14話 アレス
アレスは魔族領の中で、最も西端に位置する村で生まれた。
魔族の中には種族ごとに明確な線引きがある。
例えばヴァンパイア。魔族の王を除けば最高位にある彼ら一族は、魔族領のほぼ真ん中に領地を持っている。
つまりは、魔族としての位が高ければ高いほど、中心地に近いところに領地を持てるという仕組みになっているのだ。
だが、サラマンダーにはいわゆる貴族の特権は何一つ与えられていない。
上位の種族と数えられていないのだ。
ゆえに、本来であれば七つの種族から一人ずつ選抜される『大罪』は、サラマンダーからは絶対に選ばれない。
もし、そこに生まれつき『大罪』を持つ誰かが誕生したら。喉から出るほど欲しがっていた『大罪』が生まれ落ちたとしたら。
彼らは全てを犠牲にしてでも『大罪』を完成させるだろう。
彼は世界というものに不満は感じなかった。『憤怒』として重要な感情も持ち合わせていなかった。
休みは与えられない。与えられたとしても、約数分のみ。それ以上は与えられない。
その日もいつも通りだった。与えられたのは、五分の休憩だった。
別に休みを満喫するという考え自体はなかった。ただ気の赴くままに、外に出て寝転がっていた。
眼下に広がるのは、彼と同年代の者達が和気あいあいと遊んでいる光景だ。皆笑顔で、なぜかアレスにはそれが輝いて見えたのを覚えている。
「ねえ、貴方は混ざらないの?」
そんな声が掛けられた。同時に上を向いていた彼の視界に割り込んでくるあどけない少女。
──今更のようではあるが、火蜥蜴族はその存在自体が忌避されているので、彼らは本来の姿を取らず、人間のように魔法で姿を変えていた。これは、サラマンダーの始祖である男が発案したものだ。
「いや、俺は……その、時間がないから……」
「時間が……? 何か、親からお使いとか頼まれているの?」
その結論に達するのは、決して間違いではない。その当時、アレスは秘匿されていた。
将来を期待され、その重さに押しつぶされないようにというのが表の理由。裏の理由は、他の種族に悟られたくはないからだ。
しかし、いずれ気づかれるのは明白。ならばそれまでにアレスという少年を育て上げ、名実ともに『大罪』に仕立て上げればいいというものであった。
「ねえ、私と遊ばない?」
「いや、だから……」
「大丈夫。少しぐらい遅れても怒られないって」
それはあくまで普通の子供だからかもしれない。アレスにとって時間に遅れるという行為は、ありえないものだった。
だけど、その時はなぜか承諾してしまって──。
その日、初めてアレスは自由というものを一片でも知った。
それからアレスは毎日少女と遊んだ。二人の時もあれば、他の子どもが寄ってきて大勢で遊ぶことだってあった。
当然、その動きを大人達が知らないはずはなかった。
だが、なぜか彼らは何も言ってこなかったのだ。果てには、遊ぶための時間すら取った。
その意味を図ることなどしなかった。
だって、その時は酔いしれていた。初めて知った外の景色に、初めて知ることが出来た素晴らしいものに。
「ねえ、私さ。いつもお母さんとお父さんが言い合っているのを聞いてるんだ。二人とも怖い顔して、これからどうなるだろうってずっと言ってたんだ」
アレスに世界というものを教えてくれた少女と出会ってから、約一か月。そんなことを、相談された。
これからのこと、とは間違いなく窮地に陥っている火蜥蜴族の将来だ。
そして、それはアレスに直結する。
「俺は……俺が何とかするさ」
少女の困ったような顔を安心させるように、少女の手を握って力強く宣言した。
「俺は──」
その日初めて、自分の事情を話したのだった。
それからどれくらいだっただろう。魔族は人間よりも長い時を生きるので、その分記憶が曖昧になってしまう。
だが、それだけは未だに鮮明に頭にこびりついて、離れない。
何気ない日常だった。そのはずだった。
だけど、なぜかその日は皆が嬉しそうに顔を歪めていて──。
その時はなぜだか、分からなかった。
なぜ、彼らが嬉しそうにしているのか、幸せそうな顔をしているのか。
その理由は、すぐ知ることになる。
──気づけば、アレスはどこかに縛り付けられていた。
暗い場所だった。埃が溜まっていて、汚い場所。まるで倉庫みたいなところだった。
だけどそこには見慣れないものがあって──。
「さあ、生贄をこちらに」
どこからともなく現れた同胞が、小さな子供たちを連れてくる。
その中には、アレスが親しくなった子供たちや、アレスに何もかもを教えてくれた少女もいた。
最初は、何をするのか分からなかった。いや、分かりたくはなかった。
