63話 振り出しに
歯車が、真っ二つに割れその意味を失っていく。時はもう巻き戻せない。権能は、今失われた。
「どういう、ことだ……?」
『暴食』の声に、最早誰かを嘲笑う含みは、もうなかった。優位だったはずなのに、もうその優位性など、何もない。
作戦が、ようやく実を結んだ。
「『英雄』……お前、さっき……いや、そういうことかよ」
「ようやく分かっていただけたようで何よりだよ」
呆然とした表情でシルヴィアを見つめる『暴食』は、しかしすぐさま全てを悟ったのか舌打ちする。
──そう、全ては作戦だった。この化け物に無策で挑むのは危ない、と言うことでかねてから考えてはいたのだが、そもそもどうやって無力化するか、という点について天才的なひらめきがあったのだ。
油断。言い換えれば隙。
『暴食』の感情を利用した、作戦はどうやら全てが上手くいった。
「そうかよ……最初の、『英雄』は。人形……それも魔法で出来たやつだったわけか」
「正解だ」
最初の『暴食』に全く歯が立たなかったシルヴィアは、レイが魔法で作り上げた人形だ。適当に土で作り、色を染めただけの人形。よって、手応えがないのは当然なのだ。
では、どのように動かしていたか。
答えは簡単だ。──レイが、同時に三つの魔法を行使できるから。シルヴィアの人形を維持するのに魔法一つ、動かすのに二つ。よって人形が表で動いている時はレイは一つの魔法しか使えなかった。
だが、人形が吹き飛ばされ、草むらに隠れている時は動かす必要性がないので二つ。最後の三つは人形を捨てての攻勢だったため、姿を現さなかったのだ。
「──最初から、嵌めてたってか」
「ああ。お前なら、必ず引っかかってくれると思ってた。そして、思い通りに動いてくれたな」
「へぇ、ちったぁ頭働かせた、か」
一本取られた、愉快そうに表情を歪める『暴食』。だが、その態度にシュウは少しだけ疑問を抱かざるを得なかった。
なにせ、『暴食』の一つの権能を削がれたのだ。なのに、なぜこうまでして笑っていられるのか。
「ただ、少し勘違いがあったな。確かに、俺の権能はくそみてぇな歯車が一つの要因ではある。けどまぁ、これブラフなんだ。──どでかい操作はできなくなった。ただ、それだけだ」
「つまり」
「少量……数秒程度なら問題ねぇんだな、これが」
思わぬ『暴食』の権能に、歯噛みするが……それでも、初期の圧倒的な絶望はもう感じない。実力差は、数の差で埋める。少量、数秒程度であれば連携で埋められるはずだ。
「じゃぁ、振出しだな。かかって来いよ、人の英雄ども」
振出し──その掛け声と共に、離脱していたガイウスとウィルヘルムの二人が一斉に駆け出す。ウィルヘルムは剣を下に構え、ガイウスは上段に。互いに互いの軌道を邪魔しないような斬撃が、『暴食』の喉元に食らいつく。
「バレバレ。避けんの簡単すぎて欠伸が出ちまうぜ」
回避。僅か数ミリの範囲での回避──ウィルヘルムとガイウスの重奏に、しかし『暴食』は鼻歌でも歌うかのような余裕でもって躱し続ける。
「じゃあ、これはどう?」
「いいや、問題ないね」
──そこに飛び込むのはシルヴィアだ。ダンテ直伝の剣技でもって、ウィルヘルムガイウス両名でも及ばない一撃を埋めていく。
さしもの『暴食』もシルヴィアの攻撃だけは避けられないのか、腰から即座に抜いた剣でもって対応。
異様な光景、とでも言えばいいか。国を代表する者達が三人、それでもなお傷すらもつけられないなどなんの悪夢か。
「っと、それより……」
『暴食』は暫くあの三人にかかりきりになるだろう。その間、シュウは出来ることをしておかなければなるまい。
「レイ! 大丈夫か!?」
『暴食』によって地面に叩きつけられ、起き上がることすらもしないレイに駆け寄っていく。シュウの声に、微小ながらも指が動いたのでまだ意識はあるらしい。いや、一概によかったとは言えない。意識を手放せば、痛みとおさらばできる。だが、中途半端に意識を覚醒し続ければ、痛みが意識を焦がし続けているはずだ。
現に今、レイは喋ることすらもできていない。
