月曜日、火曜日
「あのね、ふみちゃんだから言うけどね」
「うん」
「わたし、昼顔してたの」
経理の麻美さんとは、喫煙室でよく会うようになって、親しくなった。旦那さんとお子さんの四人で暮らしていて、仕事はできるし、上司部下関係なく色んな人とコミュニケーションをとるのも上手。社内に敵あらずという感じだった。ここ最近、愚痴を聞かされることが多いなあと思いつつ、私は自分に関係のない物事はさらっと流してしまうタイプになったので、特に気にしないでいた。
「そう思ってたでしょ?」
「ううん、全然」
「昨日振られちゃったんだけどね」
「そうなんですね」
心臓の表面に、二本入りの安いメンソール系リップクリームをべたべたに塗りたくられた感じがした。
「結局、自分が満足できるように生きることが全てですからね」
「うん」
「誰の人生かって、麻美さんの人生ですから」
「そうだよね」
無駄に爽快感のある心臓を冷たい手で持ち上げながら、私は事務所へ戻った。別に自分のことじゃないし……と、普段どおりに仕事をこなした。そして、帰り道に薄緑色の壁の建物へ入った。小澤さんの部屋番号を押して呼び出したけれど、反応はなかった。また明日返そうと、自分のアパートに帰った。制服を脱いで、そのままシャワーを浴びる。髪を乾かし、夕飯を胃のなかに入れた。
「うーん」
気づかないふりをしていたけれど、思考が怠い。麻美さんのことは麻美さん自身の問題なのに、私はまた自分のなかに取り込んでしまっている。どうしてのうのうと、身内や他人を傷つけるのだろう。いくら信用していると言われたって、私に言っている時点で、相手を傷つけていることに気づかないのだろうか。私が会社でベラベラ話すことはほぼないとしても、例えば休日に友人とオープンカフェで麻美さんのことを話していたら。それを会社の人に見られたら。旦那さんがカフェの関係者だとしたら。麻美さんのことを少し信用できなくなった。
火曜日。なんだかんだで仕事が忙しく、定時に帰ることができなかった。あの日の時間に帰るほど遅くはならなかったし、まだ駅に人がいるだろうと見込んで、電車に乗った。
駅に着いたときにはすでに嫌な予感がしていた。気のせいだと思い込んで、定期を通して、駅のロータリーに出ると、タクシーが一台も停まっていなかった。仕方ない、何も起こらないことを祈って、歩いた。
――あぁ、まただ。
振り返ると、街灯にほんの少し影が映った。ぞわっと全身に鳥肌が立った。溜息をついて、私は国道へ出た。もう今日は逃げるからな。せめてタクシーが停車するまで、と、国道へ迂回した。そして、この間は入れなかった居酒屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませー」
元気で声の通るおばちゃんが出迎えてくれた。
「どこでもどうぞ!」
「ありがとうございます」
店内は思った以上に盛っていて、スーツ姿のサラリーマンもいれば、ゆったりした格好のご夫婦もいた。私はカウンターの一席に座った。
「レモンサワーと枝豆ください」
「はあい」
こんな地に根付いたお店があったなんて。まだまだ知らないことばかりだ。
「あんまり見ない顔だね」
「あ、はい。最近引っ越してきたんです」
「へえ、お仕事で?」
「いえ。なんとなく実家から出たくて」
本当はなんとなく、ではない。とにかく早く出たくて仕方がなかった。家庭のことには関わりを持とうとしない父、過干渉してくる母。そんな家庭はどこにだってあるだろうといわれるかもしれない。しかし、人間というのは機械ではない。「子どもを育てやすく、年配者に優しい社会をつくります」という政党のスローガンでさえ、言葉どおりに受け止める人もいれば、そんなの信じられないという人もいる。多種多様な人間を、自分のものさしや他人のものさしだけで計ろうとすると、きっと幸せには生きられない。
「なあに、彼氏?」
「いないです」
「そっかあ、もったいないわねえ」
おばちゃんはそう言って、奥へ入って行ってしまった。するとまた扉が開いた。
「おばちゃん、いつもの」
どこかで聞いたことのある声だな、と思っていると、そのお客さんは私の隣に座った。
「よっ」
「あ、この間はありがとうございました。これ」
私は、ところどころ皺が寄ってしまった紙袋を渡した。
「お、サンキュ」
「シュウくんいらっしゃい。知り合い?」
「そうそう。会社が近くでさ」
「あらー、いつの間に」
「そんなんじゃないって」
おばちゃんはとにかくいつでも元気で、このお店が潰れない理由がわかった気がした。とりあえず一杯と言ったものの、そのあとに生ビールと熱燗を飲んでしまった。
「送ってくから帰る?明日仕事っしょ?」
「はい」
小澤さんの優しさに甘えて、一緒に帰ることにした。




