本能か、世間体か
それからというもの、サチコさんとは何度も会うようになって、お互いの愚痴を吐き出し吸収する仲になった。呼び方もさっちゃんに変わった。
「今日はどうしたの」
「んー、なんとなく?」
「なんとなくでこんなところまで来るわけなかろう」
カウンターキッチンの丸椅子に座るように促された。
「話したくなったら、話して?」
「うん」
さっちゃんは豆を挽いてコーヒーメーカーにセットすると、私と対面になるようにキッチン側に座った。
「いつもめんどくさいから、ここで作って食べちゃうんだよね」
さっちゃんは、また笑っていた。本当によく笑う人だなあと思いながら、私は深呼吸を繰り返した。
「もお、何も話さないなら質問するよ?」
「うん。して」
「その悩みは仕事?家族?恋愛?」
「恋愛かなあ」
「恋愛か。お相手はどんな人?」
「ルームシェア、的な」
「ルームシェアって、同棲じゃないの?」
「うん。この間引っ越して一人暮らししてたんだけど、まあちょっと訳があって、その人の家に住まわせてもらってる」
「そっか」
「付き合ってるわけじゃないし、強い好意を持っているわけでもないんだけど、急に抱きしめられたら、なんか、そういう対象で見ちゃうっていうか」
「うん。そりゃそうなるよね」
「そうなるかな。私、結婚願望ないし、子どももほしいと思わないし。だから、恋愛なんてしないって思ってたのに、こんなになっちゃって」
「どういうこと?」
「結婚したくない、だから恋愛もしないつもりでいたんだよ。自分の人生を好きなように生きたいって思ってたからさ」
「あー、人生設計通りにいかなかったから、ちょっと戸惑ってるのね」
「そう。そうなの」
「まあ、人生何があるかわかんないからさ、そんなに自分を縛らなくていいんじゃない?今は恋愛も結婚もいらないって思っているかもしれないけど、数年後には結婚してるかもよ?」
「うん。結婚願望がないっていうか、事実婚願望はあるんだよね。人間関係のしがらみが嫌っていうか。だから、好きな人と一緒にいられるなら、それが理想」
「あー、わかるかも。親とか親戚とか面倒だもんね」
「うん。現代の日本社会に文句言うのあんまり好きじゃないんだけど、子育てしやすくて、もっとお給料もらえたら、この考えは変わっていると思う」
「そうだね」
「でも、未来はどうなるかわかんないし。もし私が理想とする社会になって、家庭を持っても、いつそれが崩壊するかわからない。私自身が旦那さんや子どもに強く当たってしまうこともあるかもしれない。それがこわいんだよ」
「そっか」
言いたいことを一気に吐き出した。けれど、なんだかすっきりしない。
「で?話戻すけど、その抱き合った相手のこと、どう思ってるの?」
「どうって」
「好意はあるんでしょ?」
「たぶん」
「でも、好きになりたくない自分がいるっていうか」
「ふふ」
さっちゃんは鼻で笑った。
「なに、その相手って、既婚者?」
「違うよ」
「じゃあ彼女いるの?」
「いや、いないと思う」
「じゃあいいじゃん、なんでそんなブレーキかけてるの?」
抱きつかれたときについ手を回してしまった自分は、ブレーキが効いているのだろうかと疑問に思う。右手の人差し指のささくれをじっと見つめた。
「わかった。順番守ってないと思ってるんだ」
「それもあるし、こわい、んだよね」
さっちゃんが大きく空気を吸うと、コーヒーメーカーのスイッチがカタン、と音を立てた。さっちゃんはゆっくり二酸化炭素を吐き出しながら立ち上がって、コーヒーをカップに入れた。
「どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
薄めのブラックコーヒーは、鼻からスッと香りが抜ける。やっぱりさっちゃんが淹れるコーヒーは美味しい。
「何がこわいのかわかんないんだけど、なんか、今、仕事もあんまりうまくいってなくて。彼ともきまずいままで。もう、どうしたらいいのかわかんなくて」
「彼と順調な関係のときは、仕事うまくいってたの?」
「うん」
「じゃあ、原因はそこだね」
「でも、抱きしめられたとき嬉しかったし、彼は何も悪くないの」
「そうじゃないよ。ふみは、彼を失うのがこわいんだよ」
「失う?住む場所を失う?」
さっちゃんは優しい顔で、ゆっくり首を横に振った。
「彼の存在が、ふみの考えている以上にふみのなかにいるんだよ」
「私のなか?」
「うん。ふみのなかに彼がちゃんと存在してるんだよ。彼とうまくいかないと、仕事もうまくいかなくなる。それって、家族も一緒でしょ?」
「……うん」
「でもふみは、今は恋愛したくない。ふみのなかで、彼に対する好意を認めてないから苦しいんだと思うよ」
「たしかに好きになりたくない」
「でもさあ、もう、好きオーラ出てちゃってるよ?」
「うそ」
「本当。素直になりなよ」
「素直」
「まあ、ふみが素直になれないのは知ってるけどね」
「ですよね」




