ゲームの世界でプレイヤーが戻ってくるのを待ち続けた女の子が幸せになる話
隊長、お元気ですか?
あなたが基地に姿を現さなくなってから、1年が過ぎました。
私は元気です。
あれから頑張って、強くなりましたし、以前よりは隊長の役に立てるんじゃないかって思います。
えすえすあーる? の子たちには勝てないかもしれませんが。
ああ、あと、少しは大人になれたかなって思います。
どうでしょう、隊長の好みに近づけましたか……って、手紙じゃ顔も見えないから、書いたってしょうがないですよね。
隊長が去ってからの1年、色々ありました。
最初の頃は、みんなで協力して魔物の襲撃を撃退したり、食糧集めもしてたんですが、えっと……隊長がいないと、やっぱりみんな、まとまらなくて。
少しずつ人数が減っていって、今、基地に残っているのは、私一人だけです。
最近は、近くで見かける人も居なくなって、何だか空も少しずつ暗くなってきて、少し怖いです。
ごめんなさい、本当はこんな弱音を吐くつもりは無かったんですが。
でも、やっぱり、隊長がいないと、寂しいです。
隊長に、会いたいです。
ねえ、隊長……どこに行っちゃったんですか?
今度、一緒に街に遊びに行くって約束、してたじゃないですか。
今はもう、街に人もいませんけど、でも、隊長さえいればきっと私、どこでも楽しいです。
だから……だから……。
◇◇◇
「隊長……どこ行っちゃったんですか……隊長ぉ……!」
少女は、かつて“隊長”と呼ばれていた人物が使っていた机で、肩を震わせて泣いた。
頬を伝った涙が滴り落ちて、隊長に向けた手紙を濡らす。
綴られた文字が滲む。
さらに彼女は手紙の上に置いた手に力を入れて、紙の端っこをくしゃりと握りしめた。
彼――いや、彼女かもしれないが、“隊長”はいつも全身に鎧を着た、不思議な人物だった。
突如この世界に現れた隊長は、不思議な力で様々な力を持つ少女たち――いわゆる“騎士”に手紙を送りつけ、スカウトしてきた。
そして騎士団を結成し、力を合わせ、人類の脅威である“魔物”に対抗してきたのである。
騎士団が誕生したことで周辺の街も栄え、さらに人が集まり、騎士団も大きくなる。
そうやって3年ほど活動してきたある日――隊長は、突然姿を消した。
「もう……私も、疲れちゃいました……信じるのって、こんなに疲れるんですね……」
涙を流し、隊長への手紙にすがりつく少女の名は、クロエ・バンフォーカ。
“レアリティ”はR。
この基地に隊長がやってきた時、一番最初にスカウトされた騎士だった。
つまり隊長とはかれこれ3年の付き合いになる。
強力な騎士が増えてくると、“レアリティ”なる謎のランク付けが低い騎士は、中々前線に出られなくなる。
それでも基地や街の警護など重要な仕事はあったが、クロエが任されていたのは“秘書”の役目。
彼女はいつも、毎日、欠かすことなく隊長のそばにいた。
何かとふらりと姿を消すことの多い隊長だったが、『必ず帰ってくる』と信じていたからこそ、寂しくはなかった。
事実、隊長はいつも数時間で帰ってきた。
そしてクロエや他の騎士たちと、魔物に支配された領域を奪還するために戦ったり、他愛もない時間を過ごしたり――そんな日々が毎日続いた。
幸せだった。
訓練は大変だし、魔物との戦いも危険だったけど、騎士として“役に立っている”実感があったし、何より隊長が近くにいたから。
胸がぽかぽかして。
たまに、どきどきして。
それが、狂おしく、幸せでしょうがなくて。
このまま一生続けばいいと思って。
でも、そんな願いは、叶わなかった。
◇◇◇
クロエは基地の宿舎を出ると、愛用の槍を片手に、街に向かった。
この槍は、隊長が消える寸前に渡してくれた、非常に強力なものだ。
持っているだけで力が湧いてくるし、実際破壊力もとてつもない。
基地周辺の魔物ぐらいなら、一撃で倒せてしまうほどだ。
だけど何より、隊長からもらったプレゼントだから。
(これを持っていると、あの人と一緒にいられる気がする)
そんな想いで、クロエは槍の柄を両手でぎゅっと握りしめる。
そして、時折襲い来る魔物を屠りながら、街道を進む。
空は灰色に染まっている。
曇り空ではなく、まるでペンキを塗りたくったような、薄暗い灰だった。
ここ最近、天気はずっと変わらない。
雨が降るわけでもなく、晴れるわけでもなく、朝も来ず、夜も訪れず、ずっと同じ空だ。
世界の終わりが近づいている。
クロエは漠然と、そんなことを考える。
けれど彼女は歩みを止めようとはしなかった。
街道を抜け、街に入る。
かつて栄えていた頃の面影は無く、今は村人一人の姿も無かった。
空がこんなになってから、日に日に減っていったのだ。
彼らがどこに行ったのか、クロエはよく知らない。
彼女はいつものルートを通ってポストの前に来ると、そこに手紙を投函した。
封筒が落ちる音は聞こえてこない。
もう何通目かわからないが、ポストの中に、回収されることなく積もり続けているのだ。
クロエはその事実から目を背け、表に『隊長様へ』とだけ書かれた手紙を送り続けてきた。
今日も、明日も、たぶん、明後日も。
世界が終わる、その日まで。
◇◇◇
基地に戻る。
食糧は、近くの森で取れる木の実や野草、それと魔物の肉。
調味料は、街の店で買った分がまだ残っている。
買ったと言っても、お金を置いて商品を持ち出しただけなのだが。
食べるのはどうせ一人なので、クロエは料理に手間をかけなくなった。
量も、17歳の女性としては少なすぎるほどだ。
元々クロエはよく食べる女の子だったが、最近はめっきり食欲が失せた。
どれだけ訓練を重ねても、体がやせ細っていく実感がある。
それでも、食べようという気にはならなかった。
