第二十章 休息の日
春咲きの花が綻んだ頃のこと。この日はソンメルソの館にオペラ歌手を招いて歌を披露して貰う事になっていた。その歌手は男性ながらもファルセットと言う技法で高音も出すことが出来るのだという。ファルセット歌手は数は少ない物の、そこまで珍しい物では無い。教会の合唱団で時折見ることも出来るくらいだ。
折角歌手を呼ぶのだから一緒に聴かないかと、ソンメルソはデュークのことも誘ったので、応接間の中には今、ソンメルソとデューク、それに給仕としてユリウスとマリユスがいる。ソンメルソとデュークがお茶を飲みながら談笑しているのを見ていたマリユスが、ふと胸にしまっていた懐中時計を取り出して文字盤を見る。そろそろ今回呼んだ歌手が到着する頃合いだった。
「ソンメルソ様、そろそろ時間のようですので出迎えに行って参ります」
「ああ、よろしく頼んだ」
主人達に背を向けないよう扉を開け、廊下に出る。窓から差す光は暖かく柔らかかった。
玄関前で待つこと暫し、その歌手はやって来た。些か地味では有る物の整った身なりで、青白くも見える顔をチェリーブロッサムのように柔らかいピンク色の髪が縁取っている。後ろ髪と同じ長さの真っ直ぐな前髪を、銀色のヘアピンできっちりと留めている様は、真面目さを感じさせた。
彼が歩み寄り礼をして、こう名乗った。
「本日お招きいただきましたカーミットと申します」
それに対し、マリユスも一礼をして言葉を返す。
「わざわざお越しいただきありがとうございます。僕は本日カーミットさんをお呼びしたソンメルソ様に使えているマリユスと申します。よしなに」
お互い挨拶を済ませた所で、マリユスは玄関の扉を開き、カーミットを館の中へと招き入れる。扉を閉めるのは他の使用人に任せ、廊下を案内する。所々に配されている燭台、暖かい光を通す大きな窓、壁を彩る華やかだけれど上品な壁紙。それらが珍しいのか、カーミットは周囲をキョロキョロと見回している。
「こう言った館は、慣れていませんか?」
マリユスがそう訊ねると、カーミットははっとしてから、左手で顔の下半分を隠し、恥ずかしそうにこう言った。
「お恥ずかしながら、そうなのです。実は私、歌を生業とし始めてから、こう言った所にお招きいただくのは今回が初めてな物で」
「そうなのですか? オペラ歌手の方は、結構こう言った館に招かれている物だと思っていたのですが」
「人気のある歌手はそうなのですけれど、あまり人気がなかったり、私のように経験が浅い歌手はなかなか機会に恵まれない物なので」
「なるほど、そうなんですね」
確かに言われてみれば、こう言った舞台以外の仕事が入るかどうかはそれぞれに実力と知名度次第だろう。それにしても、とマリユスは思う。
「先日舞台を見に行ったのですが、カーミットさんは経験が浅いようには見えませんでしたね」
単純に思ったことを口にしただけなのだが、それを褒め言葉と取ったのだろう、カーミットは照れた様子でこう返した。
「歌自体の下積みはかなり長くやっていますから。私は長いこと教会の合唱団に居て、オペラ歌手になったのは二年ほど前からなんです」
「下積みですか、歌手もなかなかに大変なんですね」
そんな話をしている間にも、ソンメルソが居る応接間に辿り着いた。ノックをしてからそっと扉を開け、声を掛ける。
「カーミットさんをお連れしました。
では、どうぞ中へ」
マリユスが中へ入るよう促すと、カーミットは部屋に入り一礼をする。
「本日はお招きいただきありがとうございます。今回のご要望は歌の演奏ということでございましたか」
初めてこういう場に来たという割には、スムーズに挨拶が出来ている。ここに来るまでにある程度落ち着いたのか、そもそも肝が据わっているのかはわからないけれども、カーミットは早速、ソンメルソやデュークと言葉を交わしている。その間に、ユリウスがポットの中に入っていた少し冷めた紅茶をカップに注ぎ、マリユスがそれをソーサーに乗せてテーブルへと持って行く。
そうしている間にも三人の話は終わり、早速歌の披露が始まった。カーミットは、高い声も低い音も使いこなす、匠とも言えるものだった。抜けるような高音の歌を歌った後に、柔らかい低音の曲も奏でた。その歌を聴いて、マリユスはふと思い出した。去年この館に何度か来たウィスタリアは、今どうしているだろう。カーミットも音楽院に所属しているはずだから、都にいた間のことを訊けば知ることは出来るかも知れない。けれども今は、目の前に有る声を堪能しようと、そう思った。
演奏が終わり、ソンメルソとデュークに加え、カーミットもソファに座り、紅茶とお茶請けを口にしている。
「やはり劇場で聴くのとはだいぶ違うな」
上機嫌なソンメルソがそう言うと、カーミットは口元を上げて微笑む。
「ご期待に添えましたでしょうか?」
「ああ、勿論だとも。さすが、舞台に立つことを認められているだけのことはある」
とても気に入ったようで良かったと、マリユスはほっとする。カーミットも慣れていないと言いながら、しっかりとマナーは身につけているようで、そう言った面からも心配は感じなかった。
ふと、にこにことお茶請けのビスケットを囓っていたデュークがこう言った。
「折角だから、メチコバールにも聴かせたかったなぁ」
それを聞いて、マリユスは即座にソンメルソの方へと目をやる。よく見ると少しだけ口を尖らせていた。




