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雨が降り止み、森の中が土の匂いで充満していた。鳥が囀り、時々木の枝先から雨水の雫がこぼれてくる。そして滑りやすい足元に気を付けながら、若い女と少年が森の中を進んでいた。
「ねえアイルさん、なんで山沿いの道を行かなかったの?あっちの方が近かったのに」
アイルと呼ばれた女は足を止めずに先陣を切って歩き、大きな水溜まりを軽々と飛び越えた。
「あの道は雨が降るとすぐ斜面が崩れるの。危ないから回り道をしないといけないのよ。ほらドーシュ、手を」
ドーシュは言われるがままにアイルの手を取り、その水溜まりを飛び越えた。
「ふーん。分かっているなら補強して直せばいいのに」
「あまり人の通らない道だから、優先順位が低いのよ。ドーシュだっていくつも道が悪くなったら、まずは人通りの多い道を通るでしょう?」
「確かに。アイルさんって本当に何でも知ってるなぁ」
感嘆するドーシュにアイルは苦笑した。
「あなたは若いから知らないだけよ。そのうち私の知識なんて軽く追い抜くわ」
アイルは今年で二十五になる。そしてドーシュはまだ十五。血の繋がりは無く、ある事情があって三年前に孤児院に送られるはずだったドーシュを引き取ったのだ。しかし養子という訳ではなく、ただ一緒に旅をする連れというほか表現のしようがなかった。
「でもさ、アイルさん結婚してないんだろ?僕なんて引き取らず適当に男見つけて結婚しちゃえばよかったのに。何で夫より先に子供見つけちゃうかなー」
「えー、ナニ?聞こえなーい!」
アイルは耳を塞ぐ身振りをしながら、ドーシュを睨んだ。
「私に結婚の話は禁句っていつも言ってるでしょ!それに私はあなたを養子に迎えたかった訳じゃないの。ちょっと仕事の助手が必要だったから適当に連れて来ただけ。だから私のことお母さんなんて呼んだら許さないから。だいたい歳が合わないじゃない」
「助手の方が不自然に見えそうだけど。あ、じゃあ姉さんとか?」
「ダメダメ。あなたは何と言おうとただの助手。分かった?」
「はーい」
これはアイルがドーシュを引き取った時から固く言いつけていることだった。自分達は家族ではなく、仕事をする上で必要なパートナーなのだと。それに対しドーシュが悲しそうな顔をしたことは無く、いつも飄々として、あっけらかんとしていた。だから彼の実際胸の内がどうかはアイルは承知していない。ただそれでも、ドーシュを側に置いておけることが何より重要だった。
「そういえばこの先の川を渡るんだよね?」
「ええ。吊り橋が壊れていなかったらいいんだけど、なにせ古い橋だから」
しかしアイルの願いは虚しく、無情にも釣り橋は真っ二つにちぎれ、半分川の中に浸かっているのが遠目から分かった。昨夜の雨の勢いか、それともその前からそうだったのか。しかも今も川の水は濁り、とても人が渡れる状況ではない。
「仕方がないわね、他の道を行きましょう」
そうアイルが身を翻した時、ドーシュが袖を引っ張った。
「待ってアイルさん!誰か橋に引っかかってる!」
「え?」
ドーシュの言葉にアイルは耳を疑った。上流から人が流されて来たのか。そもそもこの水の流れの中、まだ引っかかって留まれていることがあるだろうか。
「ほら、沈んでる橋の先にしがみついてる!」
ドーシュは目が良かった。そして確かに彼の言う先に誰かの腕と頭が見えて、アイルは慌てて駆け寄った。
「ドーシュ、荷物からロープ取って!」
「ロープで引っ張るの?」
「私にくくりつける!まずは状況を見る!」
アイルは慣れた手つきでロープと木の幹を結び、川に半身落ちた橋を伝って下りる。足場はあるようで無いと思った。残っている吊り橋はいつ崩れてもおかしくない。手すりの部分に足をかけ、ハシゴ代わりに使う。水の流れに足を持っていかれ無いよう注意を払いながら、水の中に膝下を入れた。そこには意識の無い黒髪の男が一人引っかかっていて、アイルは男の首元に手を当てる。
「どうですか?」
「・・・・・・生きてる。引き上げるからもう一本ロープを下ろして!」
「はい!」
男にもロープをくくりつけ、ドーシュと連携して川から引き上げた。その時目に入った軍服を見てアイルは目を見張る。
(この男、兵士だわ!)
しかし動揺して油断すれば自分も命を落とすことになる。川から上がると、別の安全な場所に移動し、男の濡れた服を脱がせる。その間にドーシュは火を起こした。
「腕を怪我してる。よく橋にしがみついてられたなあこの人」
「それどころか、生きていることの方が不思議だわ。あれだけ冷たい水の中に居たのにまだ生きているなんて、とてつもない生命力の持ち主ね」
アイルが助けに降りた時も、意識は無いのにその身体はしっかりと橋にしがみついていた。無意識に生を渇望していたのだろうか。歳もまだ二十そこらに見える。若さと体力も幸いしたに違いなかった。
男の腕に薬を塗り包帯を巻いて毛布で包んだ。すると男に段々と体温が戻ってきて、呼吸が安定してきた。
「う・・・・・・」
男の呻き声にアイルはピクリと反応する。
「意識が戻ったのね。もう少し回復したら山を下りて医者に連れて行くわ。だから頑張って、ここまで耐えられたのよ、絶対生き延びられるわ」
男はほんの少しだけ目蓋を開き、また意識を失った。
***