幕間 ササキシュウ
──その気高さに、その美しさに、その可憐さに、その儚さに。
シュウは入れ込んだ。惚れ込んだ。──涙が、零れそうになった。
同時に、いつしか守りたいと思うようになった。
けれど、守れるほどシュウは強くなくて──。
◆◆◆◆◆
初めてこの世界に来たとき。いいや、この世界に来たと認識した時。
困惑した。けれど、どうしようもないとは決して思わなかった。いや、むしろ嬉しいとまで、感じてしまったのだ。
──なぜかは知らないけれど、懐かしいとそう思ってしまって。
とにかく、それほどまでに天恵とさえ呼べるようなものだった。
──この世界には、佐々木修を知る人間はいない。それが嬉しいのだ。それがこの上なく何よりも代えがたい感慨が沸き起こったのだ。
誰もレッテルを張らない。誰も与えられた外見だけでシュウを見ない。
──信じることは、できるかどうか分からないけれど。それでも、この世界なら……生きていけるのではないのかと、そう思ったのだ。
だから、浮かれてしまったのかもしれない。未知なる世界に、喜びを感じてだから──。
気付けば、コボルドに追われていた。浮かれて辺りを散策して、彼らの生息域に入ってしまったのだろう。散々追いかけられ、追い回されて、死ぬかと思った。
死が、脳裏によぎった。流石に死を覚悟した。
──そこに現れたのは、美しく、可憐な少女だった。桜色の髪に、蒼色の瞳。おおよそこの世のものとは思えない程の美貌を持つ少女。
だが、シュウの体は走り回った疲れからか、限界を迎え倒れると言うあまりにも非現実的な経験を味わい、暗闇に呑まれた。
それから、目が覚めて。シュウは後に『王都決戦』と呼ばれたダンテを失ったあの戦いに続く系列の事件に巻き込まれることになって。
──そこで、初めて人の死を見た。それも、大量に。
勿論、吐いた。吐かずにはいられなかった。胃が締め上げられて、息がしづらくなって、気付けば胃の中のものをぶちまけていて。
けれど、そこで尻すぼみするなんて考えはなかった。ありえなかった。もう、シュウには分かっていたから。
──彼女が本当は戦うのに向いていないことを。
だから、いつからか放っておけないと思うようになって。
足手まといなのにも関わらず、シュウは王都を騒がせた犯人を倒すのに協力して。
シルヴィアが会って間もなく、また胡散臭いことこの上ないシュウを信じてくれた。──決してシュウがあちらの世界ではできなかったことを、した。
──少しだけ、思ったのだ。
人の世は悪意に満ちているけれど。人の世は誰かを簡単に信じられない程魔窟であるけれど。
──信じてみたいと、心の底からそう思った。
──きっと、それこそが原初の願い。シュウが抱いた想い。
シルヴィアを守る。手折れてしまいそうな彼女を、守りたい。そんな無茶苦茶な想いを抱いて──。
それが無理だと気づいたのは、いつからだろうか。それが不可能に近いと分かったのは、いつだろうか。
守りたいと願っても、救いたいと祈っても、いつだってシュウは助けられない。彼女は強くて、弱さなんて目に見えなくて、シュウの輝きで。
そうだ。いつだって、そうだった。
彼女の屋敷についていった時も。悪夢にうなされた時も。賢者に会いに行った時も。地下迷宮に落ちた時も。人の悪意に触れた時も。ミノタウロスと出会って殺されそうになった時も。
いつしか、シュウはシルヴィアを女神だと感じるようになった。だって、そうじゃないか。
人は生きている以上、誰かの助けなしには生きられない生き物だ。けれど、彼女は求めていないのだ。要らないのだ。むしろ、その他の全ては足手まといにしかならないのだ。
彼女は決してそんなことを言わないし、思ってもいないだろうけど。
──シュウは彼女に助けられ続けた。死に際した時は死の淵から救い出してくれて。
なあ、分かっているだろう。
悪魔の囁きなんて、いつだって聞こえた。
お前は要らない奴なのだと。そう言われ続けて、そう聞こえ続けて。
──それが揺さぶられたのは、王都の時だっただろうか。
王都に呼ばれ、様々な思惑が絡まった王城での謁見を経て。シュウとシルヴィアはそれに出会った。
シルヴィア曰く、彼女が教官を担当した部隊の生き残りだと言う。その生き残りが現われて、シルヴィアは今までに見た事がないほど取り乱した。
──その様を見て、不謹慎かもしれないが、ほんの少しだけ安堵した。
だって、彼女が初めて見せた人間らしさ。それがちゃんと彼女の中にあったことの、安堵。
