プロローグ 異世界召喚
狭い路地を一人の少年がスマホを片手に歩いていた。スマホの画面には地図が記されており、目的地に設定されているのは歯医者だ。
その少年を一言で表すのならばまっくろくろすけ、とでも言えばいいか。黒のパーカーと動きやすさを重視したジャージに似た黒のズボンだ。全身を黒に染めた少年は開いた片手で自らの頬をさすっていた。
「くそ……放っておいたらこんなになっちまったよ……やっぱりすぐにでも行くべきだったか……」
空から照り付ける太陽の日差しから頭を守るように被られているフードの横から見えるのは腫れた頬であり、少年自身も放っておいた虫歯が悪化した──いわゆる自業自得だ。
今の時間は8時ちょっと過ぎだ。今は7月に差し掛かっている中、自ら蒸し焼きになるような格好になっているのには訳がある。
少年は目立つのが嫌いだ。
何よりも目立つのが嫌いだし、ずっと影に引きこもっていたい人種だ。今の世界は色々な色に塗れてる。ゆえにその中で一番目立たないのは黒、という結論を一人で出し、それ以来黒一色で生活している。
とはいえ、黒一色は逆に目立つ可能性もあるのでこうして狭い路地を歩いているのだ。
しばらく歩いて、そして遂に狭い路地が終わり少年の目を照らしつけるのは光だ。狭い路地だった故太陽の日差しはそこまで届いていなかったのだが流石に大通りに来れば話は別だ。
取り敢えず、少年は辺りをキョロキョロと見回し警戒心を剝き出しに反対側にある歩道に渡るための横断歩道へと足を運ぶ。
「あ、修だ。何やってるの? 学校も行かないで」
「──。はあ、マジか……」
ここまで来て一番会ってはいけない少女に出会い、大げさなぐらいに溜息をつくのだった。
◆◆◆◆◆
少年──佐々木修はとある理由──理由といっても大したものではないのだが──から引きこもりをしている学生だ。
佐々木修の身の上話を少しするのなら、彼はいわゆる第二世というやつだ。
彼の父親である佐々木英一は元サッカー選手であり、齢23歳にして日本中を震撼させただけでなく、海外にも多大な影響を与えたスーパースターである。
彼がいなければ少し前のオリンピックではメダルは取れていなかっただろうとまで言われており、その将来性に大きな期待を世界中から寄せられていた。
しかし試合中に膝を痛め、突如としてサッカー界を引退した。
その数年後、彼の息子として生を受けたのが佐々木修という人間だった。
それから十六年が経ち佐々木修はせっかく受かった学校に通わなくなり、しまいには家から出ず引きこもりをするというクズっぷりをいかんなく発揮していた。
横断歩道の近くにいたのは少年──修の幼馴染と呼んでいい人間だった。腰にまで届きそうな長髪をどうにかして束ねてポニーテールにしている少女だ。
彼女は修を見つけるなり手を振ってこちらに近づいてくるのだが──。
「? どうしたの、修。そんな嫌そうな顔して」
「いや、なんでもないさ。それより、桜はなんでここに居るんだ? 学校とは反対じゃないか。早く行かないと遅刻しちまうぞ」
だが桜は修のもっともらしい意見に頬を膨らませて。
「折角高校に受かったのに一か月で不登校になる人には言われたくはありませんー」
「ぐ……最もな正論だけども……!」
この時間に歯医者に行くということは既に学校を放棄していることと同義だ。と言っても修自体学校にすら行っていない穀潰しなので説得力など皆無に等しい。
「悪かったな……いいだろ、別に」
「よくないよ。みんな心配してるし、それに私だって……」
「いいって!」
何か癇に障ったのかいきなり怒鳴り出す修。その豹変ぶりに思わず桜も肩を揺らして一歩下がる。
「あー、悪かった。その、怒鳴りつける気は、なかったんだよ……」
「うん、分かってるけど……ほんとに、学校には来ないの?」
「ああ。もう、行く気もないから……」
修の答えに桜は少しだけ寂しそうな表情を見せて──一瞬だけ何かが地面に落ちた気がした。
反射的に修は顔を逸らす。きっと自分は関係ないと言いたかったのだろう。
