15話 猛牛撤退戦
「が‥‥‥ああ!?」
思い切り叩き飛ばされ、背中に大きな衝撃が走り抜ける。
肺を強打でもしたのか、空気があまり入ってこない。空気を確保しようと必死に喘ぎ、ようやく目の前の状況が見えてくる。
目の前に君臨するのは暗い色の皮膚を持った怪物だった。
口から漏れ出る荒い息。それはどう考えても人間から発せられるものではない。
その頭はヤギのような形をしており、そこからは仰々しいほどの、悪魔を表すかのような角が見える。
手には自らの体の半分にすら匹敵するほどのこん棒が握られており、シュウはそれで殴られたのかと今更ながらに理解する。
「うそ、だろ‥‥‥?」
その全貌が明らかになり、シュウは知らずに驚愕の声を上げる。
ミノタウロス。または猛牛。
架空のお話などでしか存在しないと思っていたその悪魔は、シュウを見つめ、獰猛に嗤う。
「最悪、ね」
ぽつりと、シュウの傍から声が聞こえる。
ミルだ。しかし、その顔からはさらに血の気が引いており、痛みに歪んでいる。
「まさか、ミノ、タウロスに、出会うなんてね‥‥‥」
息も絶え絶えに呟き、自らの懐から二丁の銃を取り出し、立ち上がろうと足に力を入れる。
シュウには最初、その意図を図り切れなかった。しかし、彼女の顔に浮かぶ覚悟を目の当たりにし、徐々に理解が及んでいく。
「ちょ‥‥‥っと、待て。ミル、お前──」
そして、ミルが何を覚悟しているのかを知ったシュウは、しようとしていることを口に出そうとするが、ミルの剣幕に圧倒され、二の句が継げなくなる。
「しょうが、ないでしょ。今、優先すべきなのは、この脅威を、伝えること。だから、シュウ。その役目を、果たして」
ミルはおそらく一瞬で悟ったのだろう。二人ではここから逃げ出すことは出来ないと。最悪の結末はここで二人がやられ、その脅威を知る由もないシルヴィアや、村の人達はミノタウロスに駆逐されてしまうこと。
だからこそ、誰かが生き残り、このことを伝えることが必要だ。
ミルは既に足を怪我しており、満足に動くことすら出来ない。ゆえに、自分がここに残る判断を下したのだろう。
それは賢明な判断で、この場での正しい選択だ。
ただ、シュウには認められなかった。
この考えは、もしかしたらこの世界では甘くて、それが命取りになるかもしれない。
でも、悪いことだろうか。誰も、死んでほしくはないと思うのは。
間違っているのだろうか。シュウのこの考えは叶うはずのない理想で、それを夢見ることが間違っているのか。
──否だ。だって、この理想は誰だって思い描いてることで。だけど、それを実行できるものはほんの一握りだ。
本当の力を振るい、すべてを絶望から救ってしまうまさに『英雄』だけが叶えられるものだ。
シュウは、決して物語に出てくるような英雄ではない。何の力もないただ非力な人間。
だから、諦めるのか。全部が解決される道を放棄するのか。
違うはずだ。諦めていいはずがない。
その道は、賢者と同じで。そして、ササキシュウが持っているたった一つだけの才能を否定することになる。
シュウは歯ぎしりをし、ミルから二丁の銃を奪い取る。
「な‥‥‥にを?」
「ああ、さっきの案。却下な」
震える足を叱咤しミルの前、庇うように立ちはだかる。
「なら‥‥‥ここで、死ぬつもり? それこそ最悪の結果よ」
シュウはそれを首を振って、否定する。
「そんなわけないだろ、死ぬ? そんなの無理に決まってんだろ!」
死ぬほどの痛みを受けて、今と同じ言葉を言えるような自信はまったくない。結局、その程度の人間なのは今回の事で痛いほど自覚している。
「痛いのに慣れてないし、そのことを考えると震えあがって、動けなくなりそうだ。でも、それはお前も同じだろ?」
「それが‥‥‥何?」
「お前だって痛いのは苦しいだろうし、死ぬのだって怖いはずだ。だけど、そんな恐怖を押し殺して、何もかも諦めた風に俺に託すなよ! お前が! 自分で伝えろ」
