幕間 アリス・イリアル
ただ大人しく、それを見ているしかなかった。
自分を守ると言ってくれた人がボロボロになり、何よりも大切な人と戦うのを見ているしか出来なかった。
黒瞳黒髪。この世界ではあまりにも珍しすぎる──どころか、殺されかねない色を宿した少年。
いつからかこの国に現れ、止まっていた歯車を動かさせるきっかけとなってきた人物。
──ササキシュウ。
彼が自分と言う存在のために傷ついていく様を、ただ眺めている。ひたすらに、指をくわえて待っているしかない。
だが、気付くべきだった。ササキシュウと言う人間が起こしたこの騒乱を収めるには、それ相応の犠牲が必要なのだったと。
代償は決まっていた。シュウと言う人間の、首。その命。
それだけが、今この場を収める唯一の方法だ。
──だから、そうしたにすぎない。手っ取り早く収めるには、こうするのが一番だと言い切るように。迷いも何もかも断ち切るように振り下ろされた一撃が、体と頭をわけ隔てる。
──終わった。終わりが来た。
もう、ここからの逆転はない。それを為すだけの人間は、既にここに居ない。
呆気に取られていた騎士たちが我を取り戻し、放置されていたアリスの下へと駆けよってくる。恐らくは、コロシアムの中央へと戻すためだろう。
だが、それに反抗する気はない。どうせ、無駄だ。反抗しようとも、所詮は斬り捨てられる時間が早まるだけなのだ。
だから、せめて──最後の瞬間までは。
◆◆◆◆◆
アリス・イリアルと言う少女は、ダリウス・イリアルの第二王女としてその生を受けた。
病気がちな第一王女とは違い、病気などにもかからずにやんちゃをしながら、自由気ままに生きてきたわけだ。
だが、別にストレスが溜まらないわけでもなく、むしろ不満は募る一方だった。王城で歩いていれば、誰もかれもがひれ伏し、権力に屈し、対等に接してくれない。
簡潔に言えば、アリスは権力なんてものが嫌いだった。城の外を見れば自分と同じような年齢の子が笑いあって過ごしている。
普通の子供たちが当たり前にやっているそれが、アリスにとってどれほど羨ましいものだったか。外を見れば見るほどに、なぜ自分だけがこんな目に、などと思ってしまう。
その鬱憤を晴らすために、あるいはささやかなる反抗として、王城の外へと飛び出したり、自分に付き従ってくれる従者に対していたずら、というか嫌がらせを行うようになっていった。
この頃だろう。アリスが、『お転婆姫』などと称されるようになったのは。
だが、別に嫌いなわけじゃなかった。だって、まるでその渾名はアリスと言う少女を否定しているみたいに思えたから。第二王女アリスではなく、別のアリスと言う側面を表しているみたいで気分がよかった。
だから別にその渾名を払拭しようだなんて思わなかったし、それでいいとさえ思っていた。
そんな反抗的な彼女が唯一言うことを聞いていたのが、アリスの従者となったガイウスだった。その頃のアリスは『お転婆姫』などという渾名を頂戴し、気分を良くしていた時だったか。
いつも通りに従者にいたずらしようとして。
「アリス様。いたずらはそこまでにしなさってください。他の者たちがあきれ果てていますので」
「なによ、その言い方。従者如きが口出さないでくれる?」
その時は腹の虫の居所でも悪かったのか、自分が最も忌み嫌っている権力を振りかざして痛い目を見させてやろうと考えたのだ。
だが、その時ガイウスが言ってきたのは今まで誰もアリスに言おうとしなかったことで。
「アリス様。寂しいのは、分かっております。王城では同年代の者がおらず、友人が出来ないのは分かっております。ですが、だからといって、他の者に当たるのは人としてやってはいけないことです」
「──」
思わず、絶句した。なぜなら、その日までアリスと言う少女にそんなことを言う人間などだれ一人としていなかった。