だけど、彼らがアレスの前に運ばれてきて──。
「貴方には怒りが足りないのです。ゆえに、今この場で──」
そんな説明臭いことを言われていたが、一切耳には入ってこない。アレスはただ訴えた。彼らをどうするつもりかと。
大人達はただ笑って、何も返さない。
そして、行動は唐突に始まった。
奥から出てくるのは、アレスが見た事のない大人達だ。彼らは泣いていた。
いいや、その後ろから運ばれてくるものは──。
何も言えなかった。だってそれは誰かの──で。
「あ、ああああああ!!?」
「た、たすけ、てぇ……」
そんな悲鳴が伝染し、瞬く間に広がる恐怖。アレスの脳裏に焼き付いている笑顔が、恐怖で侵食されていく。いや、もっと原始的な何かで──。
時間が経った。
気の遠くなるぐらい、時間が経った。
アレスの前には、たくさんの死体があった。何回か顔を合わせただけの子供たち、顔も見た事のない大人達の、暫くは動いていた、しかしもう動かない体があった。
唯一、残っていたのは──。
「あ、ぁ……」
体力も、精神も、何もかもが尽きて、もはや叫ぶだけの気力すら残っていない。
なのに、彼らは止まらない。
最後に残った少女すら、手に掛けようとして──。
彼女は恨んでもよかった。意味の分からない内に、ここまで連れてこられて、尚且つ彼女の親しい人達は殺された。
自らに当てられた運命を、恨んで、憎んで、怒って。それでよかった。むしろ、アレスにとって、分かりやすい糾弾をしてくれて方がよかった。
だが、少女は怒らない。目隠しを取られて、目の前に広がる惨状を見て。自らの足元に転がる何かを見て。それでも、少女は──。
笑っていた。憎しみも、苦しみも、恨みも、怒りも、そんな感情は何一つ浮かべず、ただ笑って。
「──」
アレスに、何か呟いて。そうして、生贄を捧げる時間は終わりを告げた。
彼女が言いたかったことは、分からない。
理解することは出来ない。
だけど、囁き声が聞こえていた。
──これこそが、世界の不条理だと。こんなものが許せるかと。
怒りの業火がアレスの体を巡る。決して癒えることのない傷をアレスに付けていく。
「そうだ。俺は、こんなものを許すわけにはいかない。だから──」
この結論が正しかったのかと問われれば、たぶん違うのだろう。結局、こんなのは逆恨みに過ぎない。ただ自分が何も出来なかったから、暴れたに過ぎない。
だが、もう止まれない。この感情を消すことは叶わない。全てを憎んで、恨んで、怒って。何も出来なかった者達の分まで、吠え続けると。
「この世の全てを、ぶち壊してやる!!」
例え、この場で大人達が死のうと。全ての復讐を終えたとしても。終わりはしない。この世に住む全てを恨み、憎み、怒り、復讐すると誓う。
これが、アレスが『憤怒』として産声を上げたその瞬間だった。
懐かしいものを思い出したものだと、アレスは思った。
長い時を過ごす間に、摩耗し、失ってしまった想い。アレスが『憤怒』となった瞬間の事。
誰かに望まれたわけでもなく、ただ無念を晴らすために。『憤怒』となることを決めた。
「ああ、これが。俺の原点……長い間忘れていたもの、か……」
アレスは崩壊した瓦礫の中で、確かにそう呟いた。アレスをここへ叩き込んだ少女の発言。怒りは悲しみ、憎しみ──負の感情しか生み出さない。
確かに間違ってはいなかった。
だが、アレスにはまだ聞かねばならぬことがあった。
それだけのために、限界を超えた肉体を酷使し、立ち上がる。
目の前にいるのは、驚いた顔を向けている金髪で、メイド服の少女。そして、アレスに引導を渡した桃髪の少女──シルヴィアだ。
シルヴィアはアレスを見て、ミルを一歩下がらせ守れる位置へと移動させる。
だが、そんなものはどうだっていい。
「なぜ、俺を殺さなかった」
殺せたはずだ。あの時、あの一瞬。確実に少女の剣はアレスを斬れた。
なのに、そうしなかった。ただの情けではない。そんなことぐらい分かっている。自らに情けなど要らないのだから。
「私が言った言葉、覚えてる?」
「怒りは憎しみしか生まない、か。それとも、悲しみしか生まない、か。どちらにせよ、覚えているさ」
「私は、弱い。たぶん、歴代の『英雄』の中で、一番弱いと思ってる。誰かを殺せる覚悟なんて何一つない。でも、だから。この力を受け取ったとき、決めたの。私にしか選べない道を選ぼうって」
「それが、この結果か?」
「みんなを救おうとするのは無理かもしれない。それでも、足掻いて見せるって。私は諦めることはしないって。だから、私は助けたい。だって、それが私の今の願いだから」