「くそ、こういうときどうすりゃ……」
残念ながらシュウには応急処置の仕方も分からなかった。そういう事が必要ない世界に居たから、と言うのもあるが、ミル辺りにでも聞いておけばよかったと後悔する。
とはいえ、折れているであろう箇所がお腹の辺りである以上、シュウにできることは少ないが。
「……シュウ、戦いは」
「ひとまず、作戦は成功だ。あとは、実力差をどう埋めるかの段階に来てる。今は、こっちに来ないだろうけど……立てるか? ここから移動したほうがいい」
「ちょっと、無理かも」
口を噛んで不甲斐なさを呪うシュウに届くのは、レイの消え入りそうな微かな声だ。どうやら、喋れるぐらいにはなってきた──喜ばしいかどうかは分からないが。
「すまん……ちょっと我慢してくれ」
ここで倒れていても彼らの邪魔になる可能性がある。且つ、これからもレイの力は必要だ。であれば、今すぐに回復させたいところ。よって、シュウは仕方なく倒れているレイの体を両腕で掴み、お姫様抱っこのような形で運ぶ。
幸い、シュウでも運べるぐらいには軽かったようで、スムーズに事が運んだ。
「……は、あ。ちょっと楽になったわ、治癒魔法も……まあ、微妙ね」
「そうか……もうちょっと高位の治癒魔法、ないのか?」
具体的には骨折も治せるレベルの、というシュウの言葉を先読みしたのか、レイは首を振って。
「私は治癒魔法向いてないから。『賢者』様なら、欠損しても問題ない治癒魔法を持ってるでしょうけど」
「聞けば聞くほどバケモンだなあいつ……やばいやつの好感度下げちゃったかも」
最早魔法だけで何でもできちゃいそうなレベルの『賢者』に、シュウは天を仰ぐしかない。とはいえ、今はそれを考えるべきではないだろう。今は、シルヴィア達三人に任せるしかあるまい。
「何も、なければいいんだけど」
もしも、なんてなければいい。けど、そうも思ってられないのが『暴食』だった。
「っ──!」
ウィルヘルムとガイウスを含めて、三人。にもかかわらず、傷一つつけられない状況に、シルヴィアは次第に焦りを覚えつつあった。
ありえないのは相手の軌道を見破るその眼だ。剣の軌道を読み、最低限の動きだけで動く。ゆえにシルヴィアの攻撃にも反応できてしまう。
「これで終わりかよ?」
背筋を這うのは戦慄だ。嵐もかくやという斬撃に見舞われ、それでもなお余裕を失わない埒外の強者に、次第にシルヴィアの感情が呑まれうるかのような錯覚に見舞われていく。
底なし沼だ。底の見えない、圧倒的な強者。
(──師匠)
ここまで子供扱いされたのは、ダンテに師事して以来だ。ダンテ──彼にだけは、シルヴィアは一勝もできなかった。どれだけ研鑽を続けても、なお届かぬ星。
(そうか)
何かに似ていると思った。何かに、通じていると思った。
──そう、ダンテだ。この剣筋は、それに近い。
道理で。シュウの話で聞いた、シルヴィアが何度も負けたのにも納得する。剣筋が似ていれば、次に出す一手も想像しやすい。と言うよりかは、相性が良すぎるのだ。『暴食』にとって。
なるほど、間違いない。──天敵だ。少なくとも、シルヴィアにとってこの男は相性が悪い、この世界で誰とであっても、それなりに戦えるシルヴィアにとって、最悪の手合い。
「ダンテ……あいつに師事しておきながら、この程度かよ」
思わず、本当に思わず。剣を振る腕が、命令する脳が、制止した。空白、とでも言えばいいか。そもそも、シルヴィアの父替わりであったダンテは魔族であるからして、名前が出るのは何もおかしくはないのだが、予想外の言葉にシルヴィアの動きが止まったのだ。
それに釣られ、ガイウスやウィルヘルムも動きを止め後退。図らずも仕切り直しのような形となり──再度、『暴食』はその口を開く。
「……おいおい、もう分かってんだろ。──似てるって。剣筋も、思考も、どこにどんなふうに剣を入れればどんなふうに斬れるか。全部、あの男から教わったんだろ? じゃなきゃ、おかしいからな」
「あなたも」
