第十八章 その誘いは
冷たい風も温み、春の兆しが見え始めた頃。今年もこの街にオペラの一団がやって来た。その知らせを聞いて、ソンメルソはお気に入りの歌手であるウィスタリアが来るかどうかと期待していたようだが、残念ながら、今年のメンバーには含まれていないようだった。
今年もソンメルソは、友人達と一緒に観劇に行くのだろうか。オペラは数少ない楽しみのひとつなので、世話係とは言え同伴をするのはマリユスも楽しみにしているのだ。
そんなある日の夕方、マリユスは苦々しい顔をしたソンメルソに呼び出され、こう言われた。
「突然の事で悪いのだが、今夜ルクス様とオペラを観に行くことになった。
ついては、お前とユリウスに給仕として付いてきて欲しい」
「かしこまりました。すぐに準備致します」
なぜ、こんなにもソンメルソは不機嫌なのだろう。毎年オペラを観に行くのを楽しみにしているのに、何が有ったのだろうか。
「あの、失礼ですがソンメルソ様。ご立腹のようですが、一体何が有ったのでしょうか?
我々の不手際が原因でしたら、ご指導いただければ改善致します」
そうは言う物の、使用人の失敗でソンメルソが機嫌を損ねたと言う事は今までに無かったので、おそらく原因は別にある。マリユスはそう確信していた。
伺うようにぢっとマリユスが見ていると、ソンメルソは溜息をついてこう答える。
「お前達が何かをしたわけじゃないんだ、心配かけてすまない」
「では、他になにか? 差し支えが無ければお聴かせ願いたいのですが」
この後観劇に誘われていると言うのに、不機嫌なままでは不味いだろう。そう思ったマリユスが重ねて訊ねると、ソンメルソは言いづらそうに、ぽつりぽつりと胸中を漏らした。
「実は、なんだ。ルクス様はどうにも苦手で……だからといって、あの方は得意先だし、下手に誘いを断れないんだ」
「んん……それは難しい問題ですね」
「それに、今回はお前とユリウスも連れてくるようにとわざわざ指名してきてな。
全く、どう言うつもりなんだか……」
「えっと、はぁ」
ここでまたひとつ疑問が増える。貿易の方の補佐であるマリユスを給仕として指名することに疑問はあっても、元々給仕が仕事であるユリウスを同伴させることに、なんの不思議があるのだろうか。気にはなったけれども、この様子だとこれ以上訊ねても困らせてしまうだけだろう。マリユスはこれから準備をすると告げ、ソンメルソの部屋を一旦後にした。
そして劇場に着いたマリユス達は、ルクスが取ったボックス席にお邪魔していた。
「やぁ、良く来てくれたね。
取り敢えず楽にしてくれたまえ」
テーブルを挟んで向かい合ったふたり掛けソファの片方に、薄い色の金髪を結って肩に垂らしている男性、ルクスが座って居る。ソンメルソはどこに座るか決めかねているようだけれども、ユリウスは手際よくお茶の準備をしている。
「少々お待ち下さい。すぐにお茶の準備を致します」
そう声を掛けてマリユスもお茶請けの支度をする。用意されていた革の鞄には、ティーカップとソーサーが四つ入っている。それを見てマリユスが不思議そうな顔をすると、ルクスはくすくすと笑いながらこう言った。
「折角だから、君たちもお茶を楽しめば良い」
「えっ? あのそれは畏れ多いと申しますか、あの」
手に持ったカップを落としそうになるほどマリユスが驚くと、砂時計を見ていたユリウスが嬉しそうにする。
「よろしいんですか? わーい」
無邪気なユリウスを見て、ソンメルソが渋い表情をしてルクスに声を掛ける。
「私の使用人に良くしていただけるのはありがたいのですが、ルクス様の使用人は放って置いて良いのですか? 外にひとり、控えているようですが」
その言葉に、ユリウスはそう言えばと言う顔をしたが、ルクスはにこにこしたままこう返す。
「ああ、あれは良いんだよ。君たちをもてなしたいというのは、言ってあるからね」
「そうですか。お気遣い感謝致します」
感謝するとは言っているが、ソンメルソの表情からはその様な気持ちは全く見て取れない。
そうこうしている内に、カップ四杯分の紅茶が準備された。ユリウスはちゃっかりとルクスの言葉に乗るつもりのようだ。お茶をテーブルの上に並べようとして、マリユスの手が止まる。ルクス以外の三人が、まだ立ったままなのだ。
戸惑うマリユスの様子を見て、ルクスがユリウスに手招きをする。
「ユリウス君、私の隣にお座り」
「えっ? よろしいのですか?」
驚いた顔をしつつも一歩踏み出すユリウスを腕で遮り、ソンメルソがルクスの側へ寄る。
「使用人が隣に座るというわけにも行かないでしょう。私が隣にお邪魔してもよろしいですか?」
「おや、君の方から隣に座りたいだなんてどうしたんだい?
いつもはあんなにつれないのに」
「座りたいから、と言う理由ではいけませんか?」
「そんな事は無いよ。どうぞお座り」
ふたりのやりとりを見て、マリユスは違和感を持った。ソンメルソは、ルクスのことが苦手だと言っていたのに、何故。マリユスの疑問も知らず、ユリウスは既に空いている方のソファに腰掛けている。
「あっ、ユリウス! まだ座るお許しを得ていないのに……」
マリユスが慌ててそう言うと、ユリウスはきょとんとしている。
「なんか、座って良いって言われた気がした」
「ああ、まぁ、話の流れ的にそう取れなくはない……」
とは言え、背中に冷や汗が浮く感触がマリユスを悩ませていると、ルクスは変わらない笑顔でふたりに言った。
「まぁ、細かいことは気にしないで良いよ。
マリユス君もお座り。みんなでお茶をいただこう」
「あっ、はい、かしこまりました」
慌ててマリユスはテーブルの上にティーカップを並べ、ユリウスが準備しておいたお茶請けのマドレーヌも添える。
「では、いただきましょうか」
ソンメルソがそう言い、ティーカップを口元に持って行く。その表情は硬いままだけれども、それに気づいて居るのはマリユスだけなのか、そうで無いのか、わからなかった。
お茶を飲み、時折マドレーヌを食べながら、歓談する。ふと、ルクスが革の鞄を見て口を開く。
「そう言えば、ワインの用意もあったはずだから後で開けよう。折角オペラに来ているのだから、それくらいしないとね」
「そう言えば入っていましたね。かしこまりました、後ほどご用意致します」
自分達がワインまでいただいてしまって良い物かとマリユスは思ったけれども、もし良いというのであれば、素直にいただいた方が失礼は無いだろう。そう思いながらぼんやりと対面に座って居るふたりを見ていると、気のせいか、ルクスが片腕をソンメルソの背面に回しているように見えた。




