朱雀門で笛を奏でし者(3)
朝になると雨は止んでいた。
宿直が終わるのは辰刻であり、陰陽寮に出仕してきた者と交代をするのが習わしであった。
昨晩は雷雨であったが、特に何事もなく宿直の仕事を終えることができた。
晴明は大きく伸びをすると、良く晴れた空を見上げながら陰陽寮の建物を後にした。
大内裏を出た晴明は、一旦自分の屋敷へ戻った。
源博雅の屋敷は、晴明の屋敷からさほど離れていない場所にある。ただ晴明の屋敷との違いは、広大な庭のある寝殿造の屋敷であるということだろう。屋敷の大きさからしても晴明と博雅の身分の違いは明白であった。
屋敷に戻り、身支度を整えた晴明は家人を呼んだ。晴明の家には、ちょっと変わった家人が何人かおり、その者たちは晴明の身の回りの世話の他、見聞きしてきた様々な情報を晴明に伝えたりするのが仕事であった。式人。晴明はその家人たちのことをそう呼んでいた。これは陰陽道に伝わる式神に寄せて、冗談交じりに呼んでいたのだった。
「晴明様、お呼びでしょうか」
やってきたのは童女のような式人であった。水干を着ているため幼く見えるが、着物を着せれば年頃の若い女にも見える不思議な女だった。
「ひとつ、聞かせてくれ。源博雅様についてじゃ」
「存じております。かのお方は、雅楽の名人と呼ばれております。箏は祖父であられた醍醐天皇より学び、琵琶は名手であられた源脩様、笛は大石峰吉様、篳篥は大石富門様と良峰行正様より学ばれております。雅楽に関しては名人でありますが、舞や歌に関してはあまり興味があられないようです」
「なるほど。他には何か噂のようなものはないか」
「博雅様は酒がかなりお強いとの噂です。以前、近衛府で宴を開いた際に、部下たちと飲み比べを行って、全員を酔い潰したという話があります」
「そうか、酒好きか」
その点は晴明も同じであった。しかし、晴明は大酒飲みというわけではない。ただ風情のある宴は嫌いではなかった。
「最近、朱雀門に関して何か噂を聞いたりはしておらぬか」
「朱雀門でございますか……特に聞いたことはございませぬが……」
「そうか。わかった。もし、何か噂を耳にしたら、また私に伝えてくれ」
晴明の言葉に、式人は頭を下げると足音も立てずに去っていった。
彼女は様々な見聞きしたことをすべて記憶するといった特異な能力を持っていた。そのため、晴明は何か知りたいことがある場合は彼女に尋ねるようにしているのだ。
源博雅という人物についてはよく分かった。しかし、耳の早い式人でさえも朱雀門についての噂を耳にしたことは無いというのは、どこか妙である。これには何か裏があるのか。そう考えながら、晴明は屋敷を出た。
「晴明様、どちらへ行かれるのですか」
ちょうど屋敷を出たところで背の小さな男に声を掛けられた。この者も晴明の式人のひとりで、自分の存在感を消すのが得意な男であり、ちょっとした人混みの中にひと度紛れ込ませると見つけることが出来なくなる。男は影のように潜み、晴明の屋敷の庭先で番をしているのだった。この男がいれば、誰かが晴明の屋敷を訪ねて来たとしても、相手に気づかれることなくそのことを晴明に伝え、まるで晴明がすべてを見ているかのように思わせることができるのだった。
「源博雅様のお屋敷へ向かう。誰かが私を訪ねてくるようなことがあれば知らせてくれ」
「わかりました。お気をつけて」
男はそれだけ言うと、物陰に溶け込むかのように姿を消した。
晴明に仕える式人たちは、一芸に秀でた者が多かった。その一芸は、普段の生活では特に活かすことの無いものであり、晴明に仕えているからこそ役立つものであった。晴明はそういった者たちの一芸を買って、式人として雇っていた。
源博雅の屋敷までは、歩いて向かった。晴明のような下級役人では牛車に乗ることもないし、馬を使うほどの距離でもなかった。
辻をいくつか越えたところで、大きな屋敷が見えてきた。外塀は高く、その向こうに木々が生い茂っている。源博雅は臣籍降下したといえ、先々代の帝の血を引く者なのだ。それに従四位下という上級貴族でもある。
立派な門構えの前まで辿りついた晴明は、門番をしている男に声を掛けた。
「私は陰陽寮より参りました陰陽師の安倍晴明という者です。源博雅様にお目通しをお願いしたい」
「安倍晴明殿か、話は聞いておりますぞ」
門番の男はそう言うと、晴明を連れて屋敷の中へと案内した。
やはり源博雅の屋敷ともなると立派なものであった。寝殿造りの屋敷には中庭が存在し、小さな池もある。新緑の木々も植えられており、もう少し前の時期であれば梅の花が見られただろう。
源博雅という男は、なかなか良い趣味をした人物かもしれない。晴明はそんなことを思いながら、屋敷の中を進んだ。
「こちらでお待ちを」
そう言われて通されたのは、中庭が良く見える広い板の間だった。晴明は部屋に入ると、外の景色に目を向けながら博雅がやって来るのを待った。