独裁の終わり
国会議事堂。宰相の執務室へと向かうエレベーターの中。アノマはエレベーターの澄みきったガラス窓を見つめる。ガラス窓に映るのは、髪の毛を綺麗に整えた彼女自身の姿だ。
アノマは、特有の色気さえ漂う、黒い髪に目を送り、思い返す。それは学生の頃、彼女のパートナー、恋人だった男の言葉だ。
「君の黒い髪は本当に綺麗だ」
そう口にして、彼はアノマの容姿を好んだ。だが、当時からレジスタンスと戦う気持ちでいたアノマには、そんな褒め言葉などどうでもよかった。彼女に必要なのは政治手腕であり、権力であり、一人の女性としての美しさではなかった。
そして今や、第二執政官という権力を手に入れたアノマは、その政治手腕を試されようとしていた。だがレジスタンス打倒ではなく、宰相ノルガバの政治を幕引きすることで。
「私の権力が、このような形で使われるのは不本意だが、それはそれでいい。真実に抗うつもりも私にはない」
きっぱりと言い切るアノマは、一人の科学者の名前を思い浮かべる。
トシキ・カザウジ。A級不穏分子の科学者。もとは科学技術協会にいて、アノマが院生だった頃のちょっとした恩師でもある。そのトシキから、アノマにコンタクトがあったのは一週間前。訊けば、彼はリメ・アルフォのDNA解析を覆したという。
政府に敵対している人間からの、にわかには信じがたい情報。だが、どんな可能性をも視野に入れるのがアノマの美点だ。アノマは密かに、DNA解析の専門家たちへ、トシキの「反証」を調べるように頼んでいた。
そして、その「反証」が、「正しい」とアノマに伝えられたのは二日前のことだ。ノルガバが誤った理論を利用して、戦争を続けている。この事実に気づいたアノマは、それでやるべきことが決まる。
ノルガバの執務室へと歩いていくアノマの心は、静けさで満ちている。これから一人の権力者が、その座を転落しようというのに、物々しい気配、動きは何もない。アノマはその時、「革命」とは意外と物静かで淡々としたものかもしれないと思っていた。
「本当に、静かだ」
アノマが執務室に着くと、ともにいた彼女の部下、武闘派の女性特務機関員である、レオナ・ドゥーノが彼女に耳打ちをする。
「軍部とAMSOSIが手を組む恐れがあります。宰相失脚後も安心は出来ません。それをお忘れなく」
アノマは迷いなく返事をする。
「未来は常に予想出来ない。シミュレーションは一つの仕事を終えてからにしなさい」
ドゥーノは、この指揮官、無駄をなるべく切り捨てるタイプの、強い女性、アノマを前にして、軽く頭を下げると言葉を慎む。
それと交差するように、執務室の扉の前に立つアノマたちへ、室内から声が届く。冷たく、厳かな声。それはノルガバのものだ。彼は、異常事態を知ってなお平静だ。
「アノマ。今日は空母建設の視察が、君の仕事だったはずだ」
ノルガバの声、何度も信じ、支えてきた人物の、穏やかな声を聞いて、アノマは一瞬顔を伏せるが応える。彼女の感情は最大限抑えられている。
「宰相に大切な用があって参りました。最優先事項であり、時を争います」
するとアノマの言葉に呼応するように、執務室の扉がスライドして開く。アノマたちが足を踏み入れた執務室には、ノルガバがいた。彼は、静かに両指を組み合わせて、椅子に座っている。まるで彼は、自身の政治生命の終わりを予感しているかのようだ。
ノルガバは大らかな口振りだ。
「アノマ。君のいう『大切な用』について聞こうか。察するに軍部のクーデターか、もしくは君の背任だろう」
アノマは、首を軽く縦に振る。
「宰相。その通りです。リメ・アルフォのDNA解析が『偽り』だと分かりました」
