冷たい血 2
だがただのマナー違反よりも、さらに凄まじいことが起きてしまう。美樹が車を減速させるよりも早く、黒い車の後部座席のガラス窓が開く。そこから二人の黒服の男が姿を見せたのだ。
「何なの? ちょい! 何かやーな予感」
美樹がそう呟く間もなく、続けざま男たちは美樹の車のボンネットに飛び移る。彼らは明らかに美樹を「ターゲット」にしている。その映画さながらの現実離れした展開に、さしもの美樹も慌てふためく。
「待ちっ!」
美樹は反射的にハンドルを切り、本能の赴くままに、彼らを振り落とそうとする。激しく蛇行していく美樹の車。
だが男たちは、手袋をフロントガラスに密着させて車に張りついている。振り落とされる気配すらない。さらに彼らは拳でフロントガラスを殴りつけ始める。ひび割れ、壊れていくガラス。
「ちょっと待ってよ! こんなんで私の人生終わり!? 冗談でしょ!?」
美樹はそう叫びつつも、何か打開策はないかと探る。バッグの中に鋭利なカッターナイフなり、スタンガンなり持ち歩いてなかったか、と。ないとは知りつつも、右手でハンドルを握り、左手でバッグを慌ててたぐり寄せる美樹。窮地に陥りながらも、美樹はどこか覚悟しているようだ。
「終わりかぁ」
だがその時、あの感覚、現実が遠のいていく感覚が美樹を襲う。時の流れがゆるやかになる「あの感覚」。こめかみに激しい痛みも襲い、目眩が美樹を揺さぶる。
美樹の意識は静かに薄れていく。薄れていく意識の中、美樹は男達の胸元の文字を読み取った。そこにはたしかに「AMSOSI」と書かれていた。
……気がつくと美樹は「美術館のアトリエ」のベッドに横たわっていた。体がかすかに気だるい。
美樹はピンチを切り抜けた安心感もあり、そして運ばれたのが、またしても「ジファの世界」だったこともあり、一つ一つ物事を整理していく。彼女は「二度目」ということもあり、妙に冷静だ。
(自分が二つの世界を行き来出来るのはよしとしよう。『パラレルワールド』なり『多世界宇宙』」なり)
しかし美樹を襲った男たちの胸元には「AMSOSI」とあった。
それは二つの世界を行き来出来るのが、美樹だけではないのを示していた。加えて男たちは彼女を襲った。それは美樹が「ジファの世界」の何らかの集団に標的にされている証でもある。
美樹はそう考えると身震いもするが、人生最大の危機を乗り越えた安堵にも満ちている。なにしろこの「ジファの世界」では、超人的な力を持つジファがいるのだ。彼が自分を守ってくれるに違いない。そう他力本願にも考えていた。
美樹は椅子へ静かに腰を下ろす。彼女は辺りを見回すが、肝心のジファはいない。彼女は独り言を零す。
「こんな時に限っていないんだから」
美樹は、ジファを頼りにしていたし、なにしろ彼ならこの「二つの世界」の謎、あるいは「美樹の世界」にAMSOSIが襲ってきた理由を繙けるかもしれないと考えていたのだ。
「おーい、ジファ」
美樹は、若干間延びした声で、呼びかけてみるが返事もない。
「いない」
美樹はそう口にすると、心を落ち着かせてコーヒーを煎れる。沸騰するお湯をぼんやりと眺めて、リラックスしてきた彼女はふと思い出した。
それはジファが首筋に貼ってくれたシールのことだ。
もしシールがジファのいう通りに働いてくれるのなら、美樹にはジファがどこで何をしているかが分かるはずだ。
そう考えると美樹は、瞳を閉じて気持ちを穏やかにする。するとうっすらと、ある光景が彼女の心に浮かぶ。
それはジファの目線、視線を通した光景のようだった。