引っ越し
「ちょっと酔い醒まししていい?」
小澤さんについていくと、駅が見えてきた。もう閉店間近な駅ビル、ロータリーにはタクシーが数台並んでいた。
「こっちに公園あるの、知ってる?」
「知らないです」
駅の北口を東に進むと、小さな公園があった。芝生は整備されて、木も数本しかないけれど、お年寄りや子連れには何でもないこの場所が大切なのだろうと感じさせる。三つ並んだベンチのど真ん中に小澤さんは腰かけた。
「どーぞ」
小澤さんはベンチを叩いて、手が痛くなるような音を二回出した。酔っぱらっている。私は言われるがまま隣に座った。
「なんかあったんでしょ」
「はい」
「だよね、あの店とか嫌いそうじゃん」
「普段は入ろうとしません」
一呼吸ついて、口を開く。
「昨日は大丈夫だったんですけど」
「うん」
「今日、お仕事遅くなっちゃって」
「またか」
「そうです、またです。それで、タクシーに乗ろうとしたら、一台もいなくて。それで、あそこに逃げ込みました」
「そっか。うーん」
葉っぱ同士が触れる音だけが耳に入ってきていた。
「やっぱ、出たほうがいいんじゃね」
何も答えられないでいると、彼が話し始めた。
「一部屋使ってないんだけど、よかったら来る?」
「え」
「次の部屋が決まるまで、貸してあげるよ」
「本当ですか」
「うん」
「でも」
「申し訳ないとか、お金とか気にしてんでしょ。とりあえずおいでよ」
「はい」
「もう、会えなくなるのとか、いやだし」
「私もいやです」
「じゃあ史果ちゃんが傷つく前に、殺される前に、うちにおいで」
殺される。その言葉に背筋が凍った。
それから、今週はなるべく定時で帰ることと、何かあったら連絡することを約束して、小澤さんにアパートまで送ってもらった。休憩時間に賃貸会社に連絡して、難なく退去が決まった。家電も売り払って、週末には小澤さんのマンションに帰ることになった。
「なんか、不思議ですね」
「ホントだね」
穏やかにコーヒーを啜りながら、小澤さんはリビングのソファに、私はラグの上に座っていた。
「俺のこと、こわくないの?」
「うーん、なんか、怖くないんですよね」
「俺も。なんか不思議な感じがする」
居酒屋から思ってたけどさ、また敬語に戻ってるよね。と笑われた。
「してほしくないこととか、これはいやだなってこと、ある?」
「うーん、特にないです。小澤さんは?」
「俺もないかなあ。じゃあ、ルールを決めるのはやめようか。なんかあったら素直に言ってね」
「小澤さんも」
「わかった」
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ここの家賃と同じ金額を払うということだけを条件に、ここに住まわせてもらうことになった。カーテンから漏れる夕陽が、なんだか暖かく感じた。
小澤さんは、一応会社員扱いだけれど、定時の出社や退社はなく、基本的に家のなかか喫茶店で仕事をしているとのことだった。
「俺さ、あんま干渉されんのが嫌なんだよね。だから、飯も風呂も基本バラバラで大丈夫?」
「はい。私もどっちかというと小澤さんみたいな考え方なので、大丈夫です」
「よかった。でも今日さ、ハッシュドビーフ作りすぎたから、一緒に食べてくれない?」
「いいんですか」
「うん。残飯処理」
「残飯」
「うん」
じゃあ、と小澤さんが立ち上がった。私もゆっくり立ち上がってキッチンへ向かう。
「何もやることないからいいよ」
「いや、何かください」
「んー、じゃあ、お皿取ってくれる?あとグラス」
「はい」
それから本当にやることがなくなってしまって、私は大人しくラグに座っていた。テレビを見ていると、食事が運ばれてきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
小澤さんが座って一息ついたところで、同じタイミングでスプーンを持った。
「待って」
そっとスプーンをランチョンマットの上にもどす。
「敬語、やめね?あと、小澤さんていうの」
「修さん?」
「うん。それがいい。じゃ、いただきます」
「いただきます」
スプーンを持って、それを口内へ運ぶと、優しい味が広がった。
「おいしい」
「よかった」
「お店開けるよ」
「そうかな。ただ気晴らしに料理してるだけなんだけど」
「誰にも教わらずにここまで?」
「うん。大したことじゃないけどね」
「ううん。買うだけの人って多いし、ちょっと尊敬する」
「尊敬って、大げさでしょ」
「ううん。がち」
「がち、ね」
食べ終わって、お皿をお湯につけて、洗おうとスポンジを手に持つ。すると後ろから声が聞こえた。
「悪いね」
「いいの、これくらい」
食器を洗い終わって、またラグに座って二人でテレビを見ていた。今日から始まるドラマが放送されるところだった。