王族としてこうあるべきだというのは何度も聞いた。だが、誰も人間としてどうこういうのは教えてくれなかった。誰もがアリスの機嫌を損ね、処罰されるのを恐れる中、彼だけがアリスに面と向かって注意をしてくれる。
たったそれだけのことがどれだけ嬉しかったことか。どれほど喜びを感じた事か。
──母親がアリスを生んでからすぐに他界し、父親は王と言う責務に没頭せざるを得なくなり、姉は病気がちな故あまりしゃべることが出来ず、唯一彼だけが彼女を一人の人として扱ってくれる。
王族などと言う括りでなく、普通の少女として見てくれること。それが、そんな当たり前のことがただ嬉しかった。
その日からかもしれない。度を越えたいたずらを止め、今まで避けてきた勉強と言う二文字に向き合い始めたのは。
これがアリスにとっての転換だ。
ガイウスからすればなんともない、いつも通りの忠告だったのかもしれない。だが、それはアリスによって何よりも大事な言葉だった。
それからしばらくして、もう一度転換期が訪れることになる。
合流する予定であったガイウスとはぐれ、貧民街を彷徨っていた時に出会った少年。世界規模で恐れられている黒瞳黒髪の少年と話し始めた時の事だ。
アリスも勿論、世界の皆と見解は同じだった。最初は身構えていたのだ。
いつ攻撃しようとしてくるか、いつその本性を表すか。だけど、あっけないほどに何もなく、むしろ彼と別れ残ったのは久方ぶりに感じた楽しさだった。
ガイウスと同じように、アリスを王族と知っても普段通りに接してくれる、唯一の人間。黒だなんて恐れていた自分が馬鹿馬鹿しくなるほどに優しすぎる少年。
だからこそ、アリスは彼の名前をすぐに覚えることが出来た。いろんなことを知った。彼を通して、世界のいろんなことを知った。
とはいえ、シュウも実際に見てきたわけではないのは明白だったが。どうやら、ソフィアと言う青年から聞いた話をアリスへと流していたらしい。
だが、怒る気はなかった。むしろ、興味がそそられた。アリスの知らないことをもたらしてくれたこの少年が、知らない世界があるのだと。
胸躍る心を何とか抑え、外に飛び出していこうとする高鳴りを潜めさせ、ただ没頭した。このころから、将来の夢が冒険家になったのは誰にも明かしていない。
だから、今回サジタハに来れると分かったときは本当にうれしかった。本の中や話の中でしか見た事のなかった世界を、この目で見れるのだ。これで心が躍らないようにするなんてことが不可能に近いものだった。
初めて訪れたサジタハは、輝いていた。イリアル王国の首都とは違った街並みが、所々にある緑の公園が、噴水が、コロシアムが、何もかもが。
だが、そんな浮き上がった心を落とすように。戒めるように。
ダリウス王より下された、身に覚えのない罪によって追われる身となってしまう。そこには、自分が尊敬できる少年──ササキシュウを巻き込んでの形で。
城の中で勉強しかしてこなかったアリスには、何の力にもなれなかった。シュウと言う人間が傷ついていくのを、ただ見ているしか出来なかった。
だから、何かしてあげたかった。何かすることで、少年を助けてあげたかった。
その結果が、犠牲だった。身に覚えのない罪だけど、それでも反旗を翻してしまった少年ならば、まだ引き返せると思って。
──けれど、根本は変わらなかった。誰かのために、という犠牲が怖い。首を斬られ、死ぬのが怖い。ここで潰え、誰からも忘れられるのが怖い。
全部が怖かった。何もかもが怖かった。ダリウスの目も、騎士が持つ剣も、衆目の視線も。
正直に言えば、嬉しかった。シュウが、ここに来てくれたことが。何もかもを投げ捨てて、戦ってくれたことが。
でも、アリスのせいで、彼は死んだ。目の前で、首が刎ねられた。
責任を全うして、死んでしまった。
──ならば、アリスも同じ末路を辿るべきだろう。
ゆっくりと目を閉じ、ただ死を受け入れる。