食後、じっとしていると気が滅入るので、訓練所でひたすら槍を振るい続ける。
かつては騎士たちで賑わっていた場所で、模擬戦の相手には困らなかったのだが――今は広すぎて持て余している有様だ。
柄を握る手に意識を集中させ、一振り一振りに“意味”を込めて、持ち上げ、振り下ろす。
引いて、突き刺す。
振りかぶって、薙ぎ払う。
「ふう……」
いくつかのルーチンワークを終わらせ、訓練所の片隅に置いた布巾で顔を拭いた。
その時――カサッ、と出入り口付近で音が鳴る。
クロエの視線は即座にそちらを向き、
「誰かいるのっ!?」
歓喜に満ちた声でそう問いかけた。
返事は無い。
待ちきれず、クロエは扉に駆け寄り、勢いよく開いた。
「ねえ、隊長っ!」
そこには――誰もいない。
偶然迷い込んだ落ち葉が、隙間風に吹かれて転がっているだけだった。
ぺたん、と床にへたりこむクロエ。
彼女はだらんと両腕を脱力させると、俯き、生気の無い表情を浮かべる。
「は……はは……」
ぷつりと、糸が切れる音がした。
「ははは……あははははは……っ!」
もう、笑うしかなかった。
何で笑っているのかクロエ自身にもわからなかったが、たぶん、体ぐらいは笑ってないと、心が壊れてしまうからだろう。
でも無駄なこと。
笑った所で、壊れることに変わりはない。
「あはははははははははははははははっ!」
人は孤独に耐えられない。
情の甘さを知ってしまったら、なおさらに。
きっと世界はじきに終わる。
クロエと世界、どちらが先に終わるのか――それは誰にもわからないし、それ以前に、誰も考える人なんて残っていなかった。
◆◆◆
彼女は、およそ1年ぶりに目を覚ました。
医者から、自分が家で転んで頭を打ち、長期間眠っていたことを聞かされると、彼女はとても驚いていた。
それは当然だろう。
だって彼女は、激昂し暴れる叔父から妹を庇い、結果として頭部を強打し、意識を失っていたのだから――
◇◇◇
彼女の名前は不忘瑠璃。
年齢は25歳。
身長は少し高めの161センチ。
髪は黒だが、色素が薄めで光が当たると茶色っぽい。
1年も眠っていたためすっかり髪が伸びてしまっているが、本来は肩に当たらない程度で切りそろえていた。
小学生の時に両親を失った彼女は、妹とともに叔父と叔母に引き取られた。
子宝に恵まれなかった叔父夫婦は、瑠璃をかわいがって――は、くれなかった。
躾と称された罵倒と暴力を毎日のように繰り返された。
瑠璃は特に勉強も運動も得意では無かったので、小さな数字の並ぶテストや通知表を見せると、食事を抜かれ、一晩中家の中に入れてもらえないこともあった。
一方で妹の白花は非常に優秀で、叔父と叔母に虐待されることはなかった。
そんな生活の中で、白花は姉を見下すようになり、瑠璃もその立場をあえて受け入れた。
そんなあるの日のこと、いささか口の悪い子に育ってしまった白花と叔父が口論になった。
今まで白花に手を上げたことのない叔父だったが、それは彼女が出来のいい子供だったから。
反抗するのなら、頭の良し悪しなど関係ない。
相手が10代半ばの少女であることも考えず、チンピラのような怒鳴り声をあげながら、叔父は白花を殴った。
倒れると髪を掴んで無理やり立たせ、再び殴り、それでも倒れると、今度は足で踏み潰した。
そして瑠璃は――白花をかばった。
それは叔父の怒りにさらに油を注ぐことになり、瑠璃は顔を鷲掴みにされると、棚の角に後頭部を叩きつけられた。
瑠璃が覚えているのは、そこまでだ。
ゴリュッ――と嫌な感触とともに、痛みすら感じずに、意識は消失した。
そして目を覚ますと1年後になっていた――というわけである。
◇◇◇
目を覚ましてから数時間後。
いくつもの検査を終えて、瑠璃はようやく病室に戻ってきた。
1年も眠っていたせいか、体の筋力が衰えており、歩くのも一苦労だ。
これから過酷なリハビリが待っている――そう考えると憂鬱だった。
「はぁ……」
ベッドに横たわり、天井を見上げながら、ぼーっとする瑠璃。
「白花とか……まだ来ないんだ」
叔父か、叔母か、あるいは白花か。
1年ぶりに目覚めたのだから、誰か一人ぐらい様子を見に来ると思ったのだが。
「元からフリーターだったし、家に金すら入れずに入院してる穀潰しなんて、見捨てられて当然か……」
高校卒業後、瑠璃は大学入試に失敗し、フリーターになった。
それから24歳になるまで6年間、ずっとそうやって過ごしてきた。
別に不自由だとか、将来を悲観して絶望的な気持ちになったことはない。
あんな叔父と叔母の家で暮らしてる時点で、将来なんて期待できないと思っていたからだ。
そのまま瑠璃は、何を考えるでもなく、脱力して天井を見つめ続けた。
それから10分ほどして、一人の看護師の女性が、やけに周囲を気にしながら部屋に入ってくる。
そして、彼女は封筒を瑠璃に手渡した。
「これを渡したことは、内緒にしててね」
「何ですか、これ」
「妹さんからのお手紙よ」
「はあ……」
意外な代物だった。
瑠璃と白花は仲が悪い。
もちろん手紙のやり取りなんて――同じ家に暮らしているのだから当然なのだが――一度もやったことは無かった。
しかしどうだ、この看護師から渡された封筒は。
表にはなんと、『大好きなお姉ちゃんへ』などと書いてあるではないか。
「これは罠だ……間違いない」
瑠璃は確信した。
あの毒舌製造機と呼ぶに相応しい白花から、“大好き”なんて言葉が出てくるはずがないのだから。
しかし、貰ったからには開かないわけにもいかない。
退院後にどうするかとかも、書いてあるのかもしれない。
物憂げな気分で封筒を開いた瑠璃は、丁寧に三つ折りにされた手紙を開く。
そしてそこに綴られた、最高純度の毒を、目の当たりにした。
◇◇◇
お姉ちゃん、元気ですか?
