三章
兄の様子がおかしい。
そう東雲楚乃香が気付いたのは学校から帰った兄を一目見たその瞬間だ。
いつもより怖い顔をしているような気がする。
兄は買い忘れがあったから急いで買いに行かないといけないと言って私の返事も聞かずにそのまま早足に家を出て行った。
不思議に思い追いかけようと思ったがあいにく兄は玄関の扉の外に出てしまったので追いかけることが出来ない。
あの事件以来、私はこの家の外の世界に出ることが出来なくなってしまった。
今は兄と二人でこの家に暮らしている。
身内以外でも兄の古くからの幼馴染だという高羽和泉とも最近では話すことが出来るようになった。
自分でもよくわからないがどうやら私は誰それ構わず話すことが出来ないというわけではないようだ。
苦しみも今はだいぶ感じない。
……いや、恐らくなくなったというわけではなく、ただ単にあの時のことを思い出すことを脳が拒絶しているだけなのだろうが。
両親は私を見るときいつも悲しそうな顔をする。
そりゃそうだ。引きこもりの娘なんて歓迎されたものじゃない。
その上、両親がまだ家にいたころは自分の部屋に籠り誰ともコンタクトを取ろうともしなかった。
だから、私は両親の海外出張も、もしかしたら私と離れるためだけの口実なんじゃないかと今でも考える。
私の実の母と義理の父は同じ職場で出会ったらしいから同じ現場に長期出張に行くという可能性はあるだろう。
しかし、同じ時期に、しかも社内結婚した二人を同じ場所に送るなんて可能性はとてつもなく低いに決まっている。
そんな偶然が許されるなんてのは普段愛読している物語の世界の中だけだ。
しかも両親不在の間血のつながらない兄と二人きり。そんなのますますラノベの設定じゃないか。
そんなの誰にも愚痴れないが。
普段も兄と私の間にはどこか壁があるように思えて仕方がない。
最近はどうにか話せるようにもなったし、兄の他に信用出来るような人間もいないからどうしようもなく胸が苦しい日には兄の布団に潜り込むことも多い。
本当は完全に信じてはいないのだが一人でこの心に掛かる苦しみには耐えがたい。信じられないくせに人の温かみに触れたいという矛盾した思いがある。
本当にばかげている。
私はもう誰も心から信じない。
……いや、信じられない。信じたいと思っても相手を見るたびに過去のトラウマが脳裏をよぎるのだ。
「兄さん……」
小さく兄の名前を呼ぶ。
唯一、私を見放さなかった人。
私にいつも話しかけてくれる人。
私が甘えても嫌な顔一つしない優しい人。
私のことを知っても離れていかなかった人。
家から出ることが出来ない私のことを受け入れてくれた人。
「兄さん…」
もう一度つぶやく。……出会った日に一目ぼれした愛する人のことを想いながら。
居なくならないでほしい。
私の傍にずっといてほしい。
私のことを受け入れてほしい。
誰にも決して言えないこの想い。
自分でもおかしいのは知っている。自分は相手のことを信じられないくせに相手には信じてほしい…だなんて。
リビングに移動し玄関の外が見える大きな窓に近づき外を窺う。
すると外に二つの影が見えた。
兄の背中とやけに見覚えがある出来ればもう二度と見たくない服に身を包んだ人……
それを認識した瞬間鼓動がどんどん早まる。呼吸も荒い。立っていることもままならずその場にうずくまる。
あの人は……
「なんで…なんで…こんなところに…せっかく…せっかく誰かを信じたいって…思えたのに…」
神様……私…何か悪いことしましたか…?
ただ…私は誰か私のことを必要としてくれる人に出会いたかっただけなのに……
「助けて……誰か助けてよ!!…神様…っ!」
涙を流し、痛む胸を抑えながらそうつぶやく。
「そう思うならボクがキミを助けてあげるよ。惨めでどうしようもない君をね?」
突然頭の中に響いた声に顔を上げる。
そこにはこの世のものとは思えないほどきれいな童顔で銀髪碧眼の少女が飛んでいた。
そう、その少女はまるで……
「か…みさま……?」