Karte.1 岡本蓮と篠崎綾香
篠崎 綾子 年齢40歳 女
記入日 2050年 4月7日
主治医:岡本 蓮
2047年10月23日に『人間性乖離症候群』と診断。
初診の段階で既に右腕一部に鱗のような物体が生えていた。
母子家庭で専門病棟に隔離すれば彼女の収入が途絶えてしまうため、特別支援金を申請。
娘の篠崎綾香が珍しい「超克患者」であったため、彼女自身にも超克の可能性があると思われたが、2048年2月14日から昏睡状態に進行。
2049年1月から主治医を後任に交代。以降は独立した専門医として彼女を定期的に監視。
他の患者よりも病の進行が遥かに遅かったものの2050年4月6日に末期状態に移行し、大蜥蜴のような姿に変異。
理性は感じられず、我々に襲い掛かってきたため殺処方を適用した。
◆◆◆
壁の外から雨音が聞こえてきて、俺は何となく窓の方に視線を向けた。
窓に薄っすらと映る自分の顔は、酷くやつれている様に見える。
人を殺しておいて何様だと思うが、人を殺したのだから当然だとも思ってしまい、やはり自分はこの仕事に向いてないな、というお決まりの答えが出てきたところでようやく思考の沼から這い上がる。
そんな俺の様子をずっと眺めていたのか、向かい側の席に座っていた同僚と目が合った。
田山直弘。
角刈り頭の厳つい顔に筋骨隆々なその姿は医者というよりも純粋な格闘家を思わせる。しかし本人曰く犬と幽霊が大の苦手らしく、その意外な一面が割と一部の女性に受けているらしい。
「大丈夫か?」
「まあ、ちょっと」
「あんまり抱え込んでるとそのうち壊れちまうぞ。悪いことは言わないからしばらく休め」
「そうも言ってられないだろ。俺たちは看取り屋なんだから」
「俺はな。けどお前は望んでやって来たわけじゃないだろ」
「…………」
思わず俯いてしまう。
確かに俺が目指していたのは、普通の病院に勤めるような人を救うための医者だった。
けれど医者になるためには『人間性乖離症候群』、通称『怪異病』の患者に対する戦闘技術が必要になる。そしてそのための研修を受けていた際、俺は殺処方専門科医の適性を認められたのだ。
殺処方というのは『怪異病』の末期、即ち完全に人ではなくなった患者に安らかな眠りを与えるということ。身も蓋もない言い方をすれば殺すということだ。
だからこそこの科に属している医者は患者殺し専門という意味で「看取り屋」とも呼ばれている。
ああ、そうだとも。
つまり俺は人を救うのではなく、人を殺す才能に目を付けられたのだ。
「適性者が少ないせいか、看取り屋に選ばれた奴は拒否権がないからな」
「まあ、病院に勤めていた頃は普通の患者を救う機会があっただけまだマシだったと思う」
「ああ、それな。流石に俺も看取り屋が独立した職業になるとは思ってなかったわ」
「全くだ。完全に生まれた時代を間違えた」
俺は笑って返したつもりだったが、上手く笑えたかどうかは分からない。そもそも笑い事ではないので当然かもしれないが。
「まあとにかくさ。昨日の女性、確かお前が病院勤めだった時の最後の患者だったんだろ? 他より思い入れがあった分きつかったんじゃないのか」
「まあ、ちょっと……な」
1日経てば少しはマシになるかと考えていたが、今でも彼女を撃った感覚が忘れられない。
俺はあの時銃を握っていた右手を見下ろして、その手で思わず拳を作った。
――篠崎綾子。
俺にとって最後の患者であり、この手で殺した女性の名前。
彼女は自分が殺される未来にあると知っても絶望せず、最後まで娘のことを想い続ける強い人間だった。だからこそ彼女の想いに応えてあげたかったのに、俺は結局何もできずに彼女を看取ることになってしまった。
やはり『怪異病』を治すことはできないのだろうか。だとしたら俺は患者に何をしてあげられるだろうか。一体何をすることが最善と言えるのだろう――。
