二章
俺の妹、東雲 楚乃香は引きこもりだ。
本来なら中学三年だが当然学校にも通っていない。
母親には楚乃香が中学一年だったときに入った部活動の中でいじめにあったことが原因だと聞いた。
楚乃は昔からあらゆる才能に恵まれていたようだ。
勉強、スポーツ、芸術に至るまで。当然周りには注目されていた。
その上、俺が言うのもなんだがすごく可愛い。
性格は穏やかで初めのうちは周りの人間とも仲良く出来ていたらしいが、中学で入った部活内で事件は起こった。
楚乃は無自覚にその才能を発揮し部活で成果を上げ続け、先輩ですらあっさりと超えた上に、顧問の教師からはすごく気に入られ優遇を受けたのだ。楚乃の意思とは関係なく。
その結果、部活内でいじめを受け、そのうちそれに便乗したクラスメイトからもいじめを受けるようになった。
具体的に何をされたかは俺は詳しく聞いていないが、ある日を境に楚乃は家の外に一歩も出られなくなった。
初めのうちは誰かと会話することもままならなかったそうだ。
だから、こうして俺や俺の幼馴染の和泉とまともに話せるようになったのもつい半年ほど前だ。
一緒に暮らし始めたばかりの頃はろくに顔も合わせてもらえず、部屋に籠りっきりだったので食事をとらせることも大変だった。
楚乃香の過去の話を今住んでいるこの家に楚乃香と楚乃香の母親が住むことになった日に聞き、俺は自分
でも気づかないうちに泣いていた。
いじめを始めた最初の人間が憎かった。
他人より優れているからって目に見える贔屓をした顧問の教師が憎かった。
そしてそんな楚乃を助けなかった周りの人間が憎かった。
その事件のせいで今も楚乃は苦しんでいるのだ。
夜、寝ているときにうなされるくらい。
両親があまり帰ってこなくなってから眠れない日は決まって楚乃は俺の布団に潜り込むようになった。
楚乃が隣で寝ている間に涙が頬を伝っているのを見るとどうしようもなくつらい気持ちになる。
そんな楚乃の心を少しでも癒したいと常々思っているがあまりにもその問題は大きすぎる。
母親や教師が大勢で楚乃の問題を解決しようとしても出来なかったんだ。
ただ事情を聞いただけの俺には楚乃の心の重みをどうにか出来ない。
今では笑顔も増えたが、いじめてた生徒がそれなりの処罰を受けても住む場所を変えても根本的には何も解決していない。
「…さん、兄さんってば!」
「おうっ!!」
急に耳元で聞こえた声に驚き飛び上がる。
「何ぼーっとしてるんですか? 話聞いてました?」
楚乃が怒ったように頬を膨らませる。
「悪い、それでなんだっけ?」
考え事をしていたせいか少しぼんやりしていたらしい。
怒った顔もやっぱり可愛い。
口に出したらシスコンだといわれるだろうから誰にも言えはしないけど。
楚乃は少しでも目を離せばどこかに行ってしまうんじゃないかってくらい儚く、肌はとても白い、それに今は髪を二つに結っているが髪を下ろしたらそれはもう…
「兄さん!」
楚乃がさらに声を張り上げる。
「分かった、分かったから!…それでなんなんだ?」
楚乃はすごく言いにくそうにもじもじと恥ずかしそうにしながら口を開いた。
「だから、帰りに食材と…あと時間があったらでいいんですが…本を買ってきてもらえませんか?今持ってるものはもう読み終えてしまったので…」
「ああ、いいぞ。それにしても早いな。面白かったか?」
前に楚乃に頼まれて書店に行ったのはほんの一週間前なのに。
「はい、それはもう!兄さんが勧めてくれたものはいつもハズレなしです! なぜか妹ものが多いのは少し気になりますが…面白かったので構いません。本当に兄さんにライトノベルというものを教えていただいたことには感謝しています。今度はバトルものもいいですね! あ、あとこの前の漫画は続きが出るみたいなんです。それに、ラブコメものも欲しいです。…だめ…ですか…?」
楚乃は上目遣いで見上げてくる。こんな顔されたら何も言えない。
「いや、大丈夫だ。しかしやけに多いな…。いつもはネットで注文してるのに。」
欲しい本が書かれたメモには前回の倍以上のタイトルが並んでいる。
「今回の本は全部店舗限定特典がついてるんですよ! こんなのもう二度と手に入らないんですから! だからお願いします、兄さん!」
楚乃は手を胸の前で組み、『お願い』のポーズをとる。
「了解。でもちょっと帰りが遅くなるからな。家に誰か来ても出なくていいからな。」
「はい、ありがとうございます。」
楚乃はニコリと微笑んだ。
学校後に買い物を済ませた後、夕日で染まった路地を歩く。
「さて買い物はこれで全部か…」
俺の両手には夕食の食材に加え、楚乃に頼まれた本の入った袋が抱えられている。
「それにしてもさすがに重いな…」
腕がそろそろしびれてきた。
あまりの重さに思わずため息をつきながら歩みを進める。
荷物の重さに耐えつつ次の角を曲がるとようやく俺の家が見えてきた。
「…ん?」
家の玄関の前に誰かいる…?
