冷たい血 1
美樹はもとの世界に戻った翌日には、早速、俊樹、同じファンタジー小説家である風氏俊樹の自宅を訪れていた。彼に「ジファの世界」へ運ばれた「あの出来事」について相談するためだ。
相談相手としてなぜ俊樹なのか。それは俊樹が科学からオカルト、果ては超常現象まで幅広い知識の持ち主だったからだ。風変りな男性だが、美樹は俊樹を深く信頼していた。
「俊樹君なら、何かヒントくらいくれるかも」
美樹が、気軽な気持ちでインターホンを鳴らすと、俊樹は快く出迎える。いつもの夢見がちな空想家という雰囲気は相変わらずだ。飄々とした俊樹の胸に抱かれているのはシャム猫のようだ。
「あっ、いらっしゃい。美樹さん」
少し思い悩んでもいる様子の美樹を、俊樹は朗らかな調子でリビングへ連れていく。俊樹は、美樹が思い詰めるのを和らげるようでもある。彼は猫を床におろすとキッチンへと向かう。猫は軽やかな足取りで部屋の奥へと立ち去り、俊樹は振り返りざま美樹にこう訊いた。
「何か飲みます? ダージリンティーなんてどうです?」
「じゃ、よろしく」
「それでは、そこへお掛けになってください」
俊樹に促されて美樹はソファに腰掛ける。ほどよい俊樹の気配りが美樹には心地よい。美樹が見渡す俊樹の部屋は、亜熱帯植物でインテリアされていて、彼の特殊な趣味嗜好が反映されている。
「『変わり者』、ね」
そう呟いてクスリと笑う美樹が、鳥籠の中のオウムと「こんにちは」「コンニチハ」と挨拶をしあっていると、ティーセットを持った俊樹がリビングへ戻ってくる。
「お待たせしました。話をお聞きしますよ」
何か独特のマイペース。俊樹のペース、テンポに合わせるように、美樹はソファに今一度座り直し、すぐにも彼に自分が経験した一部始終を話して聞かせる。
話を聞いた俊樹は特段奇妙に思う様子もない。彼にとっては「どんなことも」全てあり得ることなのだろう。彼は顎元に手をあてがい、しばらく考え込んで、閃いたように明るい笑顔を見せる。
「これは一つの推理です。美樹さん、『パラレルワールド』というのをご存じですか?」
「パラレルワールド」。それは美樹も知っている。彼女は思い当たるように頷く。
「知ってる。現実と少しずつ違いのある別世界」
俊樹は美樹の受け答えに満足すると、左人差し指を、顔の前で左右に揺り動かして、自分の考えを推し進める。
「科学の世界で言えば『多世界宇宙』という考え方もあります。この際同義に考えてみましょう」
「『多世界宇宙』」
美樹が聞き慣れない言葉をオウム返しすると、俊樹は左手を軽くあげて答える。
「ええ、そうです。少しずつ形を変えた宇宙。言わば『別世界』が無限に存在する。そんな考え方です」
「じゃあ、私がその『別世界』の一つに紛れ込んだとでも?」
美樹は、突然には信じられずに俊樹に訊いた。俊樹は、美樹に推理を促すのを楽しんでいるようにも見える。
「可能性の一つとして考えてみても、いいかもしれません」
美樹はしばらく黙り込む。多世界宇宙、パラレルワールド。どちらも面白い考えだが、うのみにするには早すぎる。とりあえずは、自分なりに「あの出来事」を整理しようとして、美樹は席を立つ。俊樹のお蔭で、多少なりともリラックス出来た美樹は彼に礼をする。
「私も調べてみるわ。『多世界宇宙』や『パラレルワールド』について。俊樹君。ありがとう」
「いいえ。僕でよければいつでも力になりますよ」
俊樹はフラットに応えた。彼はどんな時も彼女を歓迎するという様子だ。いつでもウェルカムな男らしい。俊樹という男は。
少しだけ、自分のまき込まれた、「不思議な体験」を繙く鍵を手に入れた美樹は、俊樹の自宅をあとにする。彼女は、俊樹の話を思い返しながらも、愛車に乗り込み、自分のマンションへと向かう。
「多世界宇宙」。美樹は俊樹の話を思い出す。馴染みのない、奇妙な考え方だが、好奇心の強い彼女にはとても興味が湧く考え方でもあった。
彼女はポツリと呟く。
「『多世界宇宙』かぁ」
だが今は「多世界宇宙」というキーワードを手に入れたばかり。ぼんやりと、彼女なりに「あの」不可思議な経験の謎解きを、美樹はするしかない。すると突然彼女の愛車の前に黒い車が車線を変えてくる。美樹は思わず眉をしかめる。
「うわっ! スゴイマナー違反」