陰陽少属(5)
晴明が廃寺を抜け出した時、辺りは薄っすらと明るくなりはじめていた。
男は酒が強かったらしく、なかなか眠ることはなく、晴明に洛中の話を根掘り葉掘りと聞いてきた。もしかしたら、この男は洛中に戻りたいのかもしれない。晴明は男の話を聞きながら、そんなことを思っていた。
しばらく男は晴明と話をしながら酒を飲み続けていたが、ついには酔いが回ったらしく、その場にゴロンと転がるようにして眠ってしまった。
男が鼾をかいて眠ったことを確認した晴明は、音を立てないようにして本堂を抜け出すと、そのまま羅城門へ向かって走った。
約束の二刻はとっくに過ぎていたため、牛車は待っていなかったが、代わりに式人のひとりが晴明のことを待っていた。その式人は晴明の姿を確認すると牛車を呼び、晴明のことを屋敷へと送り届けた。
屋敷に戻った晴明は家人を検非違使庁に走らせ、廃寺にいる男たちのことを報告した。
武装した検非違使たちは馬にまたがり、廃寺へと急行していった。きっとあのふたりは捕らえられ、晴明の式人を誘拐して殺害したことを認めるだろう。
式人を殺した犯人と、その式人の誘拐を指示した人間のことはわかった。しかし、行方がわかっていない式人はもうひとりいる。これは直接、道摩に聞いたほうが早いだろう。そう考えた晴明は、着物を水干に着替えると、藤原兼通の屋敷へ向かう支度をはじめた。
すでに道摩法師が藤原兼通についているという情報は、晴明の耳に届いていた。
兼通は兼家の兄であるが、ふたりの兄弟仲は最悪だった。ふたりの仲が悪くなったのは、冷泉天皇時代に兼家が兄である兼通よりも先に出世したことにはじまっていた。元々、仲の良い兄弟でなかったことは確かだったが、この兼家の出世がふたりの仲を険悪にした原因のひとつだった。兼通は弟の出世に嫉妬していた。兼通が出世できなかった理由は様々であるが、その中でも兼通の息子である正光が安和の変で失脚した源高明の娘を娶っていたということが大きかった。安和の変以降、源高明に関係していた人間は皆、朝廷から追い出されるなど厳しい措置が取られていたのだ。そのため、兼通の出世は遅れ、兼家の出世を早めることとなった。
嫉妬というのは、時に呪と変わることもある。
晴明はそのことをよくわかっていた。おそらく、道摩はその嫉妬を利用して兼家に呪術をかけたのだろう。呪術を使うことは、朝廷の規則に反していることであった。それは大宝律令にしっかりと記載されている。だからこそ、朝廷の陰陽師でない道摩法師という陰陽法師を使ったのだろう。
「まったく、面倒なことをしてくれるわ」
晴明は独り言をつぶやくと、再び牛車に乗り込んだ。
牛車に揺られながら、晴明はウトウトとしていた。昨晩は廃寺で一睡もせずに過ごしていた。さすがに徹夜しても元気なほど若くもない。
「お待ちくだされ」
声を掛けられたことで、晴明は目を覚ました。何か夢を見ていたような気もするが、どんな夢であったかは思い出せなかった。
屋形の簾を上げて外を見ると、そこには馬に乗った若い武芸者がいた。
「安倍晴明様とお見受けいたす」
「そうであるが、どなたかな」
見覚えのない若武者に、晴明は訪ねる。
「突然の呼び止め失礼いたしました。私は源頼光の家臣にて、渡辺綱と申します」
「おお、頼光殿の。どうかなさいましたかな」
「主人より、晴明様のお供をせよと命を受けて参りました」
「なんと。それは心強い」
晴明はそう言って口元に笑みを浮かべた。源頼光の命令でやって来たということは、藤原兼家が送り込んできたということなのだろう。兼家は自分のことを見張っている。晴明はそのことに気づいていたが、今回のことで確信した。兼家は自分のことも疑っているのだと。疑い深いことは良いことだ。だが、その疑いが呪を生み出すこともある。
だが、武士が一緒に来てくれるというのは心強いことだった。おそらく、兼通の屋敷にも大勢の警護の武士たちがいるだろう。そういった者たちから自分のことを守ってくれる人がいるというだけで、晴明は安心することができた。
兼通の屋敷は晴明の思っていた通り、警護の武士たちで固められていた。
まるでこれから戦でもあるかのような物々しい雰囲気に包まれている。
晴明は牛車を降りると兼通の屋敷の前まで行き、門扉を守る武士に声をかけた。
「陰陽寮の陰陽少属、安倍晴明である。藤原兼通様にお会いしたい」
しばらくすると、晴明は屋敷の中に案内された。
従者は一名だけにしろということだったので、迷うこと無く晴明は渡辺綱を連れて行くことにした。




