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アイルは代々続く議員の家系に生まれた。幼少期は父が政治家であることが、人々の役に立つ仕事をしていると誇らしかった。だが次第に、世間から疎まれる存在であることを知る。さらにほぼ強制的に婚約者をあてがわれたことで、自分の人生が他人に振り回されるのが嫌になった。そして十七の時に入軍した。
軍ではまず一期上の先輩とバディを組む。そして選ばれたバディは、奇しくも父の同僚の息子クレイグだった。しかし彼はアイルとは違って、むしろ用意された人生のレールを歩んでいた。そして一番困惑したのは、クレイグがアイルを『バディ』ではなく『女』として見てきたことだ。
セクハラまがいのことは多々あった。それを勘違いして周りが冷やかしてきた。けれどもアイルはやめて欲しいとか、誤解だとか、訴えることをはばかられた。逃げるようにして入軍したのに、ここで騒ぎを起こしてまた親の敷いたレールに戻るようなことは避けたかった。だから耐え続けた。幸い、積極的な行動を起こされたことはなかったので、自分さえ黙っていればどうにでもなると考えていた。
しかし、事件は起こった。雪山訓練でのことだった。登山に用いる地図はクレイグが管理していて、彼の指示に従って入山した。それが先輩バディの役割だった。だがアイルは違和感を覚えた。自分達より先に入ったペアの足跡が見当たらなくなったのだ。さらに人が進んだ気配のないけもの道。進むにつれ、明らかに道を間違えたとアイルは思った。でもクレイグはプライドの高さが邪魔をして、彼は間違っていないと意地になって主張した。後輩という立場からアイルは何も言えず、しばらくすると日も暮れてしまい、近くの洞窟で朝を待つことにした。
洞窟の中で火を起こしたはいいが、標高の高い山の中ではまともに暖が取れなかった。最初苛立っていたクレイグは、徐々に不安に襲われて錯乱し始めた。朝が来ても誰にも気付かれず、ここで野垂れ死んでしまうのではないかと。
するとクレイグは、死ぬ前に悔いを残したくないと言ってアイルを押し倒した。アイルは恐怖した。死を恐れ、彼は理性を失くして獣と化した。どんなに安心させようと言葉をかけても無駄だった。アイルは必死に抵抗して、とうとう雪が降りしきる暗闇へと飛び出した。
剥ぎ取られた上着を取り返す余裕が無く、上半身は薄着だった。最初は恐怖心から闇の中を走ることが出来たが、やがて寒さが肌を刺して耐えられなくなった。このままでは朝が来る前に凍死してしまう。恐怖と寒さの板挟みになって、もしかしたらクレイグも冷静さを取り戻したかもしれないと、半ば願うように洞窟に戻ることにした。
洞窟の前でクレイグと目が合った。その目に光は無く、意識が朦朧としていて、そして雪の上を誰かに引きずられていた。引きずっているのは、体格からして男のようだった。
何がどうなっているか全く理解出来なかった。アイルは思わず寒さを忘れて、その異様な光景に見入ってしまった。そしてクレイグが崖から蹴り落とされたのを黙って見つめていた。まるで劇でも見ているような、現実味の無い光景だった。
しばらく谷底を覗いていた男が顔を上げて、初めて男の顔を認識した。ガリアスだった。
当時あまり話したことの無かったので、ガリアスがどんな人間かは分からなかったが、ただ不思議な気持ちが湧いた。
『今・・・・・・先輩を殺したの?』
なんて、そんな間抜けな質問をしてしまった。
するとガリアスの殺意が次は自分に向けられたのを察したが、直後に捜索隊が到着したことでガリアスからの直接的な攻撃は免れた。
上官にクレイグの安否を問われたアイルは、自分は外で薪を拾っていたので分からないと答えた。そしてあの時見た光景を決して口外することはなかった。
アイルは心の奥底でガリアスに感謝していたのだ。自分ではクレイグをどうすることも出来なかった。いつかケリをつけなければならないと思いながら逃げていた現実を、皮肉にもガリアスが決着してくれた。それに先輩バディに襲われかけたなんてことは、羞恥心から口が裂けても言えなかった。
