第四十章 春の舞台
吹く風も温み日差しが暖かくなってきた頃。今年もこの街にオペラの一座が来る時期になった。
「マリユス、今晩オペラハウスに行く準備は出来ているか?」
「はい。ただいまユリウスが準備をしております」
この日はデュークやメチコバールも誘ってソンメルソがオペラを観に行くと言うことで、仕事の休憩中、一息ついている時に楽しそうな顔をしている。今年はソンメルソがお気に入りのウィスタリアというバリトン歌手が来るので、楽しみな気持ちもひとしおなのだろう。
今晩観劇の肴にするのは、去年入荷して非常に出来の良かったダージリンと、それに合わせるカヌレだ。このメニューを選んだのはマリユスではなくユリウスなのだが、食べ物のチョイスに関してはユリウスの方がセンスが良い。なので、マリユスはついついこの辺りの物はユリウスに投げてしまいがちだ。
観劇中にどんな食べ物を出すのかというソンメルソの問いに答えてマリユスはふと気づく。ソンメルソ達三人が観劇をする時は、ほぼ毎回マリユスとユリウスもお茶請けを分けて貰っている。それを期待して、普段食べられないようなカヌレを選んだのではないか。そう思ったけれども、ソンメルソもカヌレは好きなようなので、ユリウスがこのメニューを選んだ根拠は気にしないで置くことにした。
月が浮かぶ夜になり、お茶のセットとお茶請けの入ったバスケットを持ったマリユスとユリウスは、馬車に乗ってソンメルソと共にオペラハウスに向かった。途中、デュークとメチコバールの館に寄りふたりを拾っていくので、マリユスは御者の隣に座っている。
日中は暖かくなってきたとは言え、夜はまだ冷える。かじかむ指先を時折さすりながら、オペラハウスに到着するのを待った。
オペラハウスに着き、あらかじめ取っておいたボックス席に入る。主とその友人達がソファに座ったのを確認し、ユリウスがお湯を沸かしに行く。その間に、マリユスは持っていたバスケットを開き、ティーカップとソーサー、それにお茶請けを乗せる小皿を用意した。小皿の上には、ひとりあたり二個ずつカヌレを置く。本来ならば一個で十分なところだが、ユリウスが言うにはオペラは長時間かかる物なので、これくらい用意して置いて空腹にさせない方が良いと言うことだった。そう言われると確かにその通りなのだけれどマリユスとしては下心を疑わざるを得ない。
そんな事を考えている間にもお湯を持ったユリウスが戻ってきたので、マリユスはティーポットに茶葉を入れ、用意されたお湯を注ぎ込み、砂時計をひっくり返した。
ふと、ソンメルソ達の会話が耳に入る。
「そう言えば、お前達は音楽院で一番人気の歌手が誰だか知っているか?」
ソンメルソのその問いに、デュークが答える。
「ドラゴミールって言う歌手だよ。
前にこの街に来たとき、うちに招いて歌って貰ったんだけど、確かに一番人気だろうなぁって感じだった」
その言葉に、珍しくソンメルソとメチコバールが顔を見合わせて、それからメチコバールがこう訊ねた。
「どんな感じの歌手なんだ? 例えば、パートとか」
「パートはソプラノだって言ってたかな?」
「ソプラノか」
納得した様子のメチコバールだが、ソンメルソは不思議そうな顔をしている。
「ソプラノと言っても、男の名前だがどう言うことだ?」
それを聞いて、マリユスも不思議に思った。もしかして、災いを避けるために男性の名前を付けられた女性なのだろうか。すると、デュークが言うにはこう言う事だった。
「男の人なんだけど、すごく高い声が出るんだよ。今年は来たみたいだから、待ってれば出てくるんじゃない?」
自分が言っていることに疑問がない様子のデューク。一方、聞いていたソンメルソとメチコバール、ついでにマリユスはどう言うことなのかがわからなかった。男性にもかかわらず、ソプラノの音域を出せる物なのか。
つい考え込みそうになったマリユスが砂時計を見ると、砂が落ちきる寸前だ。用意して置いたティーカップにお茶を注ぎ、ソファに座った三人の前に置く。
「お茶のご用意が出来ました」
「ああ、ありがとう」
紅茶を置き、お茶請けのお皿をテーブルの上に並べると、デュークが嬉しそうに口を開く。
「わぁ、カヌレだ。僕、これ好きなんだよね」
「さようでございますか? 美味しく召し上がってくださいませ」
にこりと笑ってそう返すマリユスの横で、ユリウスがにこにこしながらそわそわしている。それを察したのかどうかはわからないけれども、ソンメルソとメチコバールがティーカップの下にあったソーサーの上にカヌレをひとつずつ乗せ、マリユスとユリウスに差し出した。
「お前達も食べると良い」
「私たちだけこんなに食べるのもずるい感じがするしな」
「あっ、なんか毎回毎回ありがとうございます」
マリユスがソーサーを受け取って恐縮していると、ユリウスも受け取り嬉しそうに礼を言う。
「ありがとうございます。それじゃあありがたくいただきますね」
この様子だと、本格的にユリウスはこれを狙ってこの個数にしたのだな。という確信がマリユスの中に産まれる。あとで注意しておかないとと思っていると、なにやらデュークがカヌレの乗った小皿を持ってがおろおろしている。何かと思ったらこう言う事だった。
「どうしよう、僕のも分けたいけど端数になっちゃうなぁ」
それを聞いてマリユスは恐縮しきりなのだが、ソンメルソとメチコバールが笑って言う。
「気にするな。お前は二個食べれば良い」
「普段仕事で体力を使っているんだろう? 多めに食べるくらいで丁度良い」
「えっ、あっ、それじゃあありがたく」
ありがたくも何も、そもそも分けて貰わないことを前提にはしているので、何も問題は無い。
「デューク様、お気になさらず。美味しく召し上がっていただければ、それで十分です」
マリユスのその言葉で安心したのか、デュークは小皿をテーブルの上に置いて落ち着いたようだ。
お茶を飲み始めてしばらく、舞台の緞帳が上がった。マリユスとユリウスは舞台を見ることは出来ないけれど、先程話題に上がっていた一番人気の歌手というのはいつ頃出るのだろうと、勧められたソファに座ったまま耳を澄ませていた。




