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ある日突然、父親が他界した。事故だった。いいや殺人かもしれない。自動車に轢き殺された。信じられないことに運転手は自分と同じ歳、十四歳の少年だった。少年は保守派議員の息子で、父親の所有する自動車を勝手に持ち出して乗り回していた。しかしこの件は議員の家で働く使用人が運転手だったことにされ、事実は隠蔽された。
ガリアスは現場検証に立ち会った警邏隊副隊長に何故あの少年を裁かないのか詰め寄ると、その男はこう言った。
『この世界の絶対的ヒエラルキーだからだ。私にも、どうにも出来ない』
諭すように告げられた残酷な言葉を、ガリアスは不思議とすんなり受け入れられた。いくらここで泣き喚き、騒ぎ立てても、責められるのは逆に自分なのだと知っていたから。
しかし犯人の少年を許した訳ではない。少年クレイグと、当時警邏隊副隊長だったガリアスの名前と顔を決して忘れず、復讐の念を胸に宿した。
父が死んでから実家の運搬業を、母と引き継いだ。だが元々体が弱かった母はやがて床に伏せ、ガリアスが二十一の時に母は亡くなった。ここが潮時だと感じ、店を畳んだ。これでようやく自分の人生を歩めると思った。
なのに、何の因果だろうか。入軍後にあのクレイグが一期上に居た。聞けば素行の悪さから議員や文官になれず、コネで入軍したという。奴は同期だったアイルのバディであった。
そして訓練生の特別指導教官がライディンなのだから、何かの陰謀かと疑わずにいられなかった。
しかし驚いたことに、二人は自分を覚えていなかった。父の事件から七年が経ち、ガリアスの面影を忘れてしまったのか。店を畳んで実家の所在地を変更したからピンと来なかったのか。理由などどうでもよかった。ただ心の奥底で燻り続けていた復讐の炎が轟々と燃え盛っていた。
この時ガリアスは、自分は決して振り回される側の人間ではなく、社会のヒエラルキーの頂点に立つと心に誓ったのだ。
まずはクレイグを始末することにした。奴とバディを組んでいるアイルとは話したことはなかったが、見た瞬間に自分とは反りの合わない人間だと直感した。向こうも何か勘づいたのか複雑そうな顔をしていた。最初からあの女に協力をしてもらおうなどとは微塵も考えていない。そもそも他人の協力を得るなど自分の流儀に反する。証拠を残さずクレイグを始末し、完璧に処理してみせる。
利用したのは訓練生に課される雪山訓練だ。あらかじめ渡された地図を読み、バディで雪山の峠を越えるという課題だ。特に何か試練があるのではなく、純粋な地理感覚の訓練と、雪山での体力強化や、変わりやすい山の天候に適応する訓練が主な目的だ。
ガリアスは深夜にクレイグの荷物をあさり、書き換えた地図とすり替えた。鈍感なクレイグはそうとも気付かず、案の定ルートから外れてアイル共々遭難した。そして夜闇と寒さをしのぐ為に、偽の地図に示された洞穴に誘導された。これは全てガリアスの計画通りだった。
頃合いを見て、ガリアスはバディを置いて、クレイグが一晩過ごすであろう洞窟に向かった。ルートを外れるのが見えたのを心配して、バディ以外への補助禁止というルールを破って呼びに来たというのが建前だ。そして油断したところを崖から突き落とすつもりだった。
しんしんと、雪が降り積もる静かな夜。洞窟に訪れたガリアスに予想外の出来事が起こった。何がきっかけかは分からないが、クレイグはガリアスを見た瞬間、唐突に七年前に自分が殺した男の息子の顔を思い出したのだ。
やがてクレイグは、これが全てガリアスによる陰謀なのだと気付き、何もかも教官に暴露すると騒いだ。そしてまた父親の権威を利用してガリアスを辞めさせると言い切った。
耳障りな声に、ガリアスは反射的にクレイグの頭部を強打して意識を混濁させた。そして崖の近くまで引きずって、彼を谷底へ蹴り落とした。
とてつもない達成感に満ち溢れた。ヒエラルキーの最下層に居た自分が、まるでその頂点に上り詰めたような気分だった。
だから森の中から現れたアイルと目が合った時、背筋が凍りついた。幽霊を見た気分だった。いやその方がどれだけマシだったか。クレイグに気を取られて忘れていたが、思えばバディであるアイルは洞窟に居ないはずがない。この女の存在を失念し我を忘れてクレイグを殺してしまった上に、犯行を目撃されてしまった。
『今・・・・・・先輩を殺したの?』
マヌケな質問だと思った。反射的にアイルを殺そうとしたが、偶然ガリアスを担当していた先輩バディと、本部の捜索隊が到着してしまった。クレイグ、アイルペア探しに来たらしい。ついにガリアスはアイルを殺す機会を逃した。
