第三節『星辰』
中つ国の大陸の中心には、世界で最も高い火山がある。これを『ダイモーンの霊山』と言い、源の聖教の聖地にして『最初の異端』の旅路の、その終の地であると伝わる。火の伝承によれば旅路の末に戦士イカロスは霊山の頂へと立ち、天のオーロラに到達したことで神への帰還を果たしたとされた。
よって聖教では火の戦士と『源』は密接な関係にあると語られ、彼の剣と聖教の象徴たる剣十字までもが結びつけられるなど、おおよそイカロスは数々の逸話と偉業から異端の中でも最も神聖視されている。そうした救世主が当世に至って再顕現し、また聖教を拠り所とする中央連合軍の何割かが北方軍もろども焼き尽くされたというのは、この混沌の世を誅する神の権現であると聖教は畏れと慄きを覚えただろう。
───その戦士が霊山より空の極光に触れた時、空は正しき星辰、即ち『運命の星辰』に満ちていた。
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───────
空模様は上天気。初春のほどよく暖かな空気が道中に広がる青草原を活き活きとさせるようだ。高原を下り数日、いよいよ野宿にも飽きが差し掛かるところでお前達は幸ある事に出会いを経た。
面と向かって座り込むのは戦士。なおも移動を続いているのはお前との二人が荷車に乗るが故、それというのも出会いとは、つまり野道を歩いていた時に起こったのだ。がたごとと音を立てるこの荷車は一等高級な馬車と比べると御世辞にも乗り心地のよいものとは言えないが、それでも俄然と続く街道を渡り歩くよりもずっと我が身を想える手立てであった。
「よかったな」
お前はここ数日の旅路を慮るばかりしばし黙していた。これを破ったのが彼、戦士であり、空いた暇からここを進む面々との親睦を深めるべく重鎮の如き声を発する。
「俺達は足がない。馬さえあれば違っただろうがひとまず彼には感謝しよう」
「ああ、良いんだよ。人との出会いは大事なもんさ、最近は特にここいらも物騒だからね
おらみたいなのは碌に剣なんて振れやしないから、あんた達騎士さまがついてくれるだけで一安心だわなぁ」
兜越しに目を送るのはこの荷車の持ち主、薄ら髪の牧夫。鼻歌混じりの上機嫌で荷と"四人"の乗った車を運ぶ牛を愛でながら老牧夫は荷車を走らせている。彼からすると全身に甲冑を纏う戦士はさしずめ身分の高い人物に見えたらしく、戦士の落ち着いた声色がこれに拍車をかけていた。だが戦士自身の言う通りに、彼は何処に身を置く柄ではなく、まして諸国の勇士でも無かった。
「俺は騎士なんて身分じゃない、まあ傭兵と言えなくもないが…その腕は保証するよ」
落ち着きながらも朗らかに笑う戦士はそれでも"必要とあれば、その働きで借りを返す"と約束し、牧夫もこれにはにこやかに有り難や、有り難やと微笑している。
「近い国まではもう暫く。アルケーまではまだかかるが…ついでだ、路銀稼ぎと飯の確保はしておきたいだろう」
広がる草原、山々の先にはかのダイモーンの霊山が見え隠れする。あの先に行けば、目的のアルケーの地は目前と言って良い。徒歩なら幾日かかるかは検討もつかないが、兎にも角にも旅には路銀が要る。ここまでで食事と言えば戦士が仕立てた野兎の肉や果実を幾つか、存外に悪くは無い道程だったがやはりお前も人の食は恋しかったか。
戦士は霊山をしばらく見ていた。何か考え耽るようにじっと見つめ、思い立って彼はお前に目を向けて語りかけようとしていた。
「"色彩"。お前はここまでの道中、霊術が何かよく分かっていないという話をしていたな。
暇はあるし、諸々の魔法についても教えておこう。まず"生命の業"…お前が聞き、俺が得意とする霊術───そして奇跡だ」