だが、インターフォンは押さずにずっと家の中をうかがうようにしている。
明らかに怪しい。
もしかしてふ…不審者!?
しかし、よく見るとどうやら相手は女の子のようだ。
どこかの学校の制服に身を包んでいる。
改めて玄関の前の表札を見る。
『東雲』
やはり合っている。
俺の家だ。
…ってことはやはりこの不審人物は俺の家の来訪者のようだ。
「…おい、俺の家に何か用か?」
「ひゃっ!」
容赦なく近づき後ろから声をかける。
すると、不審者少女はやたら可愛い声を上げて飛び上がった。
「な…何ですかあなたは!不審者ですか!あたしを襲うつもりですか! 叫びますよ! あたし合唱部だから結構大きな声出るんですよ!?」
「いやいやいやいや!!違うって!俺はこの家に住んでるの! それに不審者はお前だ!!俺の家の前で何してんだ!」
本当に叫ばれたらかなわないので慌てて反抗する。
「ここの家の人…?あなた楚乃香さんのなんなんですか?」
制服の不審者は明らかに不審そうな目をする。
「俺は楚乃の兄貴…って、え? 何? お前楚乃のこと知ってんの?」
あいつはこの家に来てから家の外に一歩も出ていない。
俺の知る限り楚乃と現在関わりを持っているのは俺の他に俺の幼馴染である和泉とたまに遊びに来る楚乃のいとこくらいのものである。
だとしたらこいつは…
「…やっぱり不審者か。」
そう結論付ける。
「違いますってば!あたしは清梨柚葉。東雲楚乃香さんのクラスメイトで部活仲間です。…元ですけど…」
元クラスメイトで部活仲間…?
ってことは…
「…お前今更何しに来た…」
怒りが頭に込み上げてくるのが分かる。
…こいつが…楚乃を不登校にさせた…?
「今日は楚乃香さんにお話があってきました。今更だし、虫がいいのは分かっていますが楚乃香さんに会わせてくれませんか?」
「絶対に断る。お前たちのせいでどんなに…」
「じゃあ、お兄さんでもいいんです。あたしの話聞いてください。謝らせてください。あの時のことも現状もすべてお話しします。楚乃香さんと直接会わなくてもいいんです。お願いします。」
そう言って清梨柚葉は深く頭を下げる。
「誰がそんな事許すか!」
「そう…ですよね…。すみません…」
そして清梨柚葉はしゅんとして背を向け、トボトボと歩き出す。
「…楚乃に絶対に会わないって条件なら話くらいは…」
今の楚乃をどうにか助けてやれる糸口が見つかるかもしれないという思いと、何となくしょんぼりとうなだれる様が楚乃の姿と重なって何となく放っておけなかったので気が付くと俺は清梨柚葉にそう声をかけていた。
本当、我ながら年下にはなんて甘いんだ…
「本当ですか! ありがとうございます!」
清梨柚葉は振り返り頬を紅潮させ、笑みを浮かべる。
「いいか!少しだけだからな!?あくまで話しを聞くだけだからな!!」
「分かっています。大丈夫です」
「それと、お前を楚乃に会わせるわけにも行かないから別のとこで話すぞ。」
そう言いながら俺は、そろそろ限界になってきた腕に抱えられた荷物を置くために玄関の扉を開けた。