鬼に元に誘われては、散る。血みどろの屍の中に、逆さまにして蘇った死に損ないはどうだ。幽鬼の剛腕に拳を当てられ、首をひしゃげながら飛んですっ転ぶ。
決して会わぬように、人は名を知るべきか。遠く北風に乗ってやってきたその者の名を────。
人は…〝ワイルドハント〟と呼ぶ。
◤ 3 ◢
夕暮れも過ぎる頃、荒野の一画に根ざす領王の地の、その森にハンツマンはいた。ひとしきり動いた後だが、誰彼いないとも限らないここでは、甲冑を脱ぐことは止めた。
節々から透き通る風が一気に汗を冷え上がらせ、体温を奪うのはとうに分かりきっていたものの、外套を羽織り、乾燥した木々と落ち葉を掻き集めて、火打石を打つまでもなく、理の一躍で手早く火を起こす。森の中なら強風にも打たれづらく、まだ火種を消さない程度に保てる。
じんわりと暖かい。火が盛りだすと、冷たい板金こそまず熱を帯びだし、すると甲冑越しにも確かに身体は生気を取り戻していった。
どっと胡座をかき、大角笛を傍らに置いて、次第に大きくなり続ける火を見つめていると、ハンツマンは、ある過去に思いを馳せる。木々が熱に爆ぜる中で思い起こすものといえば、十数年も前に聞いた故郷の歌だ。
「……風は還れ 森のままに」
"声は留まれ 枝の先に"
「…狩人よ 呼び起こすな」
"忘れし獣の 嘆きをば"
頭の中で、反復する。麗しき友の声。ぽつりと呟く彼の声に、合いの手を合わせたのは戻らぬ過去。あの髪色が今眼前に小さく広がる火に重なる──いや、本当はこんなものでは済まないだろう。あの赤みは、火のようで火ではなかった。もっと深く、もっと柔らかく、それでいて消えぬもの。
……それが竜の炎に混じる時、彼の記憶はもう引き返せぬ処へと踏み入っていた。多くの友と剣を掲げ、蛮勇を吹きさらしながら厚い鱗に突き立てる。あれは栄華であったと共に、彼にとっては罪過の一片でもあった。今や語るべくもなく…握り拳を作るハンツマンの過去にしか残らないものだった。
ふと、灯りの届かない木々の奥から、荒い息遣いが聞こえた。意識が一気に現実に戻され、咄嗟に視線をそこに向ける。ゆっくり立ち上がり、木陰に大きな身体を隠しながら慎重に近付く。
右手は篝火の方へ向け、いつ何時と得物を振るえるように…手繰り寄せられるように、息を殺して構える。近付けば近付くほど息遣いは間近に迫り、片目で辛うじて見える程度に覗き込むと……彼は再びゆっくりと肩の力を抜いた。
そこに居た。倒れていたのは、大きな鹿だった。首元に矢を受けて中々死に切れぬからか、毛皮を血に染めながらも息を浅く荒く継がせて横たわっている。暗がりでも分かった、その瞳は確かにハンツマンの方を見据えていた。だがもう怯える気も無いのか、身体の辛みを抜いて、その心情には死を受け入れる覚悟───諦観が見え透いている。
……首元は射るべきではなかった。一射で留められる稀な弓手ならまだしも、こうして脈を外し、あまつさえ逃げられる程度の狩人ならば、どうしてそこを射ってしまったのだ。
火の光の届く境界で彼は立ち尽くし、足元に引かれた光と影のあわいから、静かに、闇へと片足を踏み入れた。
"───大鹿は王の 血を抱き"
"───熊は灯火 夜の伴い"
歌が二度と頭を通り過ぎる。一歩、一歩、落ち葉と枯れ枝を潰して進み、鹿の傍に屈む。息遣いは目に見えるところに在る。互いに眼をじっと見つめ、獣も彼も心臓の鼓動を大きくする。彼の視線は移ろい、突き刺さる矢の羽へと。
"───狩りの矢羽は 命の環"
そっと肩を撫で、抵抗無く受け入れる獣は首から赤く染まる。彼にとって、死者を源に導くことと、生者を死に招き入れることとは全く異なるものだ。死に贈りは要らぬとも、生には手向けが必要だ。
だが、彼にはもう与えられるものなど無かった。せめてもう苦しまぬように、せめてもう危ぶまれること無きように───今ここに還れるように、古き森の民は、獣の首に手をかざす。
獣の鼻息が荒ぶりに高まる。傷の上から頭の付け根へと冷たい掌が移り、髄を探り当てた。指の腹から圧が加わり、肉を押して全て終わらせる為に────鈍い音が響いた。