お姉ちゃんが意識を失ってから、半年が過ぎました。
私は、もう限界です。
あれから頑張って、お姉ちゃんの分まで耐えようとしましたし、以前よりは強くなれた気がしました。
でも、無理でした。
ごめんなさい。
だからこれは、お姉ちゃんに宛てた手紙なんかじゃありません。
ごめんなさい。
これは、遺書です。
ごめんなさい。
私はお姉ちゃんを失ってから、どれだけお姉ちゃんに守られてきたのかを思い知りました。
勉強はできないし、運動もできないし、お姉ちゃんはどうしようもないお姉ちゃんだと思っていましたが、違ったんですね。
私の家族は、お姉ちゃんだけだった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
今日まで守ってくれたのに、馬鹿にしたり、冷たく扱ったりしてごめんなさい。
きっと本当に頭が悪かったのは、私の方なんだと思います。
悪いから、こんな方法しか思いつかなくて。
今から、私は死にます。
お姉ちゃんの眠る病院の屋上はとても高いので、きっと、うまく死ねると思います。
生きていても辛いだけなので、死の痛みを差し引いても、死んだ方がマシだと思いました。
死んでゼロになれば、あの暴力から解放されると思うと、それ以外のことを考えられなくなりました。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
いつかお姉ちゃんが目を覚ましたら、お願いですから、私を『馬鹿』って罵ってください。
わかってるんです。
せっかくお姉ちゃんが守ってくれたのに、かばってくれたのに、その命を無駄にするなんて、こんな馬鹿、他にいませんよね。
でも、やっぱり、それ以外に方法なんて見つからないから。
だから、さようなら。
私の、大好きなお姉ちゃん。
◇◇◇
そこで初めて、瑠璃は白花が死んだことを知った。
今から半年前、彼女はこの病院から飛び降りて死んだ。
地面に衝突する寸前、姉の眠る部屋の窓、そのすぐ外を通り過ぎていったそうだ。
もっとも、それを瑠璃が知ることは無いのだが。
「白花……」
思わず名前を呟く。
だが、涙が流れたりはしない。
悲しくないわけではない。
あまりに突然のことすぎて、脳の理解が追いついていないのだ。
新聞記事だとか、ニュースだとか、信用できる誰かから直接聞かされるとか――そういったイベントを経てでないと、信じることはできない。
「は……はは……何だそりゃ」
今の瑠璃にはそうコメントすることしか出来ず、彼女は手紙を封筒に戻すと、ベッドにすぐ横にある棚の引き出しに入れた。
気持ちの整理が付いてから、また読もうと思った。
「何なの……それ」
悲しくはない。
しかし、胸のあたりに、もやもやとした感覚はある。
ひょっとすると白花のいたずらかもしれない。
あれを読んだ瑠璃が泣いている所で部屋に入ってきて、『泣いてやんのー! 気持ち悪ぅーい!』と思いっきり笑うつもりかもしれない。
それならいい。
それだと、いい。
ほどなくして、医者が再び部屋を訪れた。
瑠璃は何気なく彼に尋ねる。
「白花が死んだって、本当ですか?」
医者はしばし黙り込んだ後に、首を縦に振った。
瑠璃は、大声を上げて泣いた。
◇◇◇
瑠璃が目覚めてから数日が経過した。
入院前の友人が何人か訪ねてきたが、叔父と叔母はまだ来ない。
妹を殺したから合わせる顔が無いのだろうか。
「んなわきゃないでしょ……あいつらがんなこと考えるタマかっての」
松葉杖を支えに屋上までやってきた瑠璃は、憎たらしいほど綺麗な夕焼け空を見上げながら吐き捨てる。
ここは、白花が飛び降りた場所だ。
その影響か、フェンスはかなり高く、しっかりとした物に作り変えられている。
「……やだなあ、ほんと。知ってたのにさ、あの子が弱いってこと」
瑠璃は、姉だった。
出来は悪かったが、それでも姉だったのだ。
この世に残った、白花のたった一人の肉親として、彼女を守ろうとしてきた。
叔父や叔母からの暴力も、自分が耐えれば、白花に矛先が向くことは無いと思っていた。
まあ、勉強や運動が出来ないのは最初からだし、フリーターなことについては言い訳できないのだが――それでも、最低限、姉であろうとし続けたのだ。
「私よりもかわいくて、頭もよくて、運動もできて、友達も多かったじゃん……」
フェンスを掴んだ瑠璃は、金網に額を押し付ける。
カシャン、と誰もいない屋上に乾いた音が響く。
「彼氏に頼るとかしたらよかったのに……友達もさ、いくらでも逃げ道作ってくれたでしょ? なのに……最終的に私しかいなかったって、喜んでいいのかわかんないっての……!」
何度も何度も、フェンスに額をぶつける瑠璃。
自分を責めたって意味がないことはわかっている。
悪いのは、全部叔父と叔母だ。
だけど――もしも自分が、意識不明で眠っていなければ。
