大事なもの
「史果のこと傷つけたくないし」
「そんなの、自分が傷つきたくないからでしょう」
「俺、本当にめんどくさいんだ」
「どういうふうに」
「なんか、季節の変わり目とか、仕事で忙しいとマイナス思考になっちゃって、嫉妬っていうか、俺の近くにいてほしいって思っちゃうんだ」
「私だってそんなに強くないし、私だって嫉妬はします」
「とにかく、こわいんだ」
似ている、と思った。私も恋愛したくないのは、今の日本社会とか、親のせいとか、お金のせいにしてきた。でも、今わかった気がする。私は、私たちは、傷つくのがこわいだけだったんだ。
「両想いになることも」
「うん」
「幸せになることも」
「うん」
「目の前の下心っていう激流に呑まれて、気づいたら沖に出ていて、誰もいなくなってしまうことも」
「もういい」
「俺、ほんとにこんな、男で、もう男じゃないよな、最低だ」
「もういいって」
修さんの大きな黒目が小さく揺れて潤んでいた。私は、震える肩を抱きしめることしかできなかった。
「沖に出て、助けも呼ばず、ずうっと浮き輪にしがみついてるんですか。隣を走る豪華客船のチケットも、持っているのに」
それから数分、修さんの過呼吸が治まるまで、ずっと背中を擦っていた。この人は、これまでどんな恋愛をしてきたのだろう。どれだけ傷ついてきたのだろう。
「ねえ修さん」
「ん」
「初恋って、修さんにもあったよね。きっと、その相手のことを好きになった理由なんて、単純だったと思うんだよね。もしかしたら、理由なんてないかもしれない」
「ん」
「きっと、恋の本質って、そこにあると思う。誰にも止められない。理由なんて、ない。いらない」
「ん」
「どう?」
「ありがと」
修さんの声が少し高くなって、笑っているように思えた。身体はそっと離れた。
「結婚したくなかったから、恋愛もしないつもりだったんだ。俺も相手もめんどくさいし。でも、史果のこと、好きだよ」
「それってさ、情けじゃないの?」
「情けじゃない。それに、情けは人のためならず、って良い意味だから」
「そういうことじゃない」
「ごめん。話逸れたね。付き合おうか」
「……セフレじゃだめなんですか」
「どういう意味?」
「やっぱり、わたしも、こわい」
「今度はそっちか」
「ごめんなさい、それに」
「それに?」
「女が男に縋り付いてるみたい。あのドラマみたいに。みっともない」
「そんなことねえだろ」
「あと、修さんの言葉、全部軽く聞こえる」
「……確かに、順番がおかしくなったけど、俺は史果のことが心の底から好きだよ。恋愛したくなかったのは俺側の理由だから。史果が魅力的じゃないとかそういうのじゃない」
「私は魅力的じゃない」
「史果はさ、どんな恋愛してきたの」
「かなり年上の人とか、絶対振られないだろうなっていう誰も選ばないような人とか、反動形成起こしちゃう人とか」
「反動形成?」
「小学生の男の子が、好きな女の子のスカートめくりしたり、その子の消しゴム隠したりするやつです」
「あー、好きと反対の行動しちゃうんだね」
「それが、大人になるとほんと、ひどくて」
「たとえば?」
「デートの時間になっても連絡なくて、女友達と会ってたり」
「なにそれただの浮気じゃん」
「いや、彼は女友達に好意を持ってないんです」
「どうして」
「私が彼から離れていくと、すごい連絡が多くなって」
「ああ」
「その女友達も私の知ってる人で、彼女に聞くと彼氏も一緒だったよとか、私にプレゼントされたものを自慢してきたよとか」
「なんか、その元彼の気持ちもわかんなくはないけど、結局史果は傷ついてるんだもんね。かなしいね」
「私、そんなやつに散々傷つけられても、結局彼を想ってしまうんです」
「わかるよ」
「修さんがそんな人だとは思わないけど、どっかで男性不信っていうか」
「そっか」
「でも、はっきりさせないと、修さんが傷つくことになるし」
「……史果も傷ついてる」
そっと、肩を抱かれて、そのまま、強く抱きしめられた。
「お酒くさいよ」
「いいよ」
修さんの匂いが、アルコールで鈍感になった鼻の奥をかすめた。
「俺、全部、全部受け止めるから」
人は、人のぬくもりがなければ、きっと死んでしまうのだと思う。ウサギだと笑う人だって、きっと、このぬくもりがなければ笑えない。たとえ、人生の終わりにこの人と一緒にいなくても、私はこの人と一緒にいたい。そう思えた。
「俺と、付き合ってくれる?」
「はい」
「今日は隣にいて」
「朝にもう一回言ってくれる?」
「うん」