だが、感謝すると同時にガリアスに恐怖した。どういう事情があるのかは知らないが、同僚を殺害したのだ。いくら兵士でも理由無き殺人は罪である。さらにアイルは虚偽の報告をしたことから罪の意識が芽生えた。いつか全ての事実が露見するのではないかと不安が心を覆う。
偶然とはいえ救われ、洞窟での事実を闇に葬れたが、自分をこんな気持ちに至らせたガリアスを憎んだ。憎むことで、自分を正当化出来た。
こうしてアイルとガリアスは互いに憎み、いがみ合うことになったのだ。
***
アイルが目蓋を開けると、そこには何も無かった。ここはあの世。死んだ者が辿り着く永遠の闇の中。ここには何の隔てるものも無い。だからアイルはガラス玉に映る自分の過去を、他人事のように俯瞰的に眺めていた。
過去を見ながら、自分の若さや稚拙さを嘲笑った。
「私達こんなにも似た者同士だったなんてね。そうでしょ、ガリアス」
振り返るとそこにガリアスが立っていた。闇を背にして、彼はアイルを睨みつけた。
「まさか俺とお前を一緒にしているんじゃないだろうな」
「だってそうでしょ、私達とても臆病で、こんなにも憐れなんだもの」
ガリアスはここでアイルと一緒にその過去を見ていた。そしてアイルも同様に、ガリアスの過去を知ることとなった。
いつもガリアスが何を考えているのか分からなくて不気味だった。だがガリアスは単に不安だったのだと悟って、ようやく彼の人となりを理解出来た。アイルが虚偽の報告をして事実を露見されるのを恐れたように、ガリアスも自分の過去を掘り返されるのが恐ろしかったのだ。二人とも自分で掴んだ人生を奪われたくなかった。
ただそれだけだったのに、周りの環境が二人を狂わせた。
「嫌なものだな、必死に隠していたものを、易々とお前に知られてしまった」
「こんなところで知られるなら、洞窟の前で目が合った時、本当のことを全て話せばよかった。そしたら私達は無益な争いをせずに済んだのよ・・・・・・」
「でもあの時の俺達には話し合うなんて選択肢はなかった。現実はそんなに甘くない。何もかも結果論だ」
ガリアスは吐き捨てるようにそう言って、踵を返した。
「どこに行くの?」
「先輩を殺した日から俺の行先は地獄だと決まっている」
アイルは目を見張って、去り行くその手を掴んだ。
「私も行く」
怪訝そうな顔をするガリアスはアイルの手を振りほどこうとする。
「やめろ。同情でもしたのか?そんなもの俺には必要無い」
「あの日先輩を殺したあなたに罪があるなら、黙っていた私も同じ罪よ。あなた一人で行かせたりしない。私も一緒に地獄に堕ちるわ」
アイルはまっすぐにガリアスを見つめた。今までこうして何度も対峙してきたが、疑りや怒り無しに彼の顔を見れたのは初めてだった。それはガリアスも同様で、初めて彼の普通の顔を見た。
やがてガリアスは腕に込めた力を抜き、少し黙って、腕を降ろした。そしてもう片方の手でアイルの手を下にずらし、自分の手を握らせた。
「この道は険しいぞ」
ガリアスに導かれながら、足場の悪い砂利の山道を歩いた。どれだけ歩いたか分からないが、道はまだ延々と続いている。このままどこまでもガリアスと共に行こうと決めた。孤独で臆病な者同士、同じ罪を背負って、地獄まで。
──アイル。
ふと顔を上げた。
「今、何か呼んだ?」
ガリアスが振り向く。
「アイル」
その顔が、別の誰かの面影と重なった。
──アイル。
──アイルさん。
思わず動揺した。
「メルト、ドーシュ」
愛しい者達の名前が口から溢れ出た。次の瞬間、突然風が吹き荒れる。身体が吹き飛ばされそうになるほどの突風で、ガリアスと繋ぐ手が離れそうになった。
「ガリアス!」
風に髪が乱され、砂が舞い上がって、視界が狭くなる中でガリアスの悲しげな笑みが見えた。
「お前はまだ必要とされている。罪を精算するのは今じゃなくてもいい」
アイルはハッと目を見開いた。
「でもあなたを一人放って戻れない!」
「・・・・・・。行け、アイル。元来た道を戻るんだ」
そう言ってガリアスは少し名残惜しそうにしながらアイルの手を離した。
「あぁ・・・・・・!!」
離されたアイルは塵のように吹き飛ばされ、ガリアスの姿が段々と小さくなっていった。
「俺達はまた出会うことになる。同じ罪を背負っている限り、いつか必ず」
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