気合で耐えて、今も白花の近くにいられたなら。
「もうちょい頑張れば、妹としてデレてくれたのかな……もうちょい、あと少しだけ、私が頑張れば……頑張ればあぁぁぁっ!」
ひときわ強く、頭を叩きつける。
カシャァン――と、フェンス全体が揺れ、さほど大きくもない音を響かせた。
それぐらいだ。
全てが終わった今、瑠璃にできることなんて。
「はぁ……叫ぶとか、私らしくもない」
ため息を挟んで、少し気持ちが落ち着いた瑠璃は、近くにあったベンチに、へたり込むように座る。
そしてポケットからスマホを取り出すと、4桁の番号を入力してロックを解除した。
待受画面には、好きだったゲームのキャラクターが映し出されている。
「あー……そっか、1年も眠ってたってことは、あっちも1年間ログインしてなかったんだ」
かつて瑠璃がプレイしていたゲーム、『ヴァルキリーナイツ』。
ゲーム性は、いわゆるよくあるガチャゲーというやつだったが、キャラがやけに気に入ったので、3年ほど遊んでいた。
何気なく指先でアイコンに触れると、まず長い更新が始まる。
「うえぇ、アップデート長すぎ。こんなとこで1年の長さを感じるの、やなんですけど……」
ダウンロードが終わるまでの間、瑠璃はベンチの背もたれに体を預けて、ぼーっと空を見上げ続けた。
できるだけ、頭は空っぽにして。
考えたってまともなことは浮かんでこない。
白花の死に対する罪悪感が、延々と、滾々と湧き上がり続けるだけだ。
そして――ダウンロードと更新が終わると、聞き慣れた美少女の声が『ヴァルキリーコネクトっ!』とゲームのタイトルを読み上げた。
瑠璃は体を起こし、スマホの画面を見る。
表示されているのは、見慣れたロゴマークと、点滅する“タップスタート”の文字、そして――『重要なお知らせ』と言う、やけに物々しい赤い文字。
嫌な予感がしながらそれに触れると、ウィンドウが開き、ずらりと文字が表示された。
「サービス終了……しかも今日、あと5分しか無いじゃん。あー、最悪ぅー……!」
気分が最悪なところに、追い打ち。
貯まった石でもパーッと使って憂さ晴らしをしようと思ったのだが、それすら叶いそうにない。
すっかり気分が萎えた瑠璃は、電源ボタンを押して画面を消すと、それをポケットに突っ込んで立ち上がった。
「……帰ろ」
松葉杖を使って、瑠璃は屋上の出口に向かう。
◇◇◇
病室に辿り着く直前、なぜか部屋の前で待っていた看護師が、瑠璃に笑いかけた。
「ご家族が来てるわよ」
彼女は『良かったわね』と言わんばかりに、嬉しそうに言う。
家族――白花がいない今、瑠璃の家族は叔父と叔母しかいない。
いや、他の親戚もいることいにはいるが、わざわざ病院に見舞いに来るほどの仲では無かったはずだ。
いい笑顔の看護師とは裏腹に、嫌な予感しかしない瑠璃。
しかし会わないわけにもいかないので、瑠璃は部屋の前で「はぁ」と息を吐き出しお腹に力を込めて、意を決して扉を開いた。
ガラガラと扉がスライドすると、同時に中で椅子に座っていた男が立ち上がる。
「瑠璃!」
右手に白い袋を持って、叔父は笑いながら瑠璃を迎えた。
「……ども」
どの面下げて来やがった――と言ってやりたい気分だったが、ひとまず空気を呼んでおく。
瑠璃が軽く会釈すると、背後でガシャンと扉が閉じた。
「病室で立ち話っていうのも悪い。瑠璃、どうかベッドで休んでくれないかな」
「言われなくてもそうするつもりです」
知らない人から見れば、叔父は礼儀正しい人間に見えるかもしれない。
しかし本性を知る瑠璃にしてみれば、寒気しかしないやり取りだった。
逆らえば何をされるかわからない。
ひとまず、瑠璃は言われるがままにベッドに潜り込み、上半身だけ起こした状態で彼と向き合う。
「すまないね、数日前には連絡を受けていたのに、忙しくて中々来れなかったんだ」
「そうですか」
「白花のことは聞いたかい?」
「一応」
「残念だったね、心の底からそう思うよ」
きっと、それ以上に“白々しい”言葉はこの世に存在しないと、瑠璃は思った。
やはり叔父は、邪悪である。
その塊だ。
こんな人間が何の罪にも問われずにのさばっているなんて、世も末である。
「ところで瑠璃、今、僕がどんな仕事をしているか知っているかい?」
「どっかの会社の、課長ですよね」
「ははは、それはどんな仕事っていう質問の答えになっていないよ」
「そうですか」
「でもね、実は転職したんだ。今は、コンビニでバイトをしているよ」
「……そうなんですね」
正直、瑠璃は少し驚いていた。
叔父はプライドが高く、自分の地位や名誉というものにこだわる人間だったからだ。
元コンビニバイトだった瑠璃からすると、特に仕事の優劣というのは意識したことは無いが、少なくとも叔父は見下していたはずである。
「自殺は……お前たちのせいだって言われてね」
