ファントム 5
ローズは、美樹の不思議な力に首を傾げるが、些細なことにこだわる女性ではないようだ。彼女は立ち上がると、美樹とジファ、二人を連れて先の階段をのぼっていく。
自作寓話と「ジファの世界」の、ただの偶然とは思えない一致。その事実を前にして、少し怖くなった美樹は、ジファの手に軽く触れて呼びかける。
「ジファ。これって一体?」
ジファは笑みを浮かべて、すげなく返すだけだ。
「今はまだ考えなくていい。それに、考えて答えが出るようなものでもないだろう?」
「それは、そうだけど」
美樹は、自分の疑問が未解決のまま、ことが進んでいくのが不満だったが、ここは仕方がない。「ジファの世界」に適応するのが先だと考えたのか、気持ちを切り替えた。
なにしろ自分は「レジスタンス」として、「ジファの世界」の政府に登録されたらしいのだ。美樹はそう考えると、自分の身を守る姿勢と、ジファのモノの見かたに馴染もうとする。
やがてローズら三人が二階に着くと、ローズは少し目を伏せて、厄介な男に会ったという仕草を見せる。美樹が、ジファの背中越しにひょいと見ると、ローズの目の前には一人の紺色の服の男が立っている。ジファもその男とは顔馴染みのようだ。
男はジファに目をつけると歩み寄る。男は、高貴と下賤を、激しく行き来する目の動きをさかんに見せて、ジファを品定めするかのように語りかける。
「ジファ。レジスタンスに加わらずに潜伏先をもらおうなんて都合が良すぎやしないか」
男の左目には傷が入り、片眼鏡がはめられている。その様相は、男が幾度も危険な目に遭い、なおかつ潜り抜けた証のようにも見える。男は狡猾な印象だ。それでいて明晰な、ある種の気品がある。
「お前が一人で動くなら、俺はAMSOSIにお前を売り渡すかもしれない」
突然の男の警告にもジファは冷静だ。ジファは男の狙いが分かったのか、彼に真意を促す。
「ギャド。要求は?」
「現金で一千万クーロン。出せない額じゃない」
ギャドと呼ばれた男はそう答えた。「クーロン」は「ジファの世界」での通貨単位らしい。
美樹は、一千万クーロンが相当な高額であるのが朧げに分かる程度だったが、額を要求されたジファが落ち着いているのを見て、深く危ぶむこともなかった。すると、ジファと男の話を聞いていたローズが、二人の話に割って入る。
「ギャド、これは情報屋のあなたが口を出す問題じゃないわ」
ジファをかばうはずだったローズ。だがそのローズを押し退けて、ジファは一歩、足を前に踏み出す。ジファは用事を手早く済ませたいようだ。ジファの目線はギャドに向けられている。
「一千万でいいのか」
「ああ」
ギャドが満足げに目を細めると、ジファは胸元のポケットに手を入れる。
「今、クレジットチップを渡す。俺の口座から引き落とすといい」
「クレジットチップ」はクレジットカードを小型チップに置き換えたものだろうか。ジファはガラスケースに仕舞われたチップを取り出す。それは見たギャドは笑みを浮かべる。
「賢くなったな。ジファ」
ジファは満足しているギャドに歩み寄る。だが次の瞬間、ジファは小さな針をギャドの首筋に刺した。ほんの一瞬のギャドの隙をついて。
ギャドは思わず後ずさりする。彼は手足が震えてろれつが回らない。
「な、何だ!?」
ジファはこともなげに言ってのける。
「脳のとある部位を麻痺させる液体だ。一ヶ月から一カ月半ぐらい喋れなくなるだろう」
ギャドは足元をふらつかせると、膝から崩れ落ちる。彼は悔しげにうめく。
「おま……、え!」
ギャドはそう言うと倒れ込んだ。「酒場」のスタッフが、すみやかにギャドを介抱して、彼の体を運んでいく。
一人の人間が大きな障害に見舞われたというのに、「スタッフ」はトラブルをトラブルとも思っていないようだ。「酒場」。つまりは、ここはそういう場所なのだ。
美樹は少し不安になって、ジファの服の裾を掴む。
「ジファ?」
ジファは意にも介していない。こともなげに答えるだけだ。
「何も問題はない。よくあることだよ。美樹」
ジファのその返答で、美樹はこの「酒場」が、そして「時計塔の地下街」が無法と隣り合わせの危険な区域であるのを感じ取る。さらにもう一つ。ジファが美徳と悪徳の狭間にいる青年であることも。
ジファとギャドのやり取り、一部始終を見届けたローズは、一度だけ残念そうに首を横に振ると、それは彼女の同情心でもあったらしいが、あとは平然として、ジファと美樹を通路の奥へと連れていく。
美樹は、二人に尋ねたいことが山とあったが、何を尋ねていいものか、まとまらなかったので、とりあえず口をつぐんだ。
「仕方ないや」