彼の言う生命の業。それはここ中つ国において重いもので、代表的な『奇跡』は大国アルケーの国教とも呼べるものだ。戦士が長けるのは先日の一戦の通り、中つ国よりもなお北の地にてよく用いられる『霊術』…こちらは中つ国においては刑吏や墓守など一般にはあまり使われる事の少ない業であろう。だが何方ともにより系統樹の"王冠"を目指している事に変わりはなく、戦士にはこの極意を教授乞うことになった。
「生命とは即ち"霊性"、しかしそもそも霊性とは何かというところだろう。霊性とは水、濁りが生まれる前の精神の実存だ。
霊性が五体を通し、そうして経験という結実を通じて形成されるのが"魂"であり、ここには人の心に宿るあまねく記憶が累積する。
…一方で、人の無意識や魂として浮かび上がる前に切り捨てたもの、これが生命の業においてはよく"淀み"や"泥"などと呼ばれるのさ───それについては、同じ"生命の業"でも中つ国においては禁忌である"呪術"の分野だ」
小難しいとはいえ、この先に必要となってくる知識だ。饒舌に話す戦士の言葉を一言一句と脳に刷り込みながらお前は頭を捻っていた。
「うむ。人なる器を水瓶とするなら、魂が油、霊性が水、淀みが泥の三階層となっている。そして霊性を起点としたこの須らくは高次の『源』より流出したもの。源の聖教の信仰対象だろう」
"源の聖教"───ウンダ教区で出会ったカミラを覚えているか。カミラはその司祭位であり、そして籍を置いているその教義こそがよく『聖教』と呼ばれるものだ。中つ国を中心として、聖教は"自律"を第一とし、自己表明によって『源』を嬉々させる時、霊性は源から注がれる───これが奇跡だ。
「だが霊術は聖教の依るところではない、霊術が主とするのは今ここにある『魂』そのもの。
"持ってくるもの"が奇跡、"ここで使うもの"が霊術と思っておくと良い。
俺はどちらも長けているが、霊術の方が性には合う」
大雑把には戦士が話した通りだという。『魔法』とは奇跡、霊術、呪術、魔術の四種の総称で、とりわけ『霊魂』の業に分類されるものが前二つ、そして『実存』の業に分類されるものが後二つ。こうした説明を聞いているうちに、次にお前は呪術という単語に興味を持ち、またそれが含まれる『実存』の方面について問うてみた。
すると戦士はあまり興の乗らない声色で自分の膝に肘をつき、少しだけ唸る素振りを見せる。
「ああ、その分野だが…」
肝心の戦士は言葉を滑らそうとして、別に断りを入れる。何か問題があった訳では無いだろう、戦士の魔法の腕前は確かだし、それはお前自身がよく知っている筈だが…彼が言い淀んで見たのは、お前が座る場より奥に、影の如きにそこにいた"翁"だ。
「…この老公の方が詳しいだろうな。どうだろう御人、この者に一つ手ほどきをしてやってはくれまいか?」
「……」
指で書をなぞられていた動きが止まった。先から和気あいあいとしていた中で、ただ一人沈黙を纏い淡々と荷車に身を任せていた老公。いや老公なのか、それすらも曖昧なものだが、少なくとも戦士の口ぶりは"老人"を扱うそれそのものだった。
故に、お前の認識もそれに倣ったものだった。…止まったその翁はというと、一声を与えられてからも少しの間は沈黙を維持していたが、まるで脳の処理が一段落したかのような仕草で、顔の見えないフードの下に存在する首をゆっくりと傾けると、ようやっと口を開いた。
「────実存の話か…魔術も、あるいは呪術もそこに帰結する。魔術は星の理を突き動かすもの、呪術は星と源との狭間に生まれた業よ。