それは決して不可能な願いだ。彼女が誰かを救おうと足掻けば、その反対で、誰かが死んでいる。
全てを救うことなどできない。だが、それを妄言などと笑う気はアレスにはなかった。むしろ、尊敬するぐらいだ。
「クク、ハハハハハ!! そうか、そうだった。お前は優しい奴だ。敵である俺すら助けようとするのか……だが、それはいらない選択だ。俺達は死ななければならない。お前が、誰も死なない幸福を目指すのならば。俺達は死ななければならないのだ」
「──」
「ああ……そうか。ダンテ、お前は飲み下したのだな……この輝きに、全てを託したのだな……」
ダンテは託したのだ。自らの願いを、自らの子に。怒りしか知りえなかったあの男にはありえない選択であり、同時に羨ましくも思う。
「クク、そうか。これが愉快という感情か……怒りではない。純粋な感情か……」
一人の少女が出した結論は、決して容易い道のりではない。これから地獄が待っているだろう。
だが、そのことを思えば、自然と笑みがこぼれる。きっとシルヴィアならば何もかもを超えられるのだろうと。悩み、苦しんだその先を掴むことはもはや決定しているのだろうと。
「初めて知ったよ。怒りに通じない感情が、こんなにも心地いいものだということを……」
このままであれば、彼女はアレスを見逃す。
だが、それではいけないのだ。人の欲の権化。多大なる被害をもたらした者達。
それを倒せば、彼女の妄言も少しは通りやすくはなるかもしれない。だが、それ以上に。
許してはならないのだ。こんな化け物を。
だから──。
「え──」
シルヴィアの困惑した声と共に、アレスは自らの心臓に手を突っ込み──そのうちに眠る心臓を引きずり出し、自らそれを潰す。
「こんなものは要らぬ。俺は『憤怒』など捨てよう。喜べ、心優しき少女よ。お前の純粋な願いで、『大罪』が一柱──『憤怒』はここで死んだ。──だから、この先は、俺が相手しよう」
サラマンダーには面倒な性質があった。それは例え心臓を潰されようと、暫くは動けるという厄介極まりない性質。
『大罪』の席は要らない。『憤怒』も要らない。ただのアレス・ミザールとして、戦いを挑もう。
最大全速で動けるのは、僅か一回だ。
その一瞬に、全てを懸ける。
「『英雄』シルヴィア・ウォル・アレクシア。どうか、戦ってほしい。俺の人生は『憤怒』と共にあった。ゆえに、『憤怒』を捨てた俺自身が動ける時間は今この一瞬しかない」
アレスとして生きる時間はここしかない。
だから──。
その揺るがぬ意志を受け取ったのか、シルヴィアもまた剣を構える。
束の間、二人の間に静寂が流れて──。
「ぬぅぅううおおおおおおおおお!!」
繰り出すのは『大罪』などという力を捨てた、ただ一つの拳。特殊な力など宿っていない真っすぐな一撃。
一瞬しか生きえない彼に与えられた時間、それを集約した一撃。
対して、シルヴィアは──。
「──さようなら、アレス・ミザール」
アレスの拳を躱し、剣の腹で殴る。
それだけで、少女の攻撃とは思えないほどの圧力が加わりアレスは再び吹き飛ばされ──。
轟音をまき散らしながら、決着はつくのだった。
何も見えない、暗い空間だった。
そこで、アレスはただ上へと拳を突き出す。
「フ、ハハハ……これが、生きるということか……好きなことをして、嫌いなものから逃げて、時には困難に立ち向かう……まるで、本の中のような物語よ……」
少しだけ憧れていた。自由がなかったころは、目を輝かせた。
だが、アレスは最期に来て、それを得た。
理解できないはずの感情を理解した。
「もう少し早く、得たかったものだ……おお、あの時の言葉、今ならば理解出来るぞ」
──ありがとう。
アレスを『憤怒』へと昇華させたあの事件の幕引き。その最後に、少女が言った言葉の意味。
「全く……ままならぬものだ。だが……これでいい。迷うな、心優しき少女。お前の前に立ちふさがる『大罪』とはお前が救うべき対象ではない。俺達は化け物だ。救われていいはずがないのだ……」
優しすぎるのは時に短所となる。それが彼女の輝きを曇らせる原因となるかもしれない。
だが、心を痛めることはない。
なぜなら──。
「お前は、確かに救ったのだ。『憤怒』の俺を……長い間復讐に塗れた、この俺を……」
そうして、アレスは見えてきた光に手を伸ばして──。
「ああ……出来る限りならば、俺も、生きてみたいものだ……だが、それは許されんだろうなあ……」
最後にそんなありきたりな願いを呟いて──。
長い間、人間を苦しめてきた『大罪』。『憤怒』はこうして息を引き取った。
だが、後悔はない。なぜなら、彼は最期に救われたから──。




