どうやら、子猫になってしまったようです
大きなお風呂にたっぷりのお湯。ヴォルフガングは山岳地帯である。
北の山脈からの雪解け水はヴォルフガングの豊富な水源になっている。その中でもひときわ標高の高いエルハ山は火山であり、地熱によって温められた地下水が温泉となってヴォルフガングの土地の各地で湧き出ていた。
後宮の風呂は、全て温泉なんだとアンリさんが教えてくれる。
私はぬくぬくとお風呂につかりながら、うんうんとそれを聞いていた。
人質用のお城でさえこの待遇のよさなのだから、他のお城はきっともっと、目眩がするほどに豪華絢爛なのだろう。私では想像することさえできないぐらいに。
そんなわけで美肌の湯でぬくぬくして、山岳地帯らしい、鹿肉や羊肉を中心としたお料理をもぐもぐ食べて、私は就寝を迎えた。
「アンリさん、みなさん、おやすみなさい。今日はありがとうございました。私などにこんなによくしてくださり、ヴォルフガングの方々は皆さん優しいのですね」
「そんな風に言っていただけるなんて、光栄です。ミスティア様は慣れない土地できっととても緊張されたでしょう。ゆっくりお休みくださいね」
「はい、ありがとうございます」
私用の寝室の前に、アンリさんを筆頭に侍女の皆さんが並び、挨拶をしてくれる。
侍女の皆さんはさがり、アンリさんだけが私と共に部屋に入って、私の就寝の準備を手伝ってくれた。
ベッドに横になると、アンリさんは枕元のランプに火をともす。
ユーフィミアとは違う種類の魔法が発達しているヴォルフガングでは、ランプの蜜蝋に火を灯すのに、炎の魔法が使われる。
私は何の道具も使わずに、アンリさんの指先からぽわっと小さな炎が放たれるのを、しげしげながめた。
「わぁ、すごい。火、ですね。ヴォルフガングの人々の魔法は、神秘的です」
「いえ、そんなことは……小さな炎や風や水、ほんの少しの魔法は誰でも使えるのですよ。生活魔法と言います。陛下のように、天変地異を起こすほどの魔法を使える人は滅多にはいません」
「そうなのですね、陛下は素晴らしい力をお持ちなのですね」
「ええ。……でも、ミスティア様のほうがよほど。ユーフィミアでは、人を癒やす魔法が盛んだとききました」
「それもあります。あとは、植物を元気にする程度の魔法ですよ。たいしたことはありません」
アンリさんは「そんなことはありません!」と、力強く言った。
それから、大きな声を出してしまったことを恥じたように、一歩さがる。
「ミスティア様、陛下との婚礼は一週間後になるようですので、それまではどうぞ心安らかにお過ごしください」
「ありがとうございます。一週間後なのですね」
「ええ、さきほど宰相閣下から連絡がありました。ユーフィミアから色々とご持参くださったとはいえ、ヴォルフガングとしてもミスティア様のためにしたてたドレスや宝石飾りなどのサイズ合わせをする必要がありますので、もろもろを鑑みて、一週間としたようですね」
ジークヴァルド様は、婚礼の儀式までは適当に過ごしていろ、というようなことをおっしゃった。
あの様子では、婚礼の儀式までは私と会うつもりはないようだった。
それは──そうよね。
私に興味があるわけがない。だって、私は弱小国の姫だ。
どうしてジークヴァルド様がユーフィミアを他の国のように武力によって支配せずに、私を人質として娶ることで実質の支配としたのかはわからないけれど。
武力行使をするほどでもない小さな国だから、王族を一人差し出せと言えばそれですむと思ったのかもしれない。
お父様もお兄様も、怯えながらそんなことを言っていた。
ユーフィミアは、お国柄とでもいえばいいのか、小さな国だけれど食べ物には困らないし温暖で豊かだから、皆結構のんびりしている。
私もそうだ。こうなるまでは、毎日雲の形が変わるのをながめながら、ぼんやりしていたくらいだ。
これからは、そういうわけにはいかない。
「それでは、おやすみなさいませ、ミスティア様。明日は特に予定はありませんので、急がずにゆるりとお過ごしください」
「おやすみなさい、アンリさん」
退室するアンリさんに、私は礼を言った。
ゆるりと──過ごしたいのは山々だけれど、そういうわけにはいかないわよね。
明日は気合いを入れて、ジークヴァルド様の元に向かわないといけない。
できる限り親しくならなければ。お会いしないことには、親しくなどなれないのだ。
これは最重要事項だ。ユーフィミアの民のため、王族として最大限の努力をしなくては。
私は気合いを入れ直して、ひとまず、眠ることにした。
目を閉じて、しばらく。
慣れない環境のせいか、珍しく気が昂ぶって眠れない私は、人の気配を感じて起きあがった。
「ん……どちら様ですか?」
部屋に、人がいる。
驚きに震えながらも、私はおそるおそる尋ねた。
それは女性である。私のいるベッドの目の前に立っている。
黒いドレスに身を包み、陶器でできたような白いつるりとした仮面を被っている。
黒いヴェールに包まれて、髪はすっかり隠れてしまっている。ドレスの下の体つきは豊満だ。
恐らくは、若い女性だろう。
「お前。よくもジークヴァルド様を奪ってくれたわね。お前など、呪われてしまうといい」
「奪う……ま、まだ、奪えていませんけれど……これから奪う予定ではありますが……!」
私はジークヴァルド様をこれから私の虜にしなくてはならないのだけれど、まだ最初の一歩も踏み出せていない。
女性は、ジークヴァルド様の恋人だろうか。
もしくは、後宮の他のお城にいらっしゃる、ジークヴァルド様の妻のうちのどなたかか。
それはそれは申し訳ないことをした。
けれど──恨まれることはとくにしていないと思うのよ。今のところ。
「お前など、畜生になってしまえ」
女性は私に向かい、大きな宝石の飾りのついた美しい杖をかざした。
私の体は光に包まれ──女性は、仮面の下の表情はわからないけれど、おそらく満足げな顔で頷くと、霧のように姿を消した。
私の視界が、どういうわけがぐんぐんと広がっていく。
元々広い天井は広く、元々広い部屋はもっと広く、元々大きなベッドは巨大に。
「……に、ぁ」
奇妙な声が自分の口から出て、私は驚いて飛び上がった。
私の着ていた服が、ベッドの上に散乱している。服の中からもぞもぞと這い出して、ベッドの上で跳ねる。
ぴょん、と飛び上がると、やたらと体が軽い。
自分の姿を確認したくて、ベッドの上でくるくると回る。
尻尾が、ひらひらと揺れている。その揺れる尻尾を追いかけてくるくると回ると、視界がぐるぐるして、ベッドからぼとりと落ちた。
落ちたのに、衝撃がない。
私はくるっと一回転して、すごく上手に着地していた。
──子猫である。
よく磨かれた床に、私の姿がぼんやりとうつっている。
私は、片手で抱えられる程度の小さな白い子猫に、姿を変えていた。