星とは群。群にして個だ。これは視座の揺らぎで容易く変わる道理である。物質の業を心得んとすらば、まずはこの『視座』の変動について修めねばなるまい」
戦士の言葉よりなお堅い物言いは確かに歳を経た人物のそれだ。体感的な生命の業よりも実存の業の話は、より学術的で体系化された空気を醸している。実際そうで、世の魔法体系を築いたのは大魔導師と呼ばれる偉人、今やエイドス硬貨(中央と西方の通貨)にも記される程の"魔法使い"がとりとめない"業"を"術"としたのだ。
特に魔術となると大魔導師が最も長けていた分野、そして物質的な実存を手繰るが故に、時に科学などとも称されることすらある。
「時に…世の物質には『四原因』と呼ばれるものがある。一に質料因、一定の物質を構成するもの。二に形相因、これが"一定"ないし構成された物質。三に作用因、物質を構成させた要素。そして四に目的因、物質を構成させた目的だ。…まさにこの手にある書にも言える」
『書』の質料は───この場合は羊皮紙だ。形相は紙片を幾層に束ねて作られる四角形。作用は書物を創る職人…最後の目的は『読まれること』そのものだ。特に魔術に重要なのが、これを当て嵌める事による"読み解く力"、発展させることでそれはそのまま"組み立てる力"となり、それは『論理』となる。
ただし翁が伝えんとしたのは更にその先の本質…"視座の変動"、即ち" 観測された事象 "に決定的なものは存在しないということだ。先の四原因でさえ、見方によりけりあらゆる可能性が考えられるとも、翁は言う。
「即ち、形相と質料にて『存在』が定義される。後の作用と目的は『意味』を定義するものだ。
…だが意味とは人の内在、本来それは理念や魂のように形にし難い、各々の視座による価値でしかない。故に意味とは因果───魔術とは、各々の因果律を操作することに他ならぬ。そして呪術とは、魔術という空白ではなく淀みという実存を操作する"人の業"なのだ」
長々と話は続いてゆく。時にはその難解さから眠気を誘うこともあったが、そうしてひとしきり概ねを聞いた辺りで話は切り上げられた。
軽い講義はその数十分ほどで終わり、お前は業の何たるかを幾らか修めたところ。戦士と、翁と、牧夫と、そしてお前とが乗る牛車は少し長めの森林に進みかかった────ゆっくりと速度を落とし森の手前ぐらいで牛車が止まる。牧夫が唸りを上げてため息混じりに呟いた。
「ここはあんまり通りたくないんだがなぁ」
「どうした?」
「いやぁ何、いつもは見通しの良い橋の道を通るんだが、軍隊さまがたがあれだけ通った後、途中で崩れちまったらしいのよ」
この森は距離としては精々三町、されど日輪直上の晴天であれ、生い茂る雑木林で幾分かは薄暗くなっていた。何者かが潜むにして十分に適した立地である、当然余程の事情が無ければ地元の人間が避けるような荒道で、今回がまさに二者択一の状況なのだ。他の道は明らかな遠回りになる、戦士は荷車から身を乗り出しじろと見つめると一呼吸を置いた。
「……ふむ。仕方ない、野盗の類いが出るなら俺達で対処しよう」
鮮やかな緑の下、点々した日差しを過ぎて一行を乗せた荷車が進む。最初に懸念していたよりは道中穏やかなものだ。ただ一行の誰もが声を発さず、やや浮足立っていた牧夫すらが静まって、他には荷台が軋み車輪の音が鳴り、紙を捲る音だけが聞こえるのは少々不気味。戦士も微動だにせず、吹き抜けの後方をじつと警戒している。丁度森の半ばに移ったぐらいだろうか、予見された襲撃は確かに起こった。
────ぴし。
