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36歳 会社員 独身
それだけで大体説明がつく程度にはありふれた男
そんな俺「西宮慎吾」は、くたびれた作業着を脱ぎながら腰をひねる
休日だというのに朝から呼び出されたせいで、俺はこうして職場にいる
ちょっとした工業機器の下請けである、そこそこの規模の工場のメンテナンスを担当する慎吾は己の不運を嘆きながらいそいそと着替える
トラブルを解決した以上、休日にこうして職場にいる意味は無いからだが、昼過ぎとはいえ本来は休日なのだから「え?もう帰るのか?」みたいな目で見てくる他の職員の目線は本当にやめてほしい
昔から器用な方だった
田舎の生まれなので、何かが壊れただとか何か欲しい時は大抵自分でなんとかしていた
そんな慎吾が就職した職場で、調子の悪い機械をわざわざ修理業者を呼ぶ手間を惜しんで自分で直していたのが悪かったのかもしれない
修理業者が結構な出張費や工賃を要求していたこともあり、自分がいる時だと明らかに修理依頼が少ないことに会社も気付いて、あれよあれよと言う間に「メンテナンス担当」なんて新しい役職を作って押し付けられてしまった
「まあ、自分とこの社員使えば実質タダみたいなもんだしな」
そりゃ機械自体が壊れたなら専門業者に頼むが、メンテナンス担当なんてできたもんだから大体のトラブルは現場でなんとかしようとせず気軽に俺に振られてしまう
おかげで休日出勤も悲しいかな「よくあること」だ
会社に訴えて新人二人を部下にもらって、一通り教えているが休日に仕事を振るのも躊躇われるのと自分一人でも大丈夫そうなトラブル(ダメなら出勤している他の社員を使うつもりだった)なので、慎吾はこうして一人ロッカールームにいる
着替え終えた慎吾は車の鍵をブラブラさせながら階段を下り、下駄箱で靴を履き替えた
掲示板の前を通り過ぎながら貼り紙を流し見していると、一枚の紙が目に止まる
「あー、もうそんな時期か」
健康診断のお知らせ
そう書かれた紙のリストには社員の名前と日付、そして書き込むスペースがある
しばらく悩んだ慎吾は、胸ポケットから取り出したペンでそっと自分の名前の下にある空白に「バツ」を付けた
中古のSUVを走らせながら慎吾は一人呟く
「胃カメラか~いつかは受けなきゃなんだろうけど、怖いんだよなぁ」
慎吾の職場では、35才以上からは通常の健康診断に加え胃カメラ検査を任意で受けられるシステムとなっている
去年、慎吾は「なんか怖い」という理由で拒否していた
来年は受けなきゃな、と考えていたはずだが、結局今年もこうして拒否している
良い大人がなにしてんだ、と自分でも呆れるが、なかなか乗り気にならないのだった
「一回受けてみれば大したこと無いのかもしれないけど、未知だから怖いんだよなぁ」
情けない独り言を呟きながら、自宅までの道を軽快に走るのだった
自宅までの帰り道、チェーンのコーヒーショップでアイスコーヒーと昼食には少し物足りないがサンドイッチを購入し、せっかく天気も良いし昼下がりで他の客もいないのでテラス席に座って食べることにした
この選択は、すぐに後悔することになる
アイスコーヒーの蓋にストローを挿しながら
(胃カメラねぇ…胃カメラかぁ…胃カメラ…)
36にもなって何をウジウジと、と思う自分と、まだ若い(自分ではそう思いたい)しまだ大丈夫じゃないか?と考える自分が頭をぐるぐる回る
コーヒーに挿したストローをぐるぐる回し、胃カメラと重ね合わせる
カラカラと揺れる氷はさながら自分の恐怖心だろうか
氷がそのうち溶ける様に、自分のこのくだらない恐怖心も溶けてくれないだろうか
そんなことを考えつつもコーヒーが薄まるのは嫌なのでストローに口をつける
口に広がる苦さが「ウジウジしてないではよ受けろ」と言っている…気がした
「…はぁ。まあ一度受ければどんなもんかわかるしな。明日出勤したら丸に変え…え?」
慎吾は視界の違和感に気付いた
目の前の片側二車線の国道
通い慣れたその道を車線いっぱいに横向きになったタンクローリーが走っている
かなりの速度でドリフトを決めるタンクローリーだったが、慣性に従って進む内にコーヒーショップ手前の縁石にぶつかった
その衝撃で速度をそのまま回転に置き換えたタンクローリーは、真っ直ぐ慎吾へと迫る
思考ができないまま固まる慎吾の視界には、自分の手前にあった愛車とタンクローリーがぶつかる瞬間までがスローモーションの様に見えた
そのまま、真っ赤に染まる視界と共に意識も真っ白に染まったのだった