"───ただ一手 ただ一息"
"───生も死も 等しく土へ"
風はそこで止み、火の破裂する音も、そこで黙した。何処かで狼の遠吠えが聞こえていた気がする。あるいはこの胸元に吊り下がる御守が、そうか。
……彼は心中に何を抱いただろうか。憐れみか、哀しみか、それとも…無情か。一つの生が常世から去ることが、どれほどのものだというのか。狩りに生きぬ者には、森に生きぬ者には、真に解り切ることはあり得ない。
殺すことは生への手向けで、祓うことは死への手向けで。自らの手で殺めた者がどれほど居る。それを汚れではないと言い切れる者は、一体どれほどに。
「……何をしている?」
声の主は彼の後手、光の境界に立っていた。不覚を取った、というよりも…端から意識に入れるつもりも無かった。事を終えて、周りを見ることが出来るようになってからハンツマンはその存在に面と向かったのだが、何か言葉を返すことはない。
声は一つではなかった、二つ、三つ、四つと、光の先から彼を見つめていた。…領の兵だ。
「……いや、その鎧は聞いたことがある。青い鉄と言うと、北のミズガルズの華…か」
「昔、この辺りにもその話は流れていた」
一番強い声は、芯のある存在であることを報せた。正規の兵の装いは鎖帷子の上から胴着を羽織っていたが、いつにも増して草臥れているように見えた。
続く戦の疲弊によるものか、声の落ち着きにも兼ねて、色褪せて生気を失いつつある様子だった。彼らにとってこの幽鬼はどう見えていたのか。言うまでもなく、人の掟が迫っていた。それでもハンツマンは、まだ応えなかった。
「なら、密猟者。お前が件の亡霊か。人目を避け、邪を引き連れ、そうして竜の狩人から獣の盗人に変わり果てたか」
声の一人が遠慮することなく此方の影に踏み入れる。人の行き交う度に光がちらちらと影に差し、ハンツマンの視界を遮るなり、また影に隠れたり、慌ただしいことこの上無かった。
この兵の中での年長者が彼の肩に手を置くが、左の手に関しては腰に帯びる剣に翳している。落ち着きこそあれ、手荒な働きに動けばまず言い訳も出来ない。
彼は兵達の誘導に従うように、また光の中に率いられた。────大鹿は領王の獣。何人もその血で手を汚してはならぬと、中つ国における律は物語る。矢を射ったのが誰であれ、実際殺めたのはハンツマンであり、咎人なのだ。
兵の一人は焚き火に、松脂の塗られた松明を突っ込み、火を灯した。元から持っていたものだろう、ここから先の夜闇には必要不可欠の灯火となり、秩序の暗喩となる。ごうと揺らぐ松明の音が彼の耳のすぐ側で波立つ。木々の間をまた風が通り始め、そうすると兵らは耳を塞ぐ形になりながら、腕を構えて風を遮ろうとした。その時だった。
「……ウルスラ…?」
遠く遠くに聞こえる遠吠え。
最早気の所為ではなく、何処に吼えゆる大狼の気。
ほど近く、もう手が届く場所にいる。忘れ難き故郷の符牒が、森の歌が、ハンツマンが長く探し求めていたそれが。
兵が異変に気付いた時にはもう遅かった。
「火が────」
「貴様、逃げる気か!」
火が消えた。風荒ぶりては真っ暗闇に、怒号と混乱が巻き起こる。
彼の肩に手を置いていた熟練兵が最後に見えたのは、角笛を理力で引き寄せる咎人の姿。襤褸布を翻し、瞬く間の竜巻に尻餅をつく。慌ただしく響くは大男の駆ける音。飛び跳ね、倒木に足を着き、また次の跳躍へと。
"───爪を裂かれし 子らの瞳"
"───矢を受けてなお 逃げた影"
"───笑うな 誇るな 狩りとは贄にあらず"
青きハンツマンは何処へゆく。歌に誘われ、森を駆け出し、何処の因果へ向かわれる。誰もかれも彼には届かず、追いつかず、彼は自ら死地へと転がり込んで。いつか別れた枝道を振り返って。
────ここは中つ国の荒れた野、嵐と冬の行き交う狩猟団の地。故に、狩人は留まるところも知らず、枯れてゆく森の土壌にあやかる。あまねく生命の帰る場所に、我らの故郷に。
一歩に生命込めて彼がゆく。奮うべきは己の追憶。荒れ狂え、嵐の挽歌よ、彼女がまだ待っているから。
『───"君の剣は 木の戒め"』
紅の彼女が、待っているから。