だけど、その時だって彼女は自らの力だけ立ち上がった。誰の力も借りず、自分の足だけで立ち上がって、前に進んだ。
その後ろ姿を見て、シュウはいつか憧れるようになり──同時に、今まで抱いていたその想いがさらに強くなっていくのを感じていた。
そう、要らないのだ。彼女には助けも何も、要らない。それが悲しくて、苦しくて、どうしようもなくて──。
シュウは鬱屈とした感情を持て余したまま、シルヴィアの戦いを見届け、そして彼女は勝ってしまった。
それが虚しかった。それがどうしようもなく、嫌だった。
だって、それでは拍車をかけているだけではないか。シュウが結局要らないのだという想いを強くさせているだけではないか。
──そんなことを考えたまま、王都に戻り、屋敷に戻ってミルにしごかれるのだと、そう信じて疑わなかった。
けれど、運命はそんなことを許さなかった。
『王都決戦』──魔獣騒乱から始まり、魔族軍幹部『大罪』達が一斉にその姿を現し、『大英雄』が死ぬ最悪の事件。
それを経て──シルヴィアが涙を見せる瞬間を見て。
胸が苦しくなるのを抑えられなかった。
彼女が涙を浮かべるその瞬間を見て、どうすればいいのかという困惑が覆った。
──同時に、今度こそ彼女を助ける番だとそう思った。
けど、シュウでは足りなかった。彼女を縛る鎖をどかすには、シュウ如きでは届かなかった。
そう、まただ。また、シュウは何も出来なかった。救いたいと言う願いを抱いて、数か月が経って。出来たことは何だ。一度でも彼女を救えたか──否だ。
彼女はいつだって自分の足で立ち上がって、誰の救いも欲しがらない。
ダンテの死を受け、引きこもっていた時だって。自分一人で立ち上がった。誰かの救いなんか必要なかったのだ。
それから──一度も、彼女を救う番はやってこなかった。一年を共に過ごし、分かったのは結局シュウが役立たずであることと、救えないぐらいに底抜けの馬鹿だと言うことぐらい。
弱い自分が情けなかった。弱い自分がどうしても許せなかった。
誰かを救うだなんてほらを吹いて、一人すらも助けられない自分が嫌で嫌で仕方なかった。
──けど、それはやってきた。
突然に、偶然に。
──『暴食』との戦い。
あのシルヴィアをもってしても叶うことはない、絶対の敵を前に。
今度こそシュウは役に立つ番だと思った。いや、役に立たなければならないと思った。
救わなければいけないと、そう思ったのだ。
だから、何度だって抗った。無様に、醜悪に、死を迎えても。友を死なせて、仲良かった誰かを死なせて、友と呼んでくれた誰かを死なせて。
──全てを犠牲にした。
それでもなお、届きはしなかった。
結局、変えられはしなかった。変えるどころか、何度死なせた。
何度その体を刻ませた。
何度、死なせたのだ──。
百回も、彼女を死なせた。
滑稽だ。
守ると言っておきながら。
虚勢を張り続けておきながら。
──結局、守ることも運命を変えることも出来なかったわけだ。
そのくせ、理想だけは高くて。
──ほとほと、自分が嫌になって。
そして、あり得るかもしれなかった未来を視た。
それは、決してあるはずのない未来だ。無視してもよかったかもしれない。
ありえないのだから、通るはずのないのだから、断絶された世界の果てなのだから、気にしなくてもよかった。
けど、どうしても頭から離れない。
彼らの笑顔が、離れないのだ。
──その顔を、忘れられないのだ。
それは間違いなく、シュウが見た事のない笑顔で。守りたいと願ってきたけれど、シュウには一度も彼女を笑わせてあげられなくて。
みんな笑っていて。彼女が笑っていて。
──もう、シュウは要らないのだと、悟った。
シュウはいないほうが、いいのだと思った。
だって、シュウがいないほうが彼女が笑っていられるのだから。
いる意味が、ないのだから。
いつか願った想いは、届かなかった。
それどころか、何度も死なせた。
シュウでは、救えないのだ。
シュウでは、助けられないのだ。
シュウでは、シルヴィアを地獄から救い出せないのだ。
それどころか、シュウは彼女に重荷を負わせて。
シュウが居るだけで彼女は幸せになれなくて。
ああ、だから、居る意味はない。
この世界に、シュウが居る意味はない。
ないのだ。居場所も、居る意味も、生きる価値も、何もかも。
もしも、この世界がシュウが居ることで悪くなるなら。
もしも、シュウが居るだけで彼女が苦しむなら。
──シュウは、死ぬだけだ。