そこまで考えて、筆がすっかり止まっていたことに気付いて慌てて遅れた分を取り戻そうとする。
しかし今書いている死亡診断書を田山に取り上げられてしまい、俺は筆を持ったまま溜息を吐いた。
「分かった分かった。今日はもう帰ることにするよ」
「おう。こいつは俺の方から提出しとくから安心してくれ。大体のところはもう書いてあるんだよな?」
「ああ。自分の言葉で書くべきところは書いてある」
これでも元主治医だったからな、と苦笑を零しつつ、俺は後始末を田山に頼んで一足先に帰宅することにした。
◆
自宅のマンションが見えてきた時には、もうすっかり身体が冷えていた。
天気予報を見ていなかったことが悔やまれる。
最寄りのコンビニでビニール傘を買ったはいいが、そこに辿り着くまでに酷く濡れてしまったのだ。
せっかく早く帰れたのに風邪になっては洒落にならない。
俺は身体を震わせながらも、急いで最後の距離を駆け抜けた。
「――あ」
しかし、玄関の前で思わず足を止めてしまった。
そこには一人の少女が立っている。
見覚えのある制服を着ているので、恐らくはこの辺りの高校生だろう。しかし傘を持たずにここまで来たのか、相手は俺よりも更にずぶ濡れの状態で、足元には水溜まりができていた。
「あ……もしかして岡本先生ですか? 以前、物部病院に勤めていた」
「え、あ、はい。そうですけど……」
誰だろう。俺が病院に勤めていた頃の患者だろうか。
いや、この子の顔には覚えがない。考えられるのは患者の娘と言ったところか。
俺は不審に思いながらも少女の名前を尋ねようとしたが、その前に彼女の方から聞くことになった。
「私、篠崎綾香と言います。先生の患者さんだった私の母――篠崎綾子の娘です」
「――――」
「先生に話があって、ここで待っていました」
言われてみて、初めて納得した。
そうだ。こうして顔を合わせるのは初めてだが、確かに篠崎綾子の面影が残っている。それにこの声は昨日、電話で母親の死を連絡した際に聞いたものと同じだ。
篠崎綾香と言ったか。何故彼女が俺の住所を知っていたのかは不明だが、わざわざ俺に会いに来た理由はよく分かる。
「取り敢えず中に入らないか? 君もそれだけ濡れてれば寒いだろう」
「いいんですか?」
「一人暮らしの男部屋に抵抗がなければね」
「……大丈夫だと思います」
ならば何故答えるのに時間が掛かったのだろう、とは聞かなかった。
もしかしたらそんな余裕がなかっただけかもしれない。
俺は声が震えていなかっただろうかと不安になりながらも、彼女を自分の部屋の中まで案内した。
幸い人を呼ぶことは珍しくないので、いつもリビングだけは綺麗にしてある。
「流石に人の服に着替えたくないだろうから、タオルを沢山出しておこう」
「あ、ありがとうございます」
俺は自分の部屋なので遠慮なく別室で乾いた服に着替えさせてもらう。ただそれだけでは何だか申し訳ないので、彼女にも暖かいココアを用意することにした。
「あ、飲み物まで。……すみません、ありがとうございます」
「どういたしまして」
リビングの隅で立ったままだった彼女にココアの入ったカップを渡す。その時ふと気付いたのだが、彼女の髪や服はいつの間にか完全に乾いていた。
「それ、どうやったの?」
「え? あ、これですか? 私の異能です」
「異能……」
そう言えば篠崎綾子の娘は『怪異病』を超克していたのではなかったか。
あの病を超克した者は決まって何かしらの異能を開花させるという。ならば目の前の少女が異能者であることは至極当然と言えるだろう。
俺は密かに覚悟を決めつつ、彼女に食卓の椅子へ座るよう促してから反対側の席に座った。
「で、話っていうのは君のお母さんのことか?」