荷牛に狙いを定められた音と同時に、その為に放たれた飛射物が寸前にて"堰き止められた"。何も無い空に微動だにしなくなった弩の矢はまさに、理力操作の影響下にある。異変を察知した戦士、並びに暗がりの翁も微かに面を上げ、すると滞空状態にあった矢は発射地点に向き直り、何事も無かったかのように飛び過ぎた。
「ぐあぁ!!」「追え!!」
何者かの痛み声が合図になって、地を踏み鳴らす馬の音が数頭、十数頭の地ならしが聞こえる。前に飛び出した戦士が一声、鞭打と並んで逃走劇の号を飛ばし。
「借りるぞ!」
「うわわっ!!やっぱりこんなとこ通るべきじゃなかった!!」
荷台の方から半ば無理やりに戦士が横取った手綱は煌々と輝いたかと思えば、手綱から荷牛に生命の奔流を与える。鞭打ちは牛の危険信号に直接働きかけられ、凄まじい速度で駆け出し追手を振り切らんとするが流石に荷車、この重量に対し一頭牛では限度がある。背面の地に連打する馬脚の脚…実に十七人という、野盗にしては大規模な数で、捕らえられた暁にはどういう末路を辿るのかは容易く想像出来た。
戦士が再び手綱を牧夫に託すと彼は自分の剣を抜き、お前に向かって冷静に告げる。この状況で逃げ切るのは至難であり迎撃に備える他は無し、荒れ狂う荷車の上で未だ書物を開き沈黙する翁の他には、眼前の問題に対して如何なる手を打つかに迫られていた。
「この数だ、分散させて削った方が良い。俺が降りる…荷車を頼むぞ」
荒々しくも揺れる荷台上を依然問題なしと歩き、戦士は身を乗り出す。その刹那、微かに戦士は背後を、お前と…或いは翁の様子を伺っているようにも見えたが……ふんと鼻を鳴らしたかと思うと一切の躊躇いなく荷台から飛び降りていった。この時既に荷車は森を通過している、薄暮れから明けた晴天の空の下、草原を疾走する荷車に残ったのは慌てふためきながら手綱を握る牧夫。現状に一切の動揺も表すことなく書に手をかける"翁"。
そして背後に、戦士の迎撃を掻い潜った追手が六騎────その野盗どもを睨みつけるのがお前だ。
お前がいる足場は揺れ動く荷台、これほど狭ければ戦う余地はほとんど無い。荷車の後ろに流れる背景を横目に、翁は静かに書を捲り、牧夫はあたふたとしながら猛走する荷牛をなんとか手繰る。一騎が迫る。弩を携え、今度こそと狙いを、まさにお前に定めた。
「……」
────だが矢は天へ、あらぬ方向へ向かう。その時、翁はぱたんと書を畳み、お前と並んで立った。腕を組み、堂々たる佇まいで後方を見据える姿は、どことなく無名の戦士にも似通う。声は老境に差し掛かったもので、しかし無闇に力強いものとはまた違う、芯の通った喋り口だ。今こうして隣に立ったことで、ようやくこの翁の存在の、片鱗と言うべきものをお前は感じ取る。
「油断をする暇があるのか。お前は自分を" 選ばれた "英雄だとでも思っているのか?」
ようやく投げられた言葉は嘲笑では到底なく、それは静かな叱咤だった。お前は"選ばれた者"ではないと、だからこそ厳に慎み対処すべきだと警告を送られる。
単に先達ではなく、そこには導師と呼ぶべき知性と、お前自身に対し希望を見据えた者としての、確かな信頼をも含まれているような気がした。
「よほど怪物じみた者でもないなら…油断なり足を取られるなりで、人は簡単に死ぬものだ。特にお前の様に、半端に力があるとな───逆に、力無き者であれば、身の程を弁えた立ち回りを知っている」
半端な力ほど危うい。"強さ"とは、それを御する業あってのものである。
「当然───強者なら力の振り様を心得る」
突如、追跡者らの馬脚が置く大地に、ごく僅かな窪みや、或いは膨らみが現れる。それだけで馬は足並みを崩し、最も荷車に近づいていた者らが転倒落馬によって姿を遠方に置き去りにしていった。言うまでもなく、翁がやったのだろう。最小限の理力操作で、全て予測の範疇だとでも言う風に、かの老獪は無反応を貫く。敵残機、残りは四か。