どういう理由かは分からないが、アイルはガリアスの犯行について何も報告しなかった。そしてアイルは自分と距離を置こうとした。
ガリアスはアイルが何も報告しなかったのか腑に落ちなかった。クレイグの殺害をネタに脅迫する訳でも、仲間になると取り入ってくる訳でもない。何よりの問題は、自らは手を汚さない主義の自分が直接起こした数少ない犯行を目撃されたことだ。いつ気が変わって口を割らないとも限らない。ガリアスがアイルを抹殺しようとするには十分な理由だった。
やがて殺すよりも、何を言っても信用されないように彼女の信頼を落とすことが一番だと考えるようになる。そしてずっとその機を狙っていた。
同時進行で、ライディンを追い落とす為に派閥に目を向けるようになった。どうやらライディンは改革派過激派集団ヴェンダの幹部であるようだった。その事実に気付いたのは、ライディンが代々家に伝わる家宝だと言ってナイフを研いでいたのを偶然見かけた時だ。そのナイフの形状は見る人間が見ればかなり歴史的に価値のあるものらしく、ヴェンダの幹部が所持していると噂されていた品物と一致したのだ。
ガリアスは自分の幸運にほくそ笑んだ。こちらから仕掛けずとも、すでにライディンは自ら爆弾を抱えていた。これをただ上に報告してはもったいない。ライディンの情報を保守派議員に渡し、その見返り保守派の中枢に潜り込むことに成功した。さらにこの機会を使ってアイルを陥れる画策した。
作戦は驚くほど上手くいった。ライディンが保守派に連行されることを知ったアイルは案の定動いた。そして彼を謀反人に仕立て上げて即刻処刑しようと試みた。他の人間は信頼の厚いライディンが謀反など有り得ないとアイルを責め立て、婚約は破談となり、遂には自ら除隊した。
ガリアスは心が軽くなった。クレイグを殺し、ライディンは自害。出世敵でもあったアイルを排除したことで、何の不安も無くなった。
ただ、あの時自分がどうしてライディンの牢を訪れたのか、今でもよく分からなかった。結局特に大した言葉も交わさなかった。ただナイフを持っていないかと聞かれた。自死するつもりなのだと察して、あの家宝のナイフには到底及ばない普通のナイフを渡した。この男の死は、こんな安っぽいナイフで終わりを遂げるのだと思うと、滑稽を通り越して哀れだった。
全ての障害を払い除けたガリアスは副隊長となり、やがて隊長にまで上り詰めた。そして保守派でも神官長と取り引き出来る立場を確立し、とうとう自分が追い求めた理想を手にした。──はずだった。
『アイルが監察官になったらしい』
誰かの噂話を又聞きしただけなのに、恐らくそれは事実だと確信した。あの女なら必ず起死回生の一手を打つと思っていた。しかし解せなかったのは、ライディンが死んでから六年が経って、何故今監察官になったのか。
あの港でアイルが連れていた少年が、死んだライディンの忘れ形見であるドーシュを知って入軍した時のことを思い出した。この世はどこまでも因果なのだと。そしてドーシュを引き込むことで、やがて彼が復讐心に苛まれアイルを殺してはくれまいか、いつかの自分のように。そう願っていた。心の底から。
***
止血されたアイルはドーシュに肩を貸してもらい、支えられながらガリアスに近付く。ガリアスは目の焦点が合っていない。もう目が見えないのだろう。それでも呻く声でアイルを認識したようで、うわ言のように呟く。
「アイル・・・・・・何故、あのことを言わなかった」
「あのこと?」
「・・・・・・」
首を傾げるドーシュだが、アイルは傷が痛むのか息が荒く、何も言えないようだった。いや、メルトから見ればあえて黙っていたようにも感じた。
「もっと早く、お前を殺せていれば・・・・・・」
「ならその手で、殺せばよかったのよ。その機会がなかった訳じゃ・・・・・・ないでしょう。でもアンタは弱い人間だった・・・・・・だから私を殺せなかった。・・・・・・結局アンタは、弱い自分に殺されたのよ」
今にも倒れそうな顔でアイルは必死に声を絞り出していた。ガリアスの目から生気が消えていく。
「殺してやりたかったさ・・・・・・それが出来たら、どんなによかったか・・・・・・」
そう嘆いたのを最後に、ガリアスは事切れた。
ふとメルトは、アイルの足が震えていることに気付く。そしてすぐにアイルは糸が切れたように意識を失った。
「アイル!!」
「アイルさん!!」
アイルが二人の呼び掛けに答えることはなかった。
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