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第十二章 街を去る

 日差しも弱まり、肌寒くなってきた頃。この街に来ていたオペラ一座が首都へ帰る時期になった。公演も今週いっぱいまで。それが名残惜しいのか、ソンメルソがマリユスにこう言った。


「オペラ一座が帰る前に、もう一度ウィスタリアを呼びたい」


 普段こう言った要望は余り出してこないので、改めてそう言ってくるということは、余程あの歌手のことが気に入ったのだろう。

 マリユスは一礼をして、この館へ呼ぶ手配をすると答えたのだった。


 そして数日後、ウィスタリアはこの館を訪れた。前に来たときと同じように、マリユスとユリウスが館の中を案内する。


「もう都に帰っちゃうんですか?」


 道すがら、残念そうにユリウスがそう訊ねると、ウィスタリアはにこりと笑って答える。


「はい、そうです。

オペラの公演期間は音楽院の方で決められていますので」

「なるほどー」


 この国でオペラを公演出来るのは、国立の音楽院ただひとつだ。そこに所属する楽団や歌手、踊り子が、首都での公演の後各地へと回るようなシステムになっている。そう言う仕組みだと、毎年同じメンバーが同じ街へやってくるとは限らない。


「次はいつ、この街にいらっしゃいますか?」


 マリユスがそう訊ねると、ウィスタリアは少し考える素振りを見せてから言う。


「早くて来年の春ですけれど、予定はその時までわかりませんね」

「そうなのですね」


 主人が気に入った歌手には積極的に訪れてほしいものだけれど、毎年の配置ばかりは音楽院以外の人間が口を出すことは出来ない。出来たとしても、余程強力なパトロンくらいの物だろう。

 少し寂しい気持ちを抱えながら歩いているうちに、応接間へと着いた。マリユスとユリウスが扉を開けると、中では嬉しそうな顔をしたソンメルソが待っていた。


 歌の披露も終わり、今はソンメルソとウィスタリアのふたりでお茶を楽しんでいる。今日のお茶はラプサンスーチョン。お茶請けは熟成された山羊のチーズだ。それをユリウスが羨ましそうな目で見ているけれども、さすがにこれに手を出すのはまずいというのがわかっているようで、特に食べたいとは言い出さない。

 ふと、話の中でウィスタリアがソンメルソにこう訊ねた。


「ところで、なんでおれをご指名くださったのですか?」


 それに対して、ソンメルソは当然と言った顔で答える。


「俺が気に入ったからだけれども、それ以外に何か理由が必要か?」


 すると、ウィスタリアは困ったように笑う。


「いえ、今回の巡回では、おれよりも……というか、音楽院で一番人気のある歌手が来ているので、そちらでなくてよろしかったのかと思いまして」


 自信なさげなその言葉に、ソンメルソは斜め上を見て、心当たりが無い。と言った顔をしている。一体誰が一番人気なのか、気にはなったけれども、それを訊ねるのはマリユスでは無くソンメルソでなくてはいけない。そう思いマリユスは口を噤み、そっとユリウスの口を押さえる。

 結局、音楽院で一番人気の歌手の名前を聞くことは、その場では無かった。パーティーなどの社交的な場に行って誰かに訊ねればわかることだろうし、わざわざこの場で訊いてウィスタリアの居心地を悪くすることはないだろうと、ソンメルソは判断したようだ。

 ひとしきり雑談が終わった後、ウィスタリアは礼をして部屋から出る。当然、マリユスは見送りとして付いていく。ティーセットなどの片付けはユリウスに任せた。

 出入り口まで案内し、ウィスタリアが去る間際にマリユスはこう声を掛けた。


「もしまたこの街に来ることがありましたら、お手紙をいただけるとありがたいです。

きっと、ソンメルソ様も喜ぶと思いますので」


 その言葉が意外だったのか、一瞬ぽかんとした後、にっと笑って答える。


「はい。またこの街に来ることが決まったらお手紙を送りますね」


 見送りが終わり応接間に戻ると、既にソンメルソの姿は無かった。もう部屋に戻って仕事をしているのかも知れない、そう判断したマリユスは部屋の方へと向かった。


「失礼致します。お見送りが終わりました」

「そうか、入れ」


 ドアを開け一礼をして中に入ると、ソンメルソが机の上に書類を広げ、幾つかの山に分けてまとめていた。そのなかの一山をマリユスに差し出し、こう指示した。


「もう数日中に船が着くだろう。

積み荷の管理を効率良く出来るように、書類の処理を頼む」

「かしこまりました」


 彼が貿易の仕事を継いでから早数年。さすがに船の着く時期がわかるようになってきたかと、微笑ましい気持ちになる。

 ふと、だいぶ前に修道院にひとりで行ったときのことを思い出した。異教徒であれ人は人だと言っていたマルコ。あの修道士様の面影が、一瞬ソンメルソと重なった。

 一回の航海で、どれほどの船員が犠牲になっているのか、ソンメルソは知っているのだろうか。それを訊ねたくなったけれども、もし知らないのであれば知らない方が仕事をやっていく上では都合が良い。

 そんな思いを悟られないように、努めて平静を保ちながら書類を全て受け取り、一礼をしてから部屋を出る。

 やるせない気持ちを堪えるように、唇を噛んだ。

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