──。
────。
──────。
────────。
──────────。
『なあ、夢とかって、ないのか?』
『何よ、藪から棒に。夢なんて、話すもんじゃないでしょう?』
それは、かつて王城で話した時の一幕。八岐大蛇へと赴く前に、暇そうだったシュウを捕まえ、話し合った時の事だ。
『じゃ、ないのか?』
『私をつまらない人間だと認定しないで。ちゃんとあるわよ、夢ぐらい。……誰にも言えないけどね』
『そっか……ま、そういうのは誰にだってあるよな』
『シュウは?』
『ん?』
『あなたには、ないの? 夢とか、何とか』
シュウは、僅かに逡巡して。
『俺には、ないかな。そういうのって、やっぱり子供の特権だと思うからさ』
『変なの。あなただって子供じゃない』
『痛いところはつかないように。ま、話は戻すけど……アリスの夢、聞かせてくんないかな』
『何よ、真剣ぶって。そもそも、人に聞かせるような崇高なもんじゃないわよ?』
『そんぐらいがちょうどいいさ。てか、立派な王様になるのが夢なんです、なんて言わなくてよかったよ。その場合どう接したらいいのか分かんなくなるからさ』
『悪いけど、私は権力なんてものが嫌いなのよ。だから、王族になってならない。──私ね、冒険者になりたいの』
『冒険者?』
『ええ。と言っても、私には力はないから、諸国を回る形になりそうだけど。本の中の絶景、物語で聞いた世界。見てみたい、この目で、見てみたいのよ。──なによ、その意外そうな顔は』
『いや、意外と庶民的な思考を持ってるんだなあと。おいっ、拳を握るな、踵を振り上げるなっ。別に馬鹿にしてるわけじゃないから!』
『じゃ何よ!? どうせ笑ってるんでしょ、ありふれた夢だなんだの言って!』
『そんなわけないっての! ──むしろ、応援するよ。いいじゃないかよ、その夢。懸念とかは一人で旅できるのかってことだが』
『う、うるさいわよ……何とかするわよ、なんとか!』
初めて、他人に夢を語った日。どうせ馬鹿にされるからと言って一度も言ったことのない夢。
だけど、シュウは馬鹿にするでもなく、ただ純粋に応援してくれて──。
なりたいと、思った。何か、爪痕を残したいと思った。何も残せないまま死ぬのはだけは嫌だと思った。
──そんな簡単なことに、気付くのが出来なかった。誰だって思うような、当たり前のことが思えなくなってしまった。
『そんな風に自分を偽って生きてると、本当に大事な場面で、言いたいことが言えなくなるぞ』
サジタハで、シュウがアリスに向けて言った言葉だった。
そのままを口にするのが恥ずかしくて、ついついタブーとしていた権力を振りかざしてまでシュウを狩りだした時の事。
──考えてみれば、正に言った通りだったわけだ。
最後の瞬間まで、自分が本当に何をしたいのか分からず奔走し、周りを巻き込んでしまう。夢を追いかけたいのか、それとも誰かを守りたいのか、どちらかを天秤にかけて結局は悩んでしまう。
決めた覚悟は簡単に揺らいで、固めたはずの決意は崩壊し、本当に大事なことは最後まで気づけずに何も言えなくなる。
──つまるところ、きっとこれこそがアリスと言う少女の人生だったわけだ。
今日、何かの偶然が重なって生きたところで、根っこは何も変わらない。きっと同じような状況に陥って、そうして死んでいく。
でも、例えこれが意味のない咆哮だとしても……。例え、無駄な一言だったとしても……。
「死にたく、ない……」
消え入るような声で、掠れた声で、涙声で。そんな願いを呟いて──。
「まだ、何もしてない。まだ、何も出来てない。まだ、何も始まってすらいない……!」
断頭台に立つ騎士の顔が、それを聞いて顔を歪ませる。一人の少女の魂の叫びを聞いて、歯を食いしばる。
「こんなところで、終わりたくない……。まだ、生きていたいよぉ……」
アリスの首へと、剣が迫る。