「"よく見ろ"。視座を変動しろ。自らが求む答えはその先にしかあり得ない」
彼が顎で『追跡者』を指す。お前が誘導を受け見た先には、未だ執念深く追いついてくる騎手。あれは敵…そう断定していた筈だ。だがどうにも、翁の一言一言が伸し掛かる度にお前は"主観"がぶれていくような感覚を覚えた。
定義が遠く、霞のように朧げに────。…あれは"存在"こそすれ、敵ではないのか? あるいは、お前自身がそう意識していただけか? 答えは、お前だけが知っている。
「……何が見える?」
分かるか、戦闘とは思索だ。考えなければ自己の全てが始まらない。それ故に翁は芯のある言葉の刃をお前に突きつけ、お前なりの見解を求める。追跡者らに見えるのは何か? …息遣い、目線、他には何かあるだろうか? だが思い浮かんだそれらを答えたとして───
「よろしい。今の問、私は答えを示したつもりは無かったからね」
───何を答えようと、"答え"がこの対話の目的でないようだった。彼が問うたのはつまり…"思考"、という事だ。
語気に緩みはなかったが、そこには明確な肯定が含まれていた。答えではなく、問いへの応答。それこそが重要なのだと、彼の声が証明していた。対話の目的が「正解の発見」ではなく、「思考の持続」であるという認識が、静かに滲み始める。
「…先の続きだ。物事には四つの因がある、その内の一つは────言ってみろ」
形相か、質料か、作用か、目的か。
翁は頷いた。砂の嵐が荷車を取り囲み、追跡者達の目を阻む。時が止まるような、まるで音も遮っているかのような静けさが、荷車の中にあった。お前への問いが始まろうとしていた。
「解体、分析、構築─────。
…よいか、因を既存の構成物にのみ当てはめるな」
翁が持っていた書が宙を舞い、冊子から全ての羊皮紙が飛び出る。その一枚がお前の目の前に留まり、その紙片はさらに千切れ、その紙片も更に分解される。もう紙という形状は保っておらず、紙という"意味"も飛散する。無数の紙片がお前の周りに舞うが、それはまるで一定則に従って地に落ちることはない。
「"お前を狙っている"。これがエイドス。なれば、ヒュレーとは如何なるものか?」
形はある。だがその形が意図を孕むかは、別の因によって左右される。"狙っている"と認識したのは視覚か、それとも事前に与えられた意味か。意図を前提として観測すれば、どんな動きにも“敵意”は宿る。ならば質料───その素材、それを構成する原理に、“狙う必然”はあったか?
「ふむ。考える余地がある。"狙わざるを得ない"、故にあんな者は狂気者ではないのだよ。何故なら、そこには理由がある」
狂気とは秩序を持たぬ動因。だが"狙う"ことに理由があるのなら、そこには因果が成立する。理由がある者を狂気とは呼ばない。それはただの構造だ。ならばあれらは、誰かに“構成”されたものか、あるいは、自ら構造に組み込まれた存在か。
紙片の断片が浮かび『意味』の文字を作る。だがその"意味"さえ、長くは留まりはしない。風にさらわれ、文字の線が崩れ、輪郭が曖昧になっていく。まるで意味という行為そのものが、今問われているかのように。
「お前との接点はなんだ?奴らは復讐者か、単に財目当ての野盗か。だがそれにしては怒りも見えないし、身の丈を超えた良い馬を持っているな」
接点の想定は、常に自己の過去に基づく。"関係"を探すという行為そのものが、"関係があるはずだ"という無意識の肯定だ。だが、彼らには怒気もなく、明確な言葉もなく、執念だけがある。
それでもなお、お前は彼らを"敵"と呼ぶのか?
