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第八章 あるオペラ歌手

「うちにオペラ歌手を呼びたい」


 仕事の合間のある時、ソンメルソがぐったりした様子でそう言った。

 いきなりどうしたのだろうとマリユスは心配になったが、このところ輸出品の発注などの調整で忙しかったので、疲れが溜まっているのだろうかと思い至る。

 疲れたままで仕事をしても良い結果は出ないし、気分転換になるのなら。と、マリユスはソンメルソに言った。


「呼べるように手配いたしましょうか? 誰か希望の歌手がおりましたら、そちらに話を通しに行かせますが」


 それを聞いて、ソンメルソはぱっと顔を明るくし、こう答える。


「希望の歌手はいるんだ。

ウィスタリアという歌手なのだが、先日オペラを観に行ったとき、バリトンの歌手の中に居ただろう」

「えっと、そうですね、バリトンの歌手は沢山居ましたね」

「あの、中盤のエールを担当していた」

「沢山居ましたね。

でも、名前がわかっているのなら呼びやすいでしょう。手配なさいますか?」

「ああ、是非頼む」


 随分と期待が高まっているようだけれども、これでソンメルソの疲れが少しでも取れるのならと、マリユスはベルを鳴らしてユリウスを呼び、歌手の手配に行かせた。


 その翌日、ソンメルソが呼びたいと言っていた歌手が館を訪れた。ユリウスが出迎え、マリユスもそれに付き添って、その歌手を応接間まで案内する。応接間までの道中、ユリウスがその歌手を見上げながら話しかける。


「すごいなぁ。お兄ちゃんより背が高い人初めて見たかも」


 すると、歌手はサックスの髪をふわふわ揺らしながらにこりと笑う。


「そうですか? でも、背が高いって言うのはよく言われます」

「どうやったらそんなに大きくなれるんです?」

「毎日よく食べてよく寝る事ですかね」

「それやってるのに、僕お兄ちゃんほど大きくないですよ?」


 むくれたようにそう言うユリウスを見て、マリユスはくすくすと笑う。


「まぁ、そんなに拗ねないで。ユリウスだって背が低いわけじゃないんだから」

「んむー」


 そんな話をしているうちに、応接間に着いた。声を掛けてから、樫の木の扉を開ける。中ではソファに腰掛けてソンメルソが待っていた。そのソンメルソが、立ち上がって歌手に歩み寄り軽く礼をする。歌手も礼を返した。


「ウィスタリアだね。今日ここに来てくれたと言うことは、歌を聴かせてくれるという事で良いかな?」


 ソンメルソの言葉に、ウィスタリアは勿論と言った風に返す。


「それが仕事ですから。

でも、おれの歌を聴きたいとおっしゃって下さるのは嬉しいです」


 ふたりのやりとりを見ていて、マリユスがふと周りを見ると、ユリウスの姿が無い。手筈通り、ウィスタリアに振る舞う紅茶やお茶請けの用意をしに行ったのだろう。

 ユリウスがお茶の用意をしに行っている間にも、早速歌って欲しいと、ソンメルソがウィスタリアに言っている。この歌手は、話し言葉を聞いているだけでも体に染みこむような、そんな心地よい低音だ。この声で、ソロで歌ったらどうなるのだろう。マリユスの中でも期待が高まった。

 ソンメルソがソファに座り、その側にマリユスが控え、何の楽器も無いけれど、ウィスタリアの歌が始まった。大きい声ではあるけれど不快では無く、部屋中に響き渡る声の振動が心地よい。ふと、ソンメルソの方を見てみると、昨日の疲れた顔はどこへやら、感動しすぎたのかぼんやりとした表情では有る物の、活力を感じた。

 何曲か歌を披露して貰っている間に、お茶の用意が出来たようで、ユリウスがワゴンを押して応接間に入ってきた。マリユスはまだ暫く静かにしているようにと、人差し指を口に当ててユリウスに見せる。ユリウスも人差し指を口に当てて返した。

 そうして歌が終わったところで、マリユスがソンメルソとウィスタリアに声を掛ける。


「ところで、お茶のご用意が出来ましたが、一服なさいますか?」


 それを聞いて、ソンメルソは笑顔でこういう。


「ああ、それじゃあいただこうか。

ウィスタリアもどうぞかけて」

「はい、ではお言葉に甘えて」


 ウィスタリアがソファに腰掛けたのを確認し、マリユスがお茶請けのマドレーヌが乗ったお皿をテーブルに並べ、ユリウスが紅茶を注いだティーカップと、それを乗せるソーサーも受け取って並べる。並べるときに、カップに描かれたアーモンドの木が、きちんと持つ人の方を向くように気を配る。

 ソンメルソがカップを持ち、紅茶の香りを聞く。


「今日のお茶は?」


 自分が訊かれているというのがすぐにわかったようで、ユリウスがすぐさまに答える。


「キーマンでございます」


 それを聞いて、なるほどとマリユスは思う。そう言えば陸路の方から入ってきた輸入品で、チャイナのお茶があったはず。ただ売りに出すだけで無く、こうやって定期的に自分達で味の確認をすることも必要だという事を、ユリウスもわかっていての選択だろう。

 銘柄を出されてもピンとこないのか、ウィスタリアは不思議そうな顔をしたけれども、ひとくち紅茶を含んでにっこりと笑う。


「少し渋味が強いですけれど、良い香りだし美味しいお茶ですね」

「うん? 気に入ったかい?」

「はい。おれの友達にも飲ませたいなぁ」


 余程仲の良い友達なのだろう、楽しそうにそう言うウィスタリアに、ソンメルソもにこりとして返す。


「そうか。それなら、歌の報酬にお茶も付けることにするか。

マリユス、この茶葉とマドレーヌを少し包んで持って来てくれ」

「かしこまりました」


 マリユスは早速部屋を出て、お茶の準備をしていた部屋に向かう。

 そう言えば、茶葉とマドレーヌはどの程度包めば良いのだろう。その指示は無かったけれど、複数人で楽しむにしても、茶葉は二オンス、マドレーヌは六個あれば十分だろう。今思えばウィスタリアの友人の人数を訊いておけば良かったと思ったけれども、茶葉とマドレーヌはあくまでおまけだ。中途半端な数になってしまったとしても、そこはご容赦願うこととしようと、マリユスは思った。

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