この当たりから、叔父の声のトーンが変わり始める。
冷静さが失せ、怒りや憎しみ、そういったものが声を震わす。
「いやあ、困ったよ。憶測じゃないか、白花が死んだのが、僕のせいだなんて。誰も確証なんて持っていないはずなのに。それが、近所で囁かれはじめた。じきに、仕事場でも言われ始めた。僕には理解できなかった。だけど、彼らは僕の言葉を理解してくれなかった。そのうち、取引先にも悪い影響が出るからって言われてねえ……仕事を、クビになってしまったんだ」
案の定、である。
コンビニでバイト、と聞いた時点で、瑠璃はある程度それを予想していた。
「いや、でも待って欲しい。クビというのは正しくない。やんわりと、遠まわしに退職を勧められただけでね、本当は彼らだって、僕を会社に残したかったはずなんだよ! だって僕は、優秀だったから!」
別に誰も聞いていな言い訳をいちいち挟む叔父。
その見開かれた瞳には、狂気すら感じられる。
「でも僕は優しい父親だから、白花が死んだ責任を取ったんだ。ああ、でも本当に……本当に、困った。僕が今日まで積み重ねてきたものを、全部台無しにされたわけなんだからね」
そして叔父は、今までで一番低い声で言い放つ。
「白花とかいう、ゴミのせいで」
心底、白花を侮蔑するように。
「叔父さん……あなたは」
「瑠璃もだよ。いいや、お前だ。お前に名前があるのはおかしい、ゴミの姉のクズなのに。お前だよ、お前たちがっ、クソ兄貴と寝たあのアバズレが、勝手にパコパコヤッって、勝手にポコポコ産み落としやがったゴミがああぁぁぁあ!」
急変――そう呼ぶに相応しい、表情のあまりに突然の変化。
それが叔父の恐ろしさだった。
彼はとにかく、“キレる”人間だった。
瑠璃は起き上がって逃げようとしたが、すでに手遅れ。
叔父は素早く袋から包丁を取り出すと、瑠璃の腹に突き立てる。
「お前のせいでっ、お前のせいでえぇぇぇええええっ!」
もはやそれは、キレるとか関係のないことだった。
包丁を用意していたということは、最初から殺すつもりだったのだ。
あるいは、最初から、白花が死んで、会社をクビになった時点からずーっと――彼は、キレていたのかもしれない。
「う……ぐっ……」
冷たい刃が体内に沈み込むと、強い熱が瑠璃の体を焼いた。
「僕の人生を台無しにするんだよ! してるんだよぉ! わかるか? わかってんのかあぁぁぁああッ!」
響く怒号。
気づいた看護師たちが慌てて部屋に入ってくるが、叔父は包丁の柄を、何度も何度も、ぐっと奥に押し込んでいる。
興奮のあまり手の動きはぶれており、その度に、瑠璃の内臓は致命的に破壊されていく。
いかなる治療を施そうとも、瑠璃が死ぬのは時間の問題だった。
その直後、部屋に飛び込んできた男性医師が、勇気を振り絞って叔父を羽交い締めにする。
「やめろっ! 離せっ! 離せええぇぇえええっ!」
手足をばたつかせながら抵抗する叔父。
包丁から手が離れた。
瑠璃の体も解放され、痛みと熱さに悶え苦しむ。
(もうダメだ……私、死ぬ。死ぬしかない……あのクソ野郎に……殺されて……!)
悲しいとか、怖いとか、そういう感情の前に――瑠璃はムカついていた。
(あいつは、生き残る。私も、白花も死んだのに、あいつは……あいつはぁッ!)
どうせ死ぬ。
死ねば罪も何もかも精算される。
ならば――
「ぐ……ぅ……があぁぁあああっ!」
瑠璃は叫びながら、自らの腹から包丁をずるりと引き抜いた。
周囲が呆気にとられる中、その刃を手に彼女は、
「うわあぁぁぁああああああッ!」
口の回りを吐き出した血でべとべとにしながら、叫び、叔父に襲いかかった。
握りしめた包丁を、迷いなく、彼の首に突き立てる。
「あ……かっ……!?」
ぶじゅっ――と、水っぽい感触とともに、沈む刃。
まだ足りないと、握る手に力を込め、ぐぐぐ――と傷口を広げる瑠璃。
生じた裂け目から、濁々と湧き出す血液。
「ざまぁ……みろ……!」
瑠璃は血で汚れた歯を剥き出しにしてそう言うと、大量の血を吐いて床に倒れ伏した。
体全体を寒気が覆い、意識が薄れゆく。
「ふ……へへ……ざま……み……ろ……」
のけぞり、体をびくびくと痙攣させ死にゆく叔父の姿を見ながら、瑠璃は瞳を閉じた。
◆◆◆
世界の終わりは、さらに進行する。
空は割れた。
割れた向こうには、魔法陣とも違う、意味不明な図形の羅列が流れる空間が見えた。
眺めていると、頭がおかしくなりそうだった。
クロエはそこから目を背け、今日も手紙を隊長に送った。
世界は終わってゆく。
大地が割れた。
いや、大地というのは正しくない。
空間が、割れたのだ。
街の半分が切り裂かれ、幾何学空間へと変わる。
でもまだ、ポストは無事だ。
クロエは目を背け、今日も手紙を隊長に送った。
きっと明日も、明後日も、彼女は変わらない。