いきなり怒り出すシュウに、訳が分からないといった顔をしているが、そんなものを気にせずシュウは続ける。
「な、にを‥‥‥」
「まだ諦めていいとこじゃないはずだ。だって、俺もお前も死ぬのが怖いんだから。なら、最後まで足掻こうぜ」
シュウに与えられたたった一つの才能──それは、諦めることのできない性分だ。
理想を守るのは、英雄にしかできない。
──確かに、そうかもしれない。でも、そうやって諦めたら何も変わらない。
だから、どんなに辛くても前を向いてやる。それが、この世界に来てからのシュウを支えている気持ちの一つでもあった。
「何もかも、全部救ってやるよ。俺の手で! もう、誰かが死んで、悲しむのは見たくねえんだ!!」
何も出来ない少年は、この世界の事を何も知らない子供は、何かに挑むように叫ぶ。
「────。シュウ。私は、どうすれば?」
「逃げてくれ。そして、このことを、シルヴィアに。俺一人でどうにかなる問題じゃないからな」
シュウのその提案に、呆れたようにため息をつき。
「結局、シルヴィア様に頼るのね。さっきまでの威勢のよさはいったいどこへ行ったのやら?」
「本当にやめてくださいお願いしますもう掘り返さないでください。ああ‥‥‥くそ、すっげえ恥ずかしいこと言ったような気がするわ‥‥‥」
まるで死の境地に立っているとは思えないほどの、緊張感のなさ。だが、それでいい。
「安心して。さっきの言葉、一字一句正確にシルヴィア様に伝えておくわ」
「やめろって言ってるだろうが────!」
そうして、猛牛撤退戦は幕を開けた。
目の前で、まるで茶番を楽しむように顔を愉快に歪めて嗤っていたミノタウロスの前に、一人の少年が立ちはだかる。
「さあ、来いよ。化け物。てめえの相手は俺だ」
後ろにはミルが控えており、いつでもいけるように待機してもらっている。
相対して数秒。だが、相手は動く気配はまったく感じられない。
ゆえに、こちらから仕掛けさせてもらう。
「ミル──!」
シュウの叫びにミルは顎を引いてこの部屋の出入り口───ひとつしかないそこを見定めて、走り始める。
普段の彼女ならば、わずか一瞬でそこにたどり着ける。だが、彼女の状態は万全ではない。足は折れていて、先ほどの防御で腕を痛めている。
「──────っ」
緩慢な動きのミルにミノタウロスは狙いを定め、こん棒を振り上げる。
「させるかよ!」
その前に、シュウがミノタウロスの胴体に向けて銃の一撃を与える。それにより、胴体が揺れ、ミルに当たるはずだったこん棒は彼女の体を掠め、横へ逸れていく。
こん棒を振り回した結果、ミノタウロスの脇、そこに隙が出来る。金髪の髪を揺らしながら、そこを通り抜け、出入り口へと到達。
ミルは一瞬だけこちらを何か言いたげに見たが、すぐさま前を向き、闇へと消えていく。
当初の計画通り、おそらくは二つある道のうち、右へと向かったはずだ。ならば、シュウにすることはたった一つ。
ミノタウロスをミルが行った方向と逆の方に誘導しなくてはならない。そのために必要なのは、シュウが囮になることだ。
「こっちだ! 腐れ牛野郎!!」
シュウはミノタウロスに向けて、罵声を浴びせる。
これには相応の理由がある。以前、シルヴィアに魔獣の話を聞いたとき、彼女はこう言っていた。
彼らには高い知恵と、理解力がある、と。
シュウもそれについては王都で辛酸を舐めさせられた覚えがある。一見、知能がなさそうに見える彼らでさえ、シュウをいとも簡単に追い詰める策を講じることが出来る。
ミノタウロスならば、魔獣の中でも上位に位置する悪魔ならどうなのだろう。シュウの推測が正しければ、きっとこの意味は伝わるはずで。
「ウオオオオオオオオオオォォォォ!!!!!」
ミノタウロスはシュウの言葉の意味、相手に向けての侮蔑、嘲り、それらを理解し、狂ったように憤激の雄たけびを上げる。
