もののけ(3)
妙な風が吹きはじめていた。山の方から吹いてくる湿気を含んだ冷たい風である。
この風が雨をもたらす風であるということを晴明は知っていた。
晴明は好古の屋敷の庭に泰山府君を祀る祭壇を設ける準備をはじめていた。祭壇を作るのは、陰陽寮から呼び寄せた陰陽学生(陰陽師見習い)たちであり、晴明は細かい指示を学生たちに出していた。
泰山府君は、天命に関わる神の一人だった。基本的には長寿の祈祷の際に使われるのだが、今回は死者の魂を慰めるという慰霊の意味で晴明は泰山府君を祀ることにした。
陰陽学生たちが祭壇の用意をしている間に晴明は自分のところの式人たちを密かに好古の屋敷へ忍ばせていた。彼らは影のように屋敷内に溶け込み、好古の家人たちは誰も晴明の式人が入り込んでいるということに気づくことはなかった。
此の度の祓いの儀には、賀茂光栄にも参加してもらうことにした。光栄は賀茂保憲の息子であり、晴明と同じ陰陽師である。まだ若い光栄に朝廷以外の現場を踏ませるといった意味もあったが、晴明には別の考えもあった。
祭壇の準備が終わる頃には、好古の屋敷の周りに大勢の見物客が詰めかけていた。朝廷の陰陽師である安倍晴明が祓いの儀を行うらしい。その噂は京中で広まっていたのである。
この噂の出元、それは晴明自身であった。晴明が式人たちを使って「安倍晴明という朝廷の陰陽師が野大弐の屋敷で物怪を祓う儀を行うそうだ」という噂を流させたのだ。式人たちは市などの人が大勢集まる場所でさり気なくそのような話をして、あっという間に庶民の間に噂を広げたのだ。
「見物客が大勢来ておりますな、光栄殿」
「少々集まりすぎではないか。一体、どうしてこんなに多くの人々が集まってきておるのだ」
「さあ、私にもわかりませぬ。ただ、人々は陰陽師という者がどのような儀式をおこなうのか、興味があるのでしょう」
晴明はそう光栄に言うと、口角をあげながら微笑んだ。
祓いの儀。この屋敷に住み着いた物怪を祓う。表向きはそのように噂を流した。陰陽道に邪を祓うという儀は存在するが、実際に物怪を退治したり、祓ったりといった儀は存在しない。そもそも物怪などは存在しないのだ。あれは人間が抱いた恐怖感から生み出した幻想に過ぎない。そう晴明は思っていた。だから今回も表向きは祓いの儀ということにしてあるが、実際には泰山府君を祀る儀を行い、亡くなった好古公の幼い子の魂を慰めるというものだった。
なぜ晴明がわざわざ自分の考えを曲げてまで、物怪祓いの儀を行うという噂を流したのか。そこに晴明の本当の狙いがあった。
祭壇にあがった晴明と光栄は、いつもと変わらぬ儀式をはじめる準備に取り掛かった。やることは、泰山府君に祝詞をあげ、死者の魂を慰めるという慰霊の儀である。
「さて、はじめますぞ。雨が降る前に終わらせてしまいましょう」
晴明は周りにいる人間に聞こえるくらいの大きな声で好古に告げると、祝詞をあげる準備に取り掛かった。
屋敷の周りには、大勢の人が詰めかけすぎたために、検非違使が出動する騒ぎにまでなっていたが、晴明の祝詞が聞こえはじめると人々は急に静まり返った。
「青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」
祝詞を詠み終えた晴明が続いて九字を切りはじめる。すると、空から大粒の雨が一滴、また一滴と降りはじめた。
屋敷の周りにいた群衆からため息交じりのどよめきが起こり、人々はまるで晴明がこの雨を降らせたかのように騒ぎ立てはじめた。
空を覆った鉛色の雲は瞬く間に雨を降らし、人々は木の下や周りにある屋敷の軒先へと逃げていく。
「晴明様が言われていた通り、雨が降ってきたぞ」
「晴明様が雨を降らせたのだ」
「あのお方は、天にも通じる本物の陰陽師じゃ」
見物客たちは口々に言い、晴明があたかもすごい陰陽師であるかのように話をする。
そもそも、晴明が行った儀式と雨が降ったのは何の関係性もなかった。
ただ、晴明は空の様子を見て雨が降りそうだということは予測していた。そして、それに合わせて儀式を行うというのも晴明が計算したことであった。
すべての祝詞をあげ終えた晴明は光栄に頷きかけると祓いの儀を終了し、そのまま好古の屋敷の中へと入っていった。
晴明たちが屋敷の中に入ると、雨脚は一層強くなった。
持ってきていた別の水干に着替えを済ませた晴明は、好古に家人たちを部屋に集めるようにお願いをすると、光栄に別の支度をするように指示した。
「晴明殿、これは……」
「良いのじゃ。万事うまく行く」
怪訝な顔をする光栄に晴明はそう言うと、持っていた扇子で自分の肩をポンと叩いてみせた。