世界が終わるその瞬間まで、隊長のことを想い続けるのだろう。
別に隊長を恨んだりはしていない。
出ていった騎士たちのことも。
全ては仕方のないことだと思っていた。
だって、この世界は魔物で溢れている。
いや、今はもうほとんど魔物すらいないが、基本的に、いつ死んでもおかしくない、厳しい世界だ。
ひょっとすると、隊長は街道でたまたま遭遇した魔物に襲われて、食べられてしまったのかもしれない。
だとすると、その帰りを待っているクロエの方がおかしいのだ。
そう、だから、誰も悪くない。
誰も悪くないから、誰も責められなくて、誰のせいにもできなくて――全部、自分で抱えるしか無い。
「隊長……どこにいるんですか……せめて、最後に、顔ぐらいは……たいちょお……」
クロエはいつからか、眠ることができなくなった。
夜な夜な――いや、いつが夜なのかもはやわからないが、ベッドで膝を抱えて、ひたすら隊長のことを呼び続ける。
そうすると、いつの間にか朝っぽい時間になって、1日のルーチンが始まるのだ。
しかし、そんな日々にも終わりが訪れた。
「あ……ポストが……」
街の崩壊がさらに進み、ポストが消えてしまったのだ。
今まで送った、手紙と一緒に。
「ポスト……隊長への、手紙……」
ぽきりと心が折れた気がしたが、今さらだった。
とっくに心は折れている。
折れたなりに、クロエは日々を生きているだけだ。
どうせ終わるのなら、世界の終わりに、身を委ねようと、そう決めて。
◇◇◇
そして世界の終わりはやってくる。
ついに街道も途切れ、基地も半分以上が崩壊し、残るは宿舎だけになった。
かつて隊長が使っていた部屋で、隊長が使っていた枕を抱きしめて、隊長の残り香を探すように、そこに顔を埋める。
パキ……パキ……。
壊れる世界の“音”が、近づいてくる。
もう枕に隊長の匂いは染み付いていないし、そもそも鎧を着ていて体臭もわからない人だったから、枕を抱きしめたって意味はないのかもしれない。
ただ、何となく、匂いがする気がする。
そんな曖昧な感覚を頼りに、その名残にすがりつき、せめて少しでも幸せに、最後の瞬間を迎えようと思った。
パキ……パキ……。
世界は割れて、無に還ってゆく。
扉が崩れ落ちた。
壁が倒れた。
床は飲み込まれ、手紙を書き綴った机も消えてしまう。
残すはクロエが座るベッドだけになった。
彼女はきゅっと目を閉じて、終わりの瞬間に身を委ねる。
結局――これは、何だったのだろう。
みんなは、どこに行ってしまったのだろう。
何もかも、わからないまま、報われないまま、全ては終わる。
目をつぶっているうちに、いつの間にか眠るように、クロエの意識は途絶え――るかと思いきや。
「もしもーし」
誰かが肩に手を置いて、体をぐらぐらと揺らす。
クロエはぱちりと目を開いた。
黒髪で、眼鏡をかけた、不思議な恰好をした女性が立っている。
「お、起きた。寝てるところごめんね。あぁ、言っとくけど不審者ではないから。いやここにいる時点で不審なんだけど……えっと、私は、瑠璃。不忘瑠璃って言うの。気づいたらここに居たんだけど、どこなのかだけ教えてもらえばすぐに出ていって――」
「……隊長?」
「へ?」
「隊長だ……隊長が、いる……っ」
「隊長ってことは――やっぱ、本物のクロエたん、なの? 顔とか恰好とかそっくりだと思ってたけど、コスプレだと思っうわっぷ!?」
「たいちょおぉおおおおおおおっ!」
瑠璃の言葉を遮って、クロエは彼女に力いっぱい抱きつく。
元が騎士なのでその力は相当強く、瑠璃は尻もちをついて倒れた。
しかしクロエの体はしっかりと抱きとめている。
「隊長っ、隊長っ、隊長隊長隊長ーっ! 戻ってきてくれんたんですねっ! 私っ、私ぃっ、ずっと待ってたんですぅぅ!」
「もしかして、1年間、ここでずっと?」
「はいっ! 絶対に、いつか隊長が戻ってきてくれるって思ってたからぁっ、思ってた、からぁ……っ!」
クロエの瞳からは涙がぽろぽろとこぼれている。
しかし同時に、その表情には隊長と再会できた喜びが溢れていた。
「隊長……隊長ぅ……隊長うぅ……!」
瑠璃の胸にひたすら頬ずりするクロエ。
戸惑いながらも、瑠璃はひとまず彼女の頭を撫でた。
(死んだと思ったらゲームの世界に転移して、超絶美少女に頬ずりされている……何だこれは、ネットで小説を読みすぎたの?)
あまりに都合良さに、さすがに罠を疑ってしまうレベルだ。
しかしクロエの歓喜ばかりは、疑いようもなかった。
「会いたかったです……隊長……本当に、心の……そこっ、からぁっ……!」
戸惑う一方で、嬉しくもあった。
1年眠って、目を覚ましても、ここまで自分の帰りを待ち望んでくれる人はいなかった。
だけど、ここにはいる。
それに――
(じゃあこれは、ほ、本物のクロエたん……っ! 柔らかくて温かくて、すっごいいい匂いがするぅ……!)