「…ふん…これで二つ潰れた。さあ、どう思う?」
恐らく考えうるにはもう一つ。外的な強制力によって狙わされている。つまり、何処に主犯格となる存在がいるのかも知れない。これはお前が語った仮説だが、翁はこれもまた一貫して、"示さないことを示す"。
「さて、本当にそうかな?」
問い返しの声は、柔らかく、しかし余地を潰す。答えを出したことで安心した思考を、即座に分解へ導く。その問いは、選択そのものを否定してはいない。むしろ、選択を持ってしまった思考が自動的に前提化した構造───それを疑えと指示しているに等しかった。
「私が答える義務は無い。いや…もっと言えばそれは"知らない" 、だから人は思索を重ねる。沈黙とは論なのだよ」
"知らない"ということ。それは放棄ではない。沈黙とは、論の形式の一つ。語らず、結ばず、ただ持続する問いこそが──もっとも深く、根に近い。それを肯定した翁の声には、奇妙な静寂が宿っていた。風が吹く。今度は確かに、帆がひとつ大きく跳ねた。
そして、何かが変わった。見えていたはずのものが、再び"距離"を持ち始める。視座が変わったのではない。世界の方が、問いに応じて"反転"しはじめたのだ。
「……止めようと思えば、矢など、放つことさえ許さなかったとも」
全ての紙片が結束、互いを結び留め、お前が知る一つのエイドスに戻る。開かれた冊子には一つの欠け無く" 書 "という外殻=役割を取り戻し、掌に開かれていた重書を両面で叩くように閉じた後、翁は再び荷台の奥に座り込んだ。気付けば、砂嵐も消え去ろうとしていたが…
「終いだ、後はあの戦士に任せれば良い。…答えを持ってきただろうからな…」
そう呟いたと同時、赤の閃光が走る。風が明けて見えてきたのは何処の馬に乗って追跡者達に並走していた無名の戦士の姿だ。迎撃はとうに終えていたのか、少なくとも十騎余りの輩を全て斬り伏せたのは明白、荷車を追跡していた残りの騎手は幾人かが振り返る間もなく土手っ腹を一斬り。
最後に気付いた一騎は荒れ走る馬の上から弩を番えるが、解き放たれた矢に対しては、戦士は真っ向から剣で弾き、逆に"弾いた矢を射手に放ち返す"。大腿に命中、苦悶の声を上げながら最後は落馬に身を委ねて転がり落ちていった。
奔走する荷車と馬の間で、お前と無名の戦士はやっと眼が合い、声を交わすことも無く互いに頷いた。事なきを得たと牧夫に知らせるなり、荷車はゆっくり、ゆっくりと速度を落として馬並みに揃えながらやがて静止したのであった。最後に残っていたのは、再び翁が新たな書を捲る静かな反復音であった。
事が過ぎ、静止した荷台内部を一通りじろと見る戦士だが、翁が再び一言も語ることなく書に耽っている姿を確認すると、頭を掻くような仕草をしながら腰にもう一方の手を置き、彼も考え耽っていた。
一方のお前はというと、戦士が連れてきた馬を二頭、既に転用をする為に準備をしている……これは戦士に頼まれたことだ。さて戦士のそんな様子、傍からお前が見ている限りでは何ら損耗は無かったようで、相変わらずの実力を証明してくれた。
その甲冑に傷の増えは無し、息が上がっていた様子も無し、むしろ戦士が杞憂によって荷台を調べていたくらいである。内部に戦闘の痕跡が無いのが不審だったようだが、最終的には彼は納得していたようだった。
「…気がかりが幾つかあった」
馬が鼻を鳴らす傍ら、戦士は一人、荷車の外縁に寄りかかって己が思うところを告げる。お前の戦闘に関してではなく、彼が迎撃から持ち戻った懸念点、その仔細というべきものだ。