この時点で、シュウの目的は果たした。
ミノタウロスを激昂させ、周りを見えなくすること。これで負傷したミルを追うことはしない。今、怒りに震える猛牛の目に映っているのはシュウだけだ。
そして、シュウめがけて。ミノタウロスのこん棒が振るわれる。
ただし、それはシルヴィアのように研鑽を重ね、精錬されたものに比べて、幼稚だ。しかし、そこからはあり得ないほどの破壊力が生じている。
「く、そがあああ!!!」
自棄に叫びながら、ミノタウロスの脇に向かって横っ飛び。それにより、シュウを狙っていたこん棒はシュウの肩を少しだけ掠めて、無人の壁へと激突する。
それを見届け、シュウ自身も出入り口へ向かう。
しかし、猛牛は怒り狂った反動か、すぐさまそれを抜き、出入り口に向かってこん棒を振るう。
それだけで。
「な────嘘だろ!?」
世界最高級の固さを誇るアダマン鉱石で作られた壁、それをいとも容易く壊す。
そのあまりの馬鹿力に、シュウは驚愕し──左の道へと駆け込んでいく。
ミノタウロスもそれに倣い、左の道へ。
ちょうど天井はミノタウロスの身長ギリギリに設定されており、通れないことを期待していたシュウに若干の失望を与える。
だが、いつまでも気落ちしている暇はないので前を向いて、うろ覚えの道を辿っていく。
追いかける猛牛は、壁にぶつかることも厭わないような姿勢ですべてを巻き込みながら、シュウを殺すために走ってくる。
「いやいやいや! まじか、あの図体でとんでもねえ速さだな!!」
試しに何度か銃を向けて、撃ってみたのだがびくともしない。
後ろを見れば、ものすごい形相でシュウとの距離を詰めてくる。たとえ、何にぶつかろうとも速度を緩めようとはしないだろう。
やがて、シュウの速度が落ちてきたのか。それとも、ミノタウロスの執念が届いたのか。その差がわずか数歩分になる。
その距離はシュウにとって絶望的なものであり、憤激の猛牛にとっては最大のチャンスだ。
ここぞとばかりにこん棒を下から這い上がるように振るう。
シュウはそれを察知して、死ぬ気で速度を速める。それが幸いしたのか見事空を切り──そして、その上、天井に当たり、簡単に崩し、アダマンの重みが降り注ぐ。
「う、おおおおおお!!?」
それも前にこけるように前転して、最悪の結果を免れる。
しかし、すべてがうまく行ったわけでなく。
「ぐっ‥‥‥腕が‥‥‥」
先ほどの攻防の中で腕が犠牲になり、脳にやきつくような痛みが走り抜ける。
既に足は限界。腕も片方が犠牲になり、まさに絶体絶命の窮地に立たされる。
そこでようやく。シュウのもう一つの目的地に到達する。
川。先ほどミルと捜索していた時に見つけた激流の川である。
まさに賭けだ。正直、これにかからなかったら、お手上げでしかない。ここまで最も頼ることが不安な運にシュウの命運を預けることになる。
あと数歩で川に落ちようとしたところで、急速にUターン。横の岩へと回避する。
いきなりの方向転換に、しかし急には止まれないミノタウロスは勢いを失わぬまま、川へと放り出される。
「ウグオオオオオオオオォォォォ!!!」
咆哮だけがその場に留まり、シュウの耳を強く打つ。
「終わった、のか‥‥‥?」
感情のままに思い立った言葉を口に出し──はっとする。
今のはフラグになる────!
しかし、時すでに遅し。
フラグが回収され、下からミノタウロスの咆哮が木霊する。
今の猛牛は、岩場になんとかして捕まっている状況だ。少しでも、バランスが崩れれば、そのまま真っ逆さまに川へと落ちる。
だから。
「ここで終わりだよ‥‥‥追いかけっこはな」
シュウはそれだけ呟き、銃口をミノタウロスへ、怒れる猛牛へと向ける。
確かに、この威力では致命的な一撃は入らない。だが、バランスぐらいは崩せるはずだ。
直後、耳を劈くような銃声とともに、ミノタウロスは落ちていく。
こうして、ミノタウロスとの戦いは一旦幕を閉じる。




