ストーカー
タクシーを呼ぶべきだったのか。いや、国道に出たときにタクシーをつかまえるべきだった。……違う。安くて築浅でオートロックではないアパートを選ぶべきではなかった。
今さら考えてもどうしようもないことばかりが、頭のなかをぐるぐると回る。脳の回転数が上がったままだからだろう。今、それを下げてしまったら、私の命はなかったかもしれない。
実家を出て、アパートに越してから今日で一週間。昨日、家電の最終配達が終わったばかりだった。月末の金曜日で仕事が定時に終わらず、最終の一本前の電車に乗り、駅から歩いて帰った。
――誰かにつけられている気がする。
そう感じたのは、国道を逸れてアパートが見えてきたころだった。気のせいだと思いたかったが、あまりにも気配を感じたため、国道に戻っていつもの帰り道とは反対方向からアパートに向かうことにした。街灯が増え、まだ開いている居酒屋の前を通り過ぎると、その気持ち悪さはパッタリとなくなった。もう大丈夫だろうと、ヒールの音だけを響かせながらアパートのある道に入ると、また気配がした。このまま帰ったら、家を知られてしまう。また国道に出るのか。足はもう限界に近かった。それでもなるべく早く歩く。
見えない。
聞こえない。
自分の荒くなる呼吸だけが耳に入ってくる。誰か、早く助けて。
とにかく必死に歩いていると、数十メートル先に人影が見えた。シルエットは男性のようだった。もう男性でも女性でも関係ない。この人が優しく親切な人であることを願うだけだ。私は携帯を取り出して、メモアプリを開き、文字を打った。そして、勇気を出して、その人と横並びになった瞬間、私はその人の腕に自分の腕をすっと入れた。
「な」
男性がものすごく驚いた顔でこちらを見た。私は素早く携帯の画面を見せる。
急にごめんなさい、今うしろから誰かにつけられているんです。友人でも恋人でもいいので、知り合いのフリをしてもらえませんか?
「んだよー、びっくりしたなあ」
「驚かせようと思って」
よかった。この男性はアタリだった。神様、仏様、ありがとう。
「で?このケーキ食いたいの?」
彼は私の携帯の画面を指した。
「ん?うん」
「ったく、じゃあコンビニ行くか」
「うん!ありがと」
いくら大学で演劇サークルに入っていたとは言え、数年前の記憶を呼び起こしながら感覚でエチュードをすることになるとは思わなかった。二人で国道へ出て、歩いて数分のコンビニに入った。
「あの、ありがとうご」
「シッ」
「え」
「だめだよ、あいつまだいるかもしれない」
男性の少し後ろを歩いて、奥のチルドドリンクコーナーに着いた。
「ありがとうございました」
「いや、俺はなにもしてないけど」
そういうと、男性は襟足と首の間を指で掻いた。髪の毛は肩にかからない程度の黒髪で、前髪は長め。ウェリントンの眼鏡をかけている。
「これからどうするつもりですか」
「帰ろうかと」
「うーん、あの通りですよね」
「はい」
「ちなみに、どこっすか。俺は薄緑色の壁のマンションなんすけど」
「私は、プレジデントBです」
「あ……あの産婦人科の前ですよね」
「はい」
「今日は帰らないほうが、って無理ですよね」
実家に帰ろうかと思ったけれど、コンビニの時計の針はすでに0時を回っていた。タクシーに乗るお金もないし、ビジネスホテルに一泊という気にもなれなかった。
「とりあえず出ましょうか」
「はい」
「一旦外に出てみて、いるかどうか確認してみましょう」
男性はペットボトルの紅茶を二本と、生クリームの乗ったプリンを買って、コンビニの外へ出た。
「すみません、ありがとうございます」
「敬語、なしね」
「すみ……ごめんね」
「大丈夫」
今日は遅かったね。なかなか仕事終わらなくて。てかよくこんな甘いもん食えるね。そりゃ別腹だよ。そういう他愛もない会話をして、男性の名前も仕事先も知らないことに気が付く。彼はおもむろに携帯を取り出して、何かを打ち始めたと思ったら、こちらに画面を見せてきた。
あいつ、まだいるよ。
その文字を見た瞬間、絶望した。私は今夜どこへ行けばいいのだろう。明日は土曜日だけれど、仕事をほんの少し残してしまった。こんなことなら、会社に泊まってでも仕事を終わらせるべきだった。
「今日、泊まってくよね?」
「うん」
彼に話を合わせるしか、私には方法がなかった。まるでパートナーに暴力を受けて、逃げたくても逃げられない人のようだった。彼の住むマンションは、新築ではなさそうだけれどオートロックが設置されていて、ここの治安の悪さを突き付けられた気分になった。私はただただ、彼の三歩後ろをついていくしかなかった。