まっすぐに答えるアノマの言葉を、ノルガバは表情を崩さずに聞いている。アノマの背筋は美しく伸びたままだ。その彼女をフォローするように、ドゥーノら同席した側近たちが並び立つ。静かに椅子に腰を降ろすノルガバと、彼を包囲するかつての部下たち。
それはノルガバの最後を表わしていた。アノマはノルガバへ「真実」を伝える。
「ラムダとオメガの遺伝的不一致は極僅か。彼らは近しい関係を持った同種族です。よって、あなたの優生学は土台から崩れ落ちることになります」
ノルガバは、アノマの責めるような言葉にも動揺がない。
「誰の見解かね」
「A級不穏分子、トシキ・カザウジが五年に渡り調べた結果です」
ノルガバはすぐに、アノマとトシキの関係を思い出したようだ。ノルガバは、最後の最後で線がつながり、自らの政治生命が幕引きされることに、感慨深いものを抱いているようだ。彼の表情は満足さえしている。アノマは、ノルガバを見据えて話を締めくくる。
「戦争をする理由は無くなりました。あなたの考えは、最早支持されないでしょう」
ノルガバは、組み合わせた指を解くと、謎を繙くように、自身の思想を口にする。それは、アノマにとっては、背筋を冷たいナイフでなぞられるような不穏な考えだった。ノルガバは披露する。
「リメ・アルフォのDNA解析に『嘘』があること。私はそれを知っていた。彼の解析は私の真意を覆うヴェールでしかなかった」
ノルガバは一瞬だけ瞳を閉じる。それは瞑想にも似ている。
「私は民族を一つに統一したかった。そして、我が民族がいかなる時にも団結出来るという、理想像を示したかっただけなんだよ」
民族を一つに、という理想像。限りなくシンプルである思想をノルガバは滑らかに告げて、独白する。
「戦争も、ジェノサイドもその手段の一つに過ぎなかった。全ては一つに統一された民族の夢のため。私は自分が正しかったと信じている。歴史が、私の真偽を明らかにするだろう」
ノルガバの確信は揺るぎない。彼は、自分の理想が至上のものだと思っているようだ。ノルガバは両掌を広げて口にする。
「もう終わりにしよう。新時代で人々が見るのは、カオスか。それともコスモか。楽しみにしているよ」
彼は口元を綻ばせて、死を覚悟したように話を締める。
「その時私は、悠遠なる響き。愛する『アデューシャ』に耳を傾けていることだろう」
「アデューシャ」。その民族愛を謳う音楽を、最後まで愛し通したノルガバに、アノマは言葉を失う。彼が、失脚を迎えてなお、アデューシャを引き合いに出したのは、彼の思想の象徴でもあるようだ。
アノマはドゥーノら側近に指示を出す。
「宰相ノルガバを拘束しろ。彼は国政の舵取りを誤った。国の指揮は一時的に私が預かる。以上だ」
ノルガバは静かに椅子から立ち上がると、アノマに語りかける。
「アノマ。なぜ大衆の一部が、私の思想に同意したと思う。君も自由な意思がありながら私に従った」
二人は視線さえ合わさずに隣り合う。すれ違う二人の横顔は美しい。アノマは淡々と返す。
「人工生命体による『大衆操作』が成功したのでしょうか」
彼女の返事に、ノルガバは頷く。
「そう。正解だ。だが、君の答えには一つだけ足りない点がある。それは、私自身の脳にも、AIを埋め込んでいたことだよ。人心操作のための。だから私は君でさえも動かすことが出来たんだ」
アノマはその事実に心が震える。彼は、ジファと同様、自らの体に「改変」を加えてなお、意思を貫こうとしたのだ。アノマはノルガバを見据える。ノルガバは卑下する様子は少しもない。彼は最後、詩的な言葉で話を終える。
「聖者でさえ時に流血を好む。賢者の夢は儚くも消えていく。さぁ。行こうか」