「……はい」
「昨日も電話で話した通り、お母さんは理性を失い、ついに人ではなくなってしまった。そしてそんな彼女を殺したのは俺だ」
「聞きました」
「俺を親殺しと非難する権利が、君にはあると思う。それは、受け入れるつもりだ」
「そんな! それは違います!」
「……違うのか?」
『怪異病』患者は最終的に殺すしかない。その事実は既に世間で当たり前の認識になっているが、頭で理解するのと心で納得するのとでは話が違う。
だからこそ俺に何かしら文句を言うか、或いは過激に復讐でもしに来たのかと思ったのだが、どうやら彼女にそんなつもりはないらしい。
俺は内心安堵しつつも首を傾げた。
「じゃあお母さんの話って何なんだ?」
そう聞くと、彼女は突然俺に向かって頭を下げてきた。
「ありがとうございました」
「……?」
「病院の方に聞きました。先生が主治医だった時、お母さんを何とか助けようとしてくれたって。その後病院を辞めたのに、お母さんの最後の時にわざわざ立ち会ってくれたって」
「あ、いやそれは」
最終的に何もできず、篠崎綾子が人として死んでいくのを黙って見ていただけだ。
そして怪物となった彼女を、再殺した。
それは決して、遺族に感謝されるようなことではない筈だ。
「お母さんのことを、最後まで人として接してくれてありがとうございます。最後まで諦めないでくれて、ありがとうございました!」
「……違う。それは、違う。お礼を言われるようなことは、何もしてないんだ、俺は」
突然のことに頭が真っ白になっていた。
何故彼女は――篠崎綾香は自分の母親を殺した相手に頭を下げて感謝しているのだろう。
何故俺は、何も知らない彼女に礼を言われなければならないのだろう。
何故俺は、狼狽えるだけで真実を話していないのか。
そう思ったら、考える前に行動に移していた。
「――申し訳ございませんでした!」
椅子から降りて、膝を折って、頭を床に擦り付けて。
俺はあの時のことを告白する。
「君が考えてるほど綺麗な事実なんて何もない! 俺はただ、何もできない自分が許せなくて、それを素直に受け入れることができなくて、ただのエゴで彼女を最後まで生かしていた! 彼女の意思を尊重する勇気がなかったんだ!」
俺は頼まれていたのだ。
篠崎綾子が昏睡状態に入る前に。
『ねぇ先生。もし私が化け物になりそうになったら、そうなる前に人として殺してくれない?』
けれど俺は殺せなかった。
確かに『怪異病』の患者を人のまま殺しても殺人の罪には問われない。寧ろ患者がそれを望む場合は推奨されているくらいだ。
それでも俺は彼女が人である限り、その命を奪いたくはなかった。
だけどその結果があれだ。訪れたのは最悪な結末でしかなかった。
「俺は変異した彼女を見て怯えてしまった! 惨めに悲鳴を上げながら、彼女のことも忘れてただ目の前の『怪異』を殺すことだけを考えて拳銃を向けた! 彼女の人としての尊厳を何一つ守れなかった!」
俺は篠崎綾子という人間に、何一つ救いを与えることができなかった。
ただ「普通の人」を殺したくないだけの臆病者だった。そのくせ怪物になったら容赦なく殺意を向けられる卑怯者だ。
俺に感謝される資格なんてない。感謝されていいわけがない。
「俺は君の……貴方の母親に取り返しのつかないことをしてしまった! 当然許して貰えるなんて思っていません。だけど、それでも言わせてください!」
「――っ」
「貴方の母親を救うことができず、申し訳ありませんでした!」
ああ、俺は間違いなく卑怯者だ。
謝罪する中でふと思う。
きっとこうして篠崎綾香と出会うまで、そして彼女に感謝されて罪悪感を刺激されるまで。
こうやって俺が心から謝罪することなんて、きっとなかったに違いないと。
「――」
「――」
それからしばらく、沈黙が続いた。