「ああ、ダンテ……ダンテ・アルタイテに剣を教わっていた。まぁ、百年程度だな。魔族っつっても、俺はハーフ……忌々しい事に、俺にゃ人の血が入ってる。その伝手で、会う機会があったのさ」
当時を懐かしむように喋る『暴食』は、この時だけは先ほどまでの感じではなかった。常に人を小ばかにし、誰でも下に見るような、そんな感じでは。
「……無論、他にもいるぜ。教え子ってのは、それなりに魔族にゃいるのさ。例えば、ダークエルフのあいつもそうだ。俺は気にくわねぇが……な。……ともかく、あの人は俺達のような半端者の希望だったのさ。忌々しい人の血を継いでおきながら、『大罪』にまで加えられた、サクセスストーリーを歩んだお人……ってな。だから、許せねぇのさ。下らねぇ愛に溺れて、あの人の鋭さが、素晴らしさが、消えちまったことが。そう考えると……あぁ、そっか。はは、俺……お前の事、殺したくてたまらなかったんだな」
「……?」
「アリサ・アレクシア。ダンテ・アルタイテ──あの人を曇らせた、小石風情。その血脈……四肢をもぎ、川一枚ずつ剥ぎ、骨を少しずつ削り、肉を剃っていって……泣きわめかせてやるよ」
──明らかに、雰囲気が豹変した。
もう、小ばかにすることなどない。正真正銘、強者の風格。シルヴィアなどでは及ばないほどの化け物となった『暴食』は──動く。
純粋な殺意。ただ単純に人を消すために磨き上げた技術が牙を剥く。目にも止まらぬ速さで振り下ろされる一撃は、しかしシルヴィアにとって簡単に受け止めきれるものではなかった。
──重い。人の膂力で支え切れているのが不思議なぐらいの、一撃。その証拠に、既にシルヴィアの体は重さに耐え兼ね、膝をついてしまっている。それほどまでの、異常な妄念。
「づ、ぁぁ──!」
「──死ね」
隠されることのない、殺意がシルヴィアの耳朶を焦がす。同時、上からの一撃は消え──横。振り下ろしていたはずの剣の軌道はいつの間にか横に変貌していたのだ。
──完全に知覚外の一撃。既に態勢を崩してしまっているシルヴィアに受けきれる道理はなく、そのまま血を振り撒いて……
「忘れられては困りますな」
静かな怒気──そう、見間違うほどの言霊と共に剣がシルヴィアの横に割り込み、その軌道を防ぐ。だが、止まらない。殺意だけが、その体を動かす。
「なんつってな」
溢れ出る、滲み出る殺意だけを頼りに次なる一撃を躱そうと思っていたシルヴィアに飛び込んできたのは青天の霹靂だった。
──ありえない。さっきまで、殺気が溢れていたはずだ。演技などではなく、本気。なのに、この様変わりは何だ。
「邪魔だ、どけよ」
その疑問が氷解する前に、『暴食』は体を捻り後ろから来ていたガイウスを蹴り飛ばす。
「──習ったろ、習ったよなぁ、習ったはずだ。剣だけじゃねぇ。身体、全部使って戦うんだ」
「師匠の──」
ダンテの言葉。剣だけに頼るのではなく、全てを使う。
それを、『暴食』は完全に体現しているのだ。剣を使ってからの体術への移動、逆も然り。完璧以外の何物でもない。
勝てる道筋が見つからない。どこをどうしようと、その先が──。
『ならば、使いこなせ。「英雄」としての、本当の力を──』
『暴食』の攻撃を回避していく中、脳裏に響くのは荘厳な声。老人が出しているかのような雰囲気を伴っての声は、頭の中に響いていき──。
「っ──」
胸が、心臓が、いきなり跳ねた。突然の乱れに、シルヴィアの動きは止まってしまい、地面に蹲るしかない。
──なんだ、これは。知らない、こんなもの──。
「あぁ──?」
『暴食』の怪訝な声だけが、耳朶を震わす。それ以外はもう知覚すらできない。視覚も、聴覚も、後漢全てが失われ、情景は灰色に染め上げられていく。
「なに、これ……」
一度も陥った事のない状況に、今度の今度こそお手上げだ。粗くなる息を強引に整え、『暴食』を見据える。
──どうでもいい。今は、戦う事だけが、必要だ。
体に鞭を打ち、シルヴィアは立ち上がり──
「シルヴィア様。──どうか、私が先んじることをお許しください」
隣に降って湧いた、その老人の声だけが、響いた。