アノマは、振り向いてノルガバに尋ねる。
「聖者と賢者とはあなた自身のことですか?」
ノルガバは微笑むだけでアノマの質問には答えない。彼は自ら進んで拘束を望むと、執務室から立ち去っていく。
部屋には、ノルガバの思想の不気味な余韻だけが残った。半ば呆然とするアノマ。その時、彼女が胸元に仕舞った通信機へ、不意に連絡が入る。
それは、空母建設のリーダー、若く有能なイノ・ゲラからだった。空母の開発室にいる、彼の姿が映し出される。イノ・ゲラは少し畏まる。
「第二執政官、予定より30分、業務が遅れています。執政官の到着を、スタッフ一同待ちわびております」
アノマは、イノ・ゲラの姿を目に留めると、リメ・アルフォのDNA解析の嘘、そして宰相ノルガバの失脚を彼へ伝える。
だがイノ・ゲラは思いのほか淡々としている。
「分かりました。私、イノ・ゲラは第二執政官アノマ・カロメを支持いたします」
明快でいて、賢い。そのイノ・ゲラの支持を受けて、自然とアノマの口元が緩む。だが、イノ・ゲラは大切なことは忘れていないようだ。一つ一つ確かめるように、彼女へ尋ねる。
「執政官、戦争は速やかに終わりますか?」
「軍とAMSOSIの抵抗が予想される」
「抑えられる?」
「出来る。私なら」
「分かりました」
そう小さく頷いたイノ・ゲラ。アノマがふと見ると、彼の瞳は少し物憂げだ。アノマは彼へ伝える。
「イノ・ゲラ。無理に私を支持する必要はない。君は自由なのだから」
すると一転、イノ・ゲラは明るい表情を見せる。彼の口をついて出たのは、母船開発のリーダーとしての自覚から来ていた。
「いえ、開発にはたくさんの人間の、時間とアイデアが注がれています。それが全て無駄になるかと思うと」
「そうか」
アノマが一言だけ返すと、イノ・ゲラは独り言のように切り出す。
「それにしても」
イノ・ゲラは、余りにスピーディな政変に、やはり思うところがあったのか、思索に耽るように口にする。
「結局、私たちは新しい船を造っただけ。潤ったのは軍需産業。残るのは悲しい死者の数。……無情です」
そこには技術者イノ・ゲラのもう一つの顔。戦地に散っていた仲間を思いやる一市民としての顔があった。彼は、答えを導き出すように呟く。
「人の歴史とはつまり……」
それきりイノ・ゲラは黙ってしまった。アノマが、イノ・ゲラを励まそうと、彼に声を掛けようとすると、同時に彼も口を開く。
「あの……!」
「イノ・ゲラ……!」
声が重なり、二人は譲り合う。アノマは優しくイノ・ゲラに勧める。
「イノ・ゲラ。何?」
イノ・ゲラは躊躇わずに素朴な感想を口にする。
「執政官、今日は一段とお綺麗ですね。こう、何かが吹っ切れたような。……いえ、ふと思っただけです。失礼しました。部下の戯れ言。お気になさらぬように」
アノマは、言葉を慎むイノ・ゲラが無性に愛おしくも見える。その褒め言葉は、一つの仕事を成し終えた彼女の胸に、何か迫るものがあった。アノマは思う。
(『綺麗』か。別に不愉快ではない。いいことではないか)
少し機嫌が良さそうに、目を細めるアノマを見て、イノ・ゲラはやや慌てた様子で通信を終える。ドゥーノらもあとにし、アノマは、一人残された執務室の窓から見える都市の景観を眺める。
そこには、雪……。季節外れの雪が舞い落ちている。
それは、彼女の両親が暗殺されたあの日にも似た光景。ポツポツと舞い落ちる雪の「温もり」が、アノマの胸の奥に燻る炎を消していく。
白く首都を染めていく雪景色に、彼女は長く感じなかった「美しさ」を見出していた。消えていく炎の名残とともに、彼女はただただ、その雪模様にひたすら見とれていた。