生粋のオタクである瑠璃としては、ヴァルキリーナイツにおける嫁キャラが実体化して甘えてくれるこの状況が、嬉しくないはずがなかった。
「ぐすっ……うぅ……たいちょお……」
それと、もう一つ。
自分の存在が誰かを救えているという事実が、たまらなく嬉しい。
死んだはずの瑠璃がこうして、何だか都合の良さそうな世界に来ているということは、半年前に死んだ白花も似たような状況で、どこか別の場所で救われているかもしれないし――
「ねえ、クロエたん?」
「はいっ……何でしょうか、隊長っ!」
呼びかけられただけで、はちきれんばかりに笑う。
笑顔が眩しすぎて、瑠璃はきゅんとせずにはいられなかった。
「私を見た途端に『隊長』って言ってたけど、顔、知ってたの?」
「いいえ、知りません! でもすぐにわかりました、隊長だって! だって、隊長ですから! 三年間、ずーっと一緒にいた隊長ですからっ!」
「じゃあ、女ってことも知らなかったんだよ、ね?」
「はい、でも隊長ですから!」
好きのオーラが強すぎる。
三年間という時期まで一致しているということは、彼女は間違いなく、瑠璃が嫁として愛で続けたクロエらしい。
「じゃあ……そっか。ごめんね、1年も放置しちゃって」
「構いません。隊長には、隊長の事情があったんです。あの、でも……他の騎士のみんなは、いなくなっちゃいましたけど」
「あー、そうだよねぇ」
バイト代は、生活費として叔母に渡していた分以外は、全てガチャにつぎ込んでいた。
そのおかげで、1年前の段階でほとんどのキャラは揃えていたのだが、今ここにいるのはクロエだけだ。
(普通のゲームなら勝手に出ていくはずはないんだけど……ここはゲームじゃないってことか)
ここにいるのは、ゲームのキャラではなく、1人の女の子だ。
「隊長……これからは、ずっといっしょにいられるんですよね? またいなくなったりは、しないですよね?」
不安げに尋ねるクロエ。
瞳は涙に濡れ、揺れている。
瑠璃はそんな彼女の雫を拭うように頬に手を当てると、優しく語りかけた。
「もちろん。クロエた……いや、クロエとずっと一緒にいる。私はそうしたいな」
彼女がそう宣言すると、クロエは安堵の笑みを浮かべた。
そして、頬に当てられた手に自らの手を重ね、瑠璃の手に頬ずりをする。
「よかった……隊長……」
自分が一緒にいるといっただけで、ここまで幸せな表情を見せてくれる人なんて、誰もいなかった。
二人の出会いは、クロエにとっての救いであると同時に、瑠璃にとっての救いでもあるのかもしれない。
◇◇◇
それから、瑠璃とクロエは二人での生活を始めた。
瑠璃が来てからというものの、ずっと灰色だった空はすっかり元に戻り、色んな顔を見せてくれるようになった。
もっとも、以前の異常な世界を知るのはクロエだけである。
隊長に不要な心配をかけないために、彼女はずっと、それを黙っているつもりだった。
(今が幸せなら、それでいいんですから)
――などと、クロエは考えていたのだが。
隊長の部屋で肩を寄せ合い、大好きな隊長と触れ合える幸せを噛み締めていると、ベルの音が鳴り響いた。
どうやら来客らしい。
二人で玄関口まで向かうと、手紙の運び手をしている少年が、困った顔で立っていた。
「あの、これクロエさんが出した手紙ですよね? 『隊長へ』って書いてあるんで、とりあえず持ってきたんですが……いつの間にこんなに出したんです?」
彼が持ってきたのは、クロエが瑠璃と再会するまで書き綴り、投函してきた、例の手紙だ。
大きな木箱に詰め込んで、わざわざ持ってきてくれたらしい。
「あっ、あわわわ……ひとまずもらいますっ、ありがとうございますっ!」
ぺこりと頭をさげて、クロエはそれを受け取り、逃げ込むように宿舎に戻る。
瑠璃は不思議そうにその手元の木箱を見ながら、彼女のあとを追った。
「クロエ、それどうしたの?」
「へっ? いえ、な、何でもありませんっ」
「隊長へってことは、私に書いた手紙だよね。もしかして、1年間ずっと書いててくれたの?」
「ちがっ……いや、そうなんですけど、あの……」
中身を見られれば、心配をかけてしまうかもしれない。
そう思って、中々正直に言い出せないクロエ。
すると瑠璃は彼女の前に回り、箱を持ち上げるように手を添えた。
「読みたいな。ダメ?」
「隊長……面白いものじゃないですよ? 愚痴っぽいことも、書いてありますし、幻滅するかもしれません」
「しないと思うけど。私ね、実はこの1年間、怪我をしてずーっと眠ってたんだ。だから、その間の辛さとか、苦しさとか、ぜんぜん知らないし、わからないの。それってアンフェアだと思わない?」
「フェアとか、気にしないでいいんです。隊長は、でーんと偉そうにふんぞり返ってたっていいんですよ」
「そういうの向いてないんだ、ごめんね」
「あ……」
箱が、クロエの手を離れる。
瑠璃はそれを自分の部屋まで運ぶと、早速中身を読み始めてしまった。
近くでくっついていたい。
でも、手紙を読まれているのを横で見るのは恥ずかしい。
なのでクロエは台所に向かい、食事――たぶん今は昼だから、昼食を作ることにした。
不思議なことに、保管庫にはクロエ1人だった頃よりたくさんの食糧が詰まっていた。
◇◇◇
こんなに手の込んだ料理を作ったのは、いつぶりだろうか。
自分のためではなく、誰かのために作る料理――少なくともクロエにとっての料理の“やりがい”はそういうものだったのだと、今さら気づく。
フライパンで焼ける魚のムニエルを見ていると、自然とぐぅとお腹も鳴った。
「お魚ってこんなにおいしそうでしたっけ……って、これじゃ自画自賛ですね」
しかし事実として、ここまでクロエが強く空腹を感じたのは、久しぶりだった。
たぶん、1年ぶりぐらいだと思う。
「ふーん、ふふんふーん♪ ふんっ、ふふんっ、ふんふふーん♪」
ご機嫌すぎて、思わず鼻歌まで飛び出してしまう。
隊長はおいしいと言ってくれるだろうか。
言ってくれたらうれしい。
たぶん、飛び上がるぐらいうれしい。
けど考えてみると、隊長がそういう言葉をクロエにかけたことは、今まで一度も無かった。
冷たいとかそういうレベルではなく、基本的に鎧で全身を隠した隊長は、『はい』とか『ああ』とか『うん』という相槌ぐらいしか打たなかったからだ。
(隊長も不思議がってましたけど、何で私は隊長のことが隊長だってわかったんでしょう。見た目も、声も、言葉遣いだって全然違うのに……でも、顔を見た途端に、胸がきゅっと締め付けられたんですよね)
今だって、瑠璃の顔を頭に思い浮かべると、胸がきゅっとなる。
ちょっぴり苦しくて、それが幸せでしょうがない。
大好きの印だ。
(まあ、隊長が戻ってきてくれたのは間違いないんですし、どうでもいいんですけどねー! 隊長、やわらかかったなぁ、あったかかったなぁ、いい匂いだったなぁ、もっと好きになっちゃうなぁー!)