──相変わらず、こんな自分に吐き気がする。
桜が今何を想って俯いているのか、どうして修に構おうとするのかその理由を知っていて知らない振りをしようとする自分が心底嫌になる。
思わず聞き出したいところだ。どうして自分みたいなのが世界に生きているのかと。
「桜。あー、えっと。早く行かないと、学校に遅刻しちまうぞ」
「うん……ごめんね、時間取らせちゃって。私もう行くから……明日も、来るから」
修が学校に行かなくなってから、桜は何度となく修を迎えに来てくれた。いつものように、普段と変わらない態度で接してくれる。
きっと修はそんな桜と正面切って立ち会うことなど出来ない。それがどうしようもなく怖くて──。
「え、?」
「は──おい、桜!」
振り返り走って向かおうとした桜は──しかし逆に後ろに集まっていた人だかりによって弾き出される。
どこに? 決まっている。桜は最前列に居たのだ。弾かれていく場所など分かり切っているではないか。
車が未だ行き交う道路。そこに放り出されるに決まっている。
目の前で桜の表情が驚きに染まり、何かを探すように彼女の手が前に出される。だが誰もその手を掴むことなどしない。
──おい、誰か、誰か掴んでやれよ。このままじゃ、死んじまうぞ……。
あくまで彼らは無視をし続ける。自分は関係ないと言い張っているのだ。修と同じように。
面倒ごとに巻き込まれたくないのだ。自分のせいで一人の少女が死んだなどと言われたくはないのだ。そもそも名前も顔も知らない少女を命を賭してまで誰も助けたがらないだろう。
所詮世界なんて、人なんてそんなものだ。誰かがやってくれるから、だから自分が率先してやるような事じゃないと言い聞かせる。例えどれだけの理不尽を抱えようと構わない。
だって、人は自分が一番なのだから。
なら、この手は誰が掴める?
こんな時になんでも助けてくれるヒーローが都合よく出てくるわけじゃないだろう。
だからと言って、自分にこの少女の手を掴む資格などあるのか?
修だって同じようなものだろう。咄嗟に手を出さず誰かを頼っただろう。
そんな自分が大嫌いじゃないのか。
だから──。
「え、──修!?」
桜の手を強引に引っ張り、自分の位置と交換する。それはつまり修が窮地に立たされることに他ならなくて──。
だが修の心に後悔はない。だって、修が大嫌いな自分を最後に捨て切れることが出来たのだから。
いつだって合理的に計算して無理なものを無理だと早々に諦めて、そんなくそみたいな誰かと一緒に死ねるのならもはや好都合だ。
桜が死ぬのは間違っているのだ。死ぬのなら、修の方なのだから。
桜の声が聞こえる。だが何を言っているのかは分からない。通行人の顔が驚愕に染まる。ざまあみろ。そこで目ん玉かっぽじってよく見てろ。
そして、矢継ぎ早に訪れる死。車のブレーキ音が鳴り続けているがもう間に合わない。
車が修を殺そうと迫り──。
ただ目を閉じて祈る。
──どうか、痛くありませんように。
我ながら情けない事だけを願い、そうして──。
決定的な瞬間が訪れ──る寸前、修の体が光る。眩いほどに光った体はやがて手足から消失してゆき──完全に消えたのだった。
体の前に襲い掛かるはずだった衝撃はいつまで経とうとも訪れず、代わりに地面に落ちた衝撃が背中に走る。
「いたっ! ──ぐ、おおお……やべえ、超痛い……」
暫く背中の痛みから転げまわり、ようやく落ち着いた頃シュウは空を見上げる。
そこにはシュウが住んでいた所では絶対に見れないような星空が満面に広がっていた。月と星の輝きを邪魔する物は何もなく、正に望んでいた光景でもある。
何気なく空を見渡していて──ふと気づいた。
なんで周りに光がないのか、と。いや、そもそもこんな光景など見た事もない。
そして周りを見渡してみれば 先ほどのコンクリの地面とは違い足元には雑草が生い茂っており、家しかないはずの街とは違い、ジャングルのような印象を受ける。
「あ、あれ‥‥‥ちょっと待て。ここって‥‥‥どこだ?」
見事、ササキシュウは異世界に召喚されたのだった。