「ただの賊党がわざわざ騎馬を用いてまで、平凡な放浪者を狩るなどとあるものか。それに奴らは見たところ物持ちも悪くはないだろう、この規模なら組合づてに賞金をかけられていてもおかしくない───ああ、目が、やたらに血走っていた」
青空、快晴。未だ曇天の兆しは無し。各々の心中とは裏腹に、広がる草原と明けた空がかえって不安を焼く。この相反は時に、人を微かに狂わせかねないものでもある。実際あの追跡者らがそうだったのかは置き、果たして彼らが何だったのか、遺体を探っても何一つと分かるものは無かった。あったのは異様な最期と空に響く鳥の吼え鳴きのみ。
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───────
道中に牧夫と翁の乗った荷車と別れ、野盗が持ち合わせていた馬を駆ること数時間。夕暮れ前には戦士の言っていた諸国に辿り着き、栄える街の門を潜り抜けた。街は嵐が去った後のようなある種の疲弊感が漂っており、それは道行く人が言うに、アルケーの王アントスが率いる中つ国の結成軍が通り過ぎたことから人々が胸を撫で下ろしているとの事であった。数日前の出来事だが、大規模な軍が帰還に着くには非常に迅速に事が運んでいる様子が分かる。
それ程に、事態は急を要するものだったのだろう。件の『火柱』で北方軍は大打撃を受けたがそれは中つ国も同じ。決戦は勝敗を分かたず、より長期的な競り合いに打って変わろうとしているのであれば、諸国を含めた情勢というものは大きく揺さぶりを受けた筈だ。長い戦は民草の不信感を買いかねず、特に此度は失ったものが大き過ぎた。
「領王も出払っているようだな。恐らくあの大戦で駆り出された諸国の主はアルケーに集っているのだろう。…うむ、"元老院"だ」
アルケーを囲う諸国の集いはそう呼ばれるという。戦士はここでお前に幾らかの硬貨を投げ渡し、市が店仕舞いをする前に食糧の補充をするよう頼んできた。一方の戦士はお前が買い出しにゆく間に傭兵組合をあたるとの事で、路銀稼ぎと名声稼ぎに相応しいものを探すと言ってそこで別れた。早めに休息を摂りたいものであったが、お前は渋々と市に向かい、長旅に都合の良さそうな保存食を選ぶこととする。
そうしてしばし戦士の下を離れ、買い出しに向かった足をそのまま組合の建屋に運ぶと、そこには受付にて黙し、依頼板を拝見せる戦士の姿があった。建屋はそれなりの傭兵が集っていたが、皆が揃って戦士の方ばかりを見て何やら密に話し合っている様子であった。…何にせよ、お前はそれを特別訝しむ暇も無く、戦士が見ていた依頼板を覗き込む。
見たところ、特に彼がまじまじと見ていたのは賊党の手配書、そして中央大陸西部に跨る調査依頼だ。彼が手配書を取ると同時、お前の方はより興味深い調査依頼書を手に取るが────その様子を見た戦士は呆れたようなため息を吐くと言った。
「…気になるのは分かるがな、先にこれを見ろ。俺達が迎え撃った輩と、この手配書の顔が一致している」
戦士は懐から何かを取り出す仕草をし、そしてそれを置いた。煤に黒ずんだ徽章、意匠こそ違っても、お前の持っているものに近い。組合の係は徽章を凝視し、戦士の兜と、そしてお前の顔も順番に見て、声も出さずただただ、こめかみと唇を震わせていた。遠巻きに見ていた傭兵達は一斉に「おぉっ」と驚愕の様子を表しながら、先と変わらず互いの脇腹を肘で突くような、密な会話に徹している。
「ここまで来て奴ばらめを見逃す理由にはならん、教区を発った時に渡した徽章は持っているな?」
無論、と戦士に合わせて徽章を取り出したお前を見るや否や、見物人に告げるでもなく、戦士は係の者に対して力強く宣言した─────。
「────この依頼、俺とこの者で請け負う」
◤ 魔法 ◢