むしろ、素顔を見れたことが嬉しい。
前は鎧越しにしか触れられなかったのに、直接触れ合うのが嬉しくてしょうがない。
それでいいのだ。
細かいことなんて、幸せの前には無力なのである。
(あーあ、隊長のこと考えてたら、またハグしてほしくなっちゃったな。ご飯のあと、お願いしていいかな。はしたないかなぁ……でも、ぎゅっとしてもらうと幸せで……えへへ……)
隊長の事を考えながら、すっかりデレっとしてしまったクロエの表情。
そんな彼女の心の声が外に漏れていたのだろうか――こっそり忍び寄った瑠璃は、その体を背後から優しく抱きしめた。
そして、耳元でささやく。
「クロエ」
「……た、たたた隊長っ!?」
「クロエ……ごめんね。ありがとう」
体が密着するぐらい強めに抱きしめ、髪に顔を埋める瑠璃。
彼女はクロエからの手紙を半分ほど読み終え、いてもたってもいられなくなったのだ。
いなくなる仲間たち。
襲い来る孤独。
そして、崩壊する世界。
クロエが経験してきたこの1年という月日は、あまりに過酷なものだった。
そんな中でも、瑠璃の帰りを待ち続けてくれた――その想いの強さに報いる方法が、思いつかない。
今できることは、こうして抱きしめることぐらいしか。
「隊長、私は好きで待ってたんです。“ごめんね”はナシですよ」
「ん……」
「それに、隊長だって大変だったんですよね。だったら、お互い様ってことで。お互いに今はハッピーで、それでいいじゃないですか。あ……えっと、隊長も、ハッピーなんです、よね?」
「もちろん、クロエと会えて、こうして触れ合えて、すっごく嬉しい」
「えへへ……じゃあ、それでいいんです。こんなにハッピーなら、そのうち昔の嫌なことなんて、綺麗さっぱり忘れちゃいますから」
「できるだけ早く忘れるには、どうしたらいい?」
「んーと……ちょっぴり多めに、こんな風にぎゅっとしてくれたら、あっという間、だと思います」
言いながら、顔を真っ赤に染めるクロエ。
それを聞いて瑠璃は、両腕にさらに力を込めた。
「ならずっとしてるね。クロエがいやって言うまで、ずっと」
「それはつまり、永遠に続いちゃいませんか?」
「続くならそれでいいかもね」
「そう、ですね。すごく、すっごくいいですねっ」
一方通行じゃないやり取りというのは、こうも心を満たすのか。
心のキャパシティを超える暴力的なハッピーの奔流に、クロエはすっかり――料理の存在を忘れていた。
「……ん、焦げ臭いにおい……はっ!? 隊長、大変ですっ、料理が! お魚さんが焦げちゃってますーっ!」
「あ、ごめん。作ってる途中だったの!?」
瑠璃はクロエを解放し、彼女の隣からフライパンを覗き込む。
慌ててへらでひっくり返された魚は、微妙に黒く焦げている。
食べれないほどではないが、焦げてはいる。
「ど……どうでしょう」
「ギリギリ……」
「セーフ、ですかね」
「じゃない、かなぁ……」
情けない顔で魚を見つめていた二人の視線は、ゆっくりと互いの顔に移動する。
見つめ合っていると、何故か無性におかしくなって、
「あははっ」
「ふふっ、んふふふっ」
両者ともに、噴き出すように笑った。
何がおかしいのかもわからないのに、とにかくおかしい。
たぶん、幸せすぎると、人は笑ってしまうものなのだろう。
だから二人はいつまでも笑い続けた。
笑い続けて、せっかくひっくり返した魚の裏面を微妙に焦がして、さらに笑う。
食卓でその魚を食べて、
「やっぱり結構焦げてるよ」
「ですねぇ」
と言いながら、また笑う。
いわゆるドツボにはまるというやつなのだろう。
他人から見れば、何がそんなにおかしいのか、全然わからないに違いない。
でも構いはしない。
二人はその瞬間、確かに幸せだったのだから。
この時点で、瑠璃とクロエが再会してからほんの数時間しか経っていない。
こんなに幸せなら、1年分の借金なんて、あっという間に返せてしまうだろう。
自分の趣味を詰め込みました。
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