飲まれた夜
「こういうの、どう思う」
若手バンドが歌うドラマの主題歌が、テレビのスピーカーから流れてくる。修さんは画面から顔を動かさないまま、聞いてきた。
「私は不快かなあ」
「だよね。俺も」
「そもそも結婚しよっか。と産んで?って無責任すぎません?」
「そうだね」
「こういう状態で結婚するからうまくいかないって言われるんですよね。デキ婚って」
「だから俺結婚したくねえんだよなあ」
ああ、この人は結婚をしたいわけじゃないんだ。私とそういう関係になることもないんだ。そう思って、ちょっぴり胸を細い一本の針で突かれた感覚がした。
修さんは頭のうしろに手を組んで、軽く伸びをした。
「寝ますか」
「そうですね」
「あ、また敬語」
「ごめん」
「冗談。ゆっくり直してくれればいいよ」
「うん」
それから、私はこの家から仕事に行った。残業する可能性があるときは、修さんに連絡をいれてから帰宅するようになった。食事も洗濯も、全部自分のペースですることができて、こんなにも快適な生活を送っていいのかと不安になるくらい。
一緒に住み始めてひと月半経ち、私はあたりめをアテに缶チューハイを飲んでいた。修さんはどこかへ飲みに行った。どこかは聞いていない。そのうち帰ってくるだろうと、リビングで深夜バラエティを見て笑っていると、玄関の鍵が開く音がした。ペタペタと足音が聞こえて、リビングのドアが開いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
修さんの声がいつも以上に低く聞こえたかと思うと、私の隣にちょこんと座って、右肩にもたれかかってきた。お酒臭かった。
「お水飲む?」
「いらねえ」
「え、ちょっと」
「黙って」
いつの間にか修さんの腕の中に私の身体はすっぽりと納まっていた。ラフな抱きしめられ方ではなく、もうそれは恋人のような、がっちりした抱きしめられ方だった。私はなんとなく、その背中を擦ってみる。するとさらにその力は強くなり、息苦しくなるほどだった。
「どうしたの」
泣き喚いている小さい子をあやすように、私は優しく問いかけた。
「なんでもない」
なんでもない、はずはない。一か月半、こんなことはなかったのだから。しばらくして、修さんは私の身体から離れた。
「ごめん」
そう言って、私の頭をポンポンして、自分の部屋へ入ってしまった。リビングと曇りガラスで仕切られた修さんの部屋。そこの小さな電気が点いた。しばらくその影を見ていた。きっと、ちょっと飲みすぎちゃったんだね。と勝手になかったことにしたつもりだった。
アルコールが身体から抜けて落ち着いてきた午前一時過ぎ、自分の部屋に戻って布団にもぐりこんだ。寝つけなかった。そうだった。私は男性に傷つけられたんだった。誰にも癒されない傷を背負っていたんだ。……愛されたい。修さんに、愛されたい。そう思わずにいられなかった。
午前十一時過ぎ、寝間着のままリビングに行くと、修さんがコーヒーを飲んでいた。
「おはよ」
「おはようございます」
「なんだよ。不機嫌?」
誰のせいかわかってんのか、と冷たい視線を送る。
「これもらっていいですか」
「どーぞ」
余っていたコーヒーをカップに移した。それを持って修さんの隣に座る。修さんは何も言わない。
「昨日、何時に帰ってきたか覚えてる?」
「んー、あんま覚えてない」
「そっか」
「なんだよ、言いたいことあんなら言えよ。てか言って」
どうして抱きしめたんですか。私は修さんの友達ですか?恋人ですか?ただの同居人ですよね?言いたいことはたくさんあった。でもこんな言葉を吐いたら、ただの面倒くさい女だ。
「覚えてないなら、いいです」
あ、これも面倒くさい女が吐く言葉だった。その場にはいられなくなって、立ち上がろうと両手をラグにつけた。
「覚えてるよ」
思わず腕の力を抜いてしまった。
「ちゃんと覚えてるよ」
変な時間が流れていた。私はお説教されるのか。出ていけとでも言われるのか。不安になっていると、修さんはそっとカップを置いた。そしてそのまま、昨晩のように私を抱きしめた。寝ぐせでボサボサの髪をそっと撫でてくれた。私は背中に手を回すことはできなかった。
もう、どう生きたらいいのかわからない。と言ったら言い過ぎだけれど、どういう顔をして修さんと生活をすればいいのかわからなくなった。
私は自分の親のようにはなりたくない。だから、結婚も出産もしない。そう決めて、ここ数年恋愛を積極的にしてこなかった。つまり、長い期間男性と触れ合うことがなかった私は、柄にもなくドキドキしているのだ。こうなると、私が頼るところはひとつしかなかった。
神奈川県の茅ヶ崎にある一軒家。オレンジとブルー地の壁は目立っていて、バルコニーからはほんの少し海の香りがする素敵な家。
「久しぶりじゃない」
「こんにちは」
「待ってたよ」
ほんの少し、顔の皺が濃くなったさっちゃんが迎えてくれた。