『魔法』とは、"理力"を発端とする『魔術』の系統と、"生命"を発端とする『奇跡』の系統の二つを纏めて呼称したもの。『魔術』は使用する上で通常、触媒を要し、『杖』または術式が描かれた『スクロール』や『円陣』が用意されていると正常機能しやすいとされている。
一方で『奇跡』は『魔術』とは異なり、触媒が無くとも十全に機能する。しかしながら"祈る"という行為が活きやすい代物であれば、触媒として用いると、効果が上がる事例も確かに見られているそうだ。
その他にも『霊術』や『呪術』を含め呼称する事もあるが、基本属性の代表的な種である魔術と奇跡が目立つ。双方の何れかを学ぶにも、属性を理解する事から始まる。
◤ 火 ◢
熱の属性。代表的な"炎"そのものの他、熱の上下限を操作する類いも此方に分類される。所謂"熱を与える" "熱を奪う"種別。その性質からして、周辺が陽の照る時間帯、火山地帯の様な熱の多い場である程に有利な補正を得る。
◤ 水 ◢
水の属性。魔術として使う上では基本的に周辺に水場がある事が前提となる。空気中の水分を凝縮して発現させる事も可能であるが、相応に魔術師としての技量を求められるだろう。湿地帯の様な湿気の多い場で有利な補正を得る。
◤ 雷 ◢
雷の属性。空気中の微細な粒子を衝突させ、発生した電荷を放電させる事で一般に『雷』の属性と呼ばれる魔術になるという。雷の魔術は卓越した魔術師でなければ扱い切れない。悪天候により周辺が吹き荒れていると補正を得る。
◤ 理 ◢
理力の属性。空間或いは引力斥力に関連付けられる。魔術を使用する上で、殆どは理力属性を起点に引き起こしており、言わばこれは魔術という技術の根幹を担う、最も重要な要素。火を起こす為の着火という"行為"、或いはその"技術"である。
万物に理力というものは繋がる。あらゆる火炎が、水流が、雷電が。故に名だたる魔術師はこれを極め、世界の理を手中に納めんと精錬する。だが一つ、霊魂だけは囚われず、また交じり合う事もないのだという。
↳・引力
引力とは収束である。物質を引き寄せる理力の側面であり生命という種が現在に至る要因であった。星が持つ本来の力であり、それ故に生命を除いた他属性は引力によって突き動かされる。見えぬ力を収束させ、力は形を成す。
↳・斥力
斥力とは反発である。物質を跳ね除ける理力の側面であり魔術師が志さんとする、生命という種にあるべき本懐。他属性の何にも繋がらず、理力が『理力』という属性を確立しているのはこれによる所が大きい。曰く、「生命は星と同様に成らねばならず、そうしてようやく生命は生命足りえる」…やがて星から旅立ち、再びの宇宙を臨むのだと。
◤ 命 ◢
生命の属性。奇跡による回復魔法、霊術も基本的にここへ分類される。生きとし生けるものが持ち得る魂を左右するもので、その性質から信仰心の厚い者、または生まれついての"吸血鬼"らは外向の生命属性に適正が高いという。
最も理論的な説明が付けられぬ属性ながら、ただ言える事は一つ。生命の属性は誰もが持ち、殺しとは生命を破壊する事に他ならない。生命とは即ち魂でもあって、魂とはつまり、肉体そのものになるのである。
↳・外向
生命の属性のうち、外に向ける側面。信徒などが持ち得る祈りの奇跡や吸血鬼の吸魂は此方に分類される。言えば、外から取り入れる生命であり、外に力を向けるという事である。生物が食を試みる、そういった普遍的なものだ。
↳・内向
生命の属性のうち、内に向ける側面。全ての者が持つ生命とは内に生成される意志の流れであり、特に"抗う"ほどに生命というのは燃え盛る。それが内向の生命力であり、確固たる意志の力────魂の